魂は丸くないと玉が【歪(不正)む】、魂に心棒が出来ずに良心が真柱神とはならない

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    私は人の魂を見て来て、その魂に【良心神】の点数が出ることを見させられました。だが、そうしたことは今日までの宗教や精神世界で説かれたことがありません。だが、魂に点数が出ることは私以外にも知る方があり、私だけではないと安心したしだいです。

    最近、ある霊能力がある方から人の魂が見えるようになって、その人が見た知人の魂は○型ではなくて△型であったので愕然とした。道理で角ばかりが立っていた人だです。

    このように人々に他人の魂が見えて来るようになると、この人の魂は何だとなります。魂は丸くてもどす黒く汚れている。歪んでいる。変形している。捻れている。腐って来ている。臭い匂いを放っている。一方、あの人は光輝いている。そうしたことが一目瞭然となってしまうなのです。

     

    私が何故に大本教が世に出した【牛虎(ウシトラ)金神・国常立尊】様のことばかりを言っているのかと言いますと、鬼が云う【魂】のことを言わぬ神仏達の存在に呆れかえっているからです。一部の神仏のみが自分の魂を磨けと言われているだけだからです。

    この【鬼が云う】を世に出してくれたのは大本教なのです。

     

    私は最初の頃、魂に出る点数の意味がよく解りませんでした。何の点数だろうです。その当時は単に魂全体の点数だろう思っておりました。大雑把に言えばそれでもよかったのですが、厳密には違ったのです。

    イエスが説いたとされる「愛」の教えと、お釈迦様の菩提樹の下の悟りが「慈悲」だったとされていることから、そこにはさほどの差異はありません。

     

    私が子供の頃、私に臨んだ旧約聖書の神と称する声は、【そなたはイエスの愛の教えを何一つ恐れずに乗り越えて行け】でした。恐れずに行けとは、イエスの「愛」の教えが私が説くことの【障害】になるです。どうして「愛」の教えが障害になるのか?。イエスの愛の教え以上のものがあるのだろうか?。ただただ戸惑うだけでした。

     

    イエスの愛の教え以上の存在?

    その意味が解らずに来たのです

     

    そうしたなかで、数十年前に曹洞宗の機関紙たる小冊の中に、お釈迦様の菩提樹の下の悟りは慈悲ではなくて、【悪魔は実体を持たない現れであり、人には良心と呼ばれる神が内在する】と悟られたとあるのを見て小躍りしたしだいです。お釈迦様の悟りは「慈悲」ではなく、人には良心神が内在するが本当の悟りだったのです。

     

    仏教ではなく、日本神道で「みろく大神」を全面に打ち出した大本教が起きた時、多くの人にとっては何故に仏教ではなく日本神道が「みろく」神を世に出して来たのか奇異に思ったはずです。だが、誰にもその意味が解らなかったと言えます。

    それは大本教神諭が予告した「九つ花」を紐解けば、そこに「五十六億七千万」と「369」となる数字の仕組みの「みろく」神が、【言霊】の仕組みとして成り立っているという驚くべき仕組みがあったとなります。

    仏教でも「八十一体の仏」の形は出されてはいるのですが、その意味が今日まで何を語るのか意味不明でもあったのです。

     

    私が子供の頃、私に臨んだ旧約聖書の神と称する声は、【この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国であり、そなた一人だけにはその仕組みを見せるので、それを人々に説きなさい】と告げられました。

    私は、【この日本に満ちあふれている】とされるものが何なのかさっぱり解らなかったのですが、鍾馗神のご案内で中国で創造神とされる盤古大神に拝謁したことから大本教の「霊界物語」を読み、出口王仁三郎聖師の姿をした霊から「アラー」の神の示唆と、別の日に私の家の風呂場前で【漢字】と書かれた浴衣を着て立たれたことから、裸(ラ)身に成る前?。

     

    そうしたことから、大本教霊界物語の中の「盤古大神から日本の国常立尊に返還」の意味が、中国で造られた漢字を日本語の「感じ」に変換する仕組みに気づいたと言えます。

    ただ、その前に聖書に記載される【初めに言葉は神と共にあった。言葉は神であった】の言葉を構成する言霊が何であるかを知ったことから、私の神観は「百八十度」ひっくり返ったと言います。ここが解っていないと、大本教の演技が解らないのです。

     

    そうした中で、どうして私が【人に内在する良心神】に至ったのかは、別にお釈迦様の悟りが「人に内在する良心神」であったからではないのです。大本教神諭予告の「九つ花」を「ラ神論」で紐解いたからではないのです。

    最大の「理由」は【棒に巻き付く蛇霊】にあったのです。現実界ではなくて霊的世界の光景ですが、いったい蛇霊が巻きついている【棒】は何の棒かです。 考えて見るならば、心棒とは不思議な言葉です。心の棒ですが誰もそんなものを見たことがないのです。

    その棒が【魂の心棒】のことだと行き着くまでにはそれなりの時間がかかりました。何故ならば、誰もそれを教えてくれないからです。教えが出来るだけの御神霊が日本には存在しておられなかったからです。ですから、どの宗教書にもそうしたことが述べられていなかったのです。

    もし日本の伊勢神宮の天照皇大御神でも出雲の大国主命でも世にそうしたことを教えておられれば、人類はそのことに早くに気づいたでしょう。

     

    下記の図は以前のブログにも出したものです。

     

     

     

    最後の審判は【火の審判】と呼ばれていますが、

     

    火では無くて【光(火借り)】の審判

    良心神は蛇霊神と常に対峙(退治)する

     

    私達は日本神話の中で、素戔嗚尊の【やまたのおろち(八岐大蛇)】退治の話を知ると思います。これは大本教で語られた八頭神が悪かったにつながりますが、素戔嗚尊がその八岐大蛇たる大蛇の胴から取り出した剣を【天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)】と言います。

     

    天叢は、天が業(カルマ)を取る

    各自の魂の過去の業(カルマ)の清算は、良心神が解消する

     

    最後は魂の内部から発する「光の審判」なので、それが起きるまでは【天の岩戸閉め】でもあるのです。【天の岩戸開け】とは、各自の魂の内部(核)から光が出て来ることなのです。それは魂の「核」であり、魂の核爆発による光と言えます。

    予告され続けた「天の岩戸開け」。それ自体は魂の心棒に巻き付いている蛇霊が存在すれば、それを返して(帰して)しまう働きでもあって、魂の中に「心棒」があれば良心神たる心棒は育っているのです。聖書で人類の原罪とされる蛇霊の囁きから脱却する話です。

    これを日本神道に持って来ると【天の岩戸開き】となるだけのことです。一八十度ひっくり返せるので、【一八十(イワト)開】けに過ぎません。

    問題は、各自の魂の中に良心神たる「心棒」があるかどうかなのです。

     

    魂の【心棒】は心の棒ですが、心棒は【軸】で解るように

     

    魂が丸くないと、魂の「心棒」が育ち機能していない

    魂が歪んでいたり捻れていると、心棒が出来ていない

     

    私はその人の魂が歪(不正)んでいたり捻れていると、もっと【素直】になりなさいと申し上げています。神霊が見えるとか、神霊と会話が出来るだけでは魂に歪みがあったり捻れていると「心棒」が育っていない為に誤った方向に進みます。

    私が説いている【良心神】が何を意味しているのか、何一つ理解すら出来ないのです。

     

    大本教から【ス】神論が出ました。今日では多くの新神道系の教団では【スの神】として出していますが、それらの教えを言う神霊達も【スの神】の意味すら理解には至っていないでしょう。何故に大本教の出口王仁三郎聖師は【ス】の神を出したかです。ス神論は「素(ス)直」の意味ですが、ス神は「光」の神の意味ではないのです。

    私は大本教の出口王仁三郎聖師と思われる霊が私に対して、回教宣伝使の姿で【ア・ラー】だと見せてくれましたので、日本語のアイウエオで「ア」の門を出て「ラ」に行く【みのか尾張】の国から出る【41】の言霊の道だと理解出来ましたので、ラ神(良神・羅神)論に行けました。

     

    自分には神霊が見える。神霊と会話が出来。それで、これだけの仕組みをした神の存在が貴方に解るのですか?。と私は問うのです。仏教も聖書も含めた世界的規模の話だからです。

    霊が見える。霊と会話が出来ると言う者が千人万人に一人出て修業しても、その中から本物は万人に一人程度しか出ないとされる世界で、千人や万人に一人の段階で自分には大身の神名や天使名を名乗る霊が出て来ると言っていても、言葉の仕組みでなされた【良心神】が理解出来ないのは、その人の魂が丸い正球でなく歪んでいたりするからです。

     

    本当に魂に良心神が育っている方の性格とは、穏やかで常識人です

    別に霊が見えたり、霊と会話が出来るが条件ではないのです

     

    大宗教家に成るような魂の方は別として、単に神霊が見えるとか神霊と会話が出来る霊能力者の段階だと魂の点数は低く、社会で世の為に人の為に尽くして常識人で温和な性格の持ち主の魂の点数は、霊能力がある方よりも上回っているものなのです。つまりそうした方達は【菩薩道】に徹しておられるからです。

     

    世の為人の為の【世根(米)】の道は、菩薩道

     

    行者の末路は哀れなりと言いますが、霊能力を誇って地獄界に墜ちていく。私が伏見稲荷山の夏の宵祭り頃に御膳谷の清明舎で宿泊していると、真夜中に清明舎横の豊受姫の瀧とされる清明瀧から天津祝詞や般若心経を上げている声が聞こえて来ます。

    それは真夜中に人が瀧に入って祝詞やお経を上げているのではなくて、生前は行者であった霊達が本当の天国にも渡れずに、死後も瀧に打たれる行を積んでいるのです。もう、【哀れ】としか言えません。私は多くの行者霊が迷っているのを見て来た一人なのです。

     

    いくら霊が見えて会話が出来ても、良心神が解らないのは自己の性格を【悔い改め】なければならないのです。

     

    人としてこの世に生きている肉体の魂には天帝の分魂である【直霊】たる良心神は授けられていますが、死後の世界の魂には天帝の分魂たる直霊は存在していないのです。だから、神々には良心神を言っても解らないのです。

     

    ですから、【人に内在する良心神であり】

    死後の自分の魂には良心神は存在しない

    この世で人として生かされている間が勝負

     

    人の魂が歪むのは自分の行為の「不正」であり、人を恨む。人を攻撃する。憎む。自分勝手な行為。自分は偉いものだと変なプライドに支配される。そうした【心の持ち方】が自己の魂を歪ませるのです。

     

    貴方の性根は曲がっていませんか

    偏屈になると、自己の魂が歪みます

     

     

     

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    みろく世に適応した専用の【水晶玉(魂)】の中に【白十字】

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      つい最近、ある方からメールを頂きました。そのメールによると、その方の前に透明の水球が現れて、その中に白色の正十字が入っている。不思議なことに、その白色の正十字はどの位置から見ても正面に見えて来る。通常ならば正面に白色の正十字が見えるならば、脇から見るとそうは見えないはずなのに何故か白色の正十字が常に正面に見えて来る。それが玉だと解ったのは光の関係からです。これが貴方が説いていおられるみろく世における○十や水晶玉(魂)のことですかの質問です。

       

      大本教から【水晶魂(玉)】の言葉が世に出されました。今日までの魂は腐ったり捻れたりします。そうした状態になった魂は破砕されてしまいます。有能な霊能者の方達から、神社などに行くと霊能力がある人の目に微細なキラキラしたチリの様なものが見えるとされるのは、そうした破砕された魂の残骸との説も出されています。

      ある霊感者は神社に行って、そうしたキラキラしたチリのようなものが無数に見えて、自分の目に異常が起きたのかと思ったと言われましたが、そうしたことを教えて貰っていないとそうした思いをも抱いてしまいます。

      そうした破砕された魂の屑は「思念」だけを帯びているとなります。私の3回ほど前のブログに【壁を通過して来るオーブ】のビデオをユーチューブにアップした物を出しましたが、それらはカメラではレンズの関係で大きく見えますが微細な存在です。とても人間の魂と呼ばれる存在の大きさではありません。しかし、そうした霊物質の玉はこの世の次元とは関係ないことは映像から読み取れるわけです。

       

      この「思念」はかなりやっかいで、一度肉体から想念が出てしまうと、そのエネルギーが尽きる迄の間は消えません。人が生きていると実感できるのは「思い」を持つからであり、その思い(想い)が一切消えると魂でもその存在は価値を無くしてしまいます。

      この世は「四苦八苦」であり、「喜怒哀楽」は免れません。それが厭なら【無我】の世界しかなくなるのです。

       

      無我になることは、完全なる魂の死

       

      大本教神諭に、【自我があってはいけないが、まったく自我が無くても行けない】とありますが、完全【無我】となってしまいますと【自己の魂の消滅】になります。思考能力があると言うことが生きている証拠なのです。すると仏教で説かれる【本我・真我】と【無我】は本来は別物と解って来ます。

      創造神は【無我】かと言いますと無我ではなくて【有我】なのです。有我であるが故に万物の創造に入られたと言えます。創造神が「完全無我」の存在であれば、私達人類も万物も何も誕生していないのです。

      弥勒菩薩像の中には【思考】する姿がありますが、思考することは【識】の状態なのです。霊が見えるとか霊と会話するだけで、そうした【識】を否定していれば仏典の般若心経の「色即是空、空即是色、受想行識」を何も理解していないとなります。

       

      完全なる無我は自己の魂の命の消滅なので、その世界に四苦八苦も喜怒哀楽も輪廻転生も無い 。

      そんな世界に入ることが、人類の目的であったのだろうか?。

       

      みろく世は永遠の世とされますが、為には今の人類の肉体の中にある魂は腐ったり捻れたりする為に、新しい【みろく世に適した永遠性の命の魂が授与される】なのです。そこで、立替前の前宣伝として大本教から「水晶魂(玉)」が明らかにされたとも言えます。

      また、まったく新しい玉(魂)なので、ウシトラ金神として牛頭虎パンツの【鬼が云う】の物語が大本教霊界物語として組み立てられたとも言えます。そうでなければ、【節分の煎り豆にも花が咲く。三千世界一度に開く梅の花】などは宣伝としても出せないからです。

       

      この大本教の【水晶魂(玉)】に関して、ある霊能者は水晶玉など重たくて持てない。落としたら割れてしまう等と言っておられました。それは大本教が予告した「水晶玉(魂)」を西洋の魔術師が占いで使う水晶玉と混同したから言えます。私が出した壁を越えて来るオーブ玉のビデオで見られたように、その【水晶玉(魂)】はこの世の物質でありません。

       

      私にメールをくださった方が「水球」と判断されたように、【瑞(水)霊】の玉なのです。もしそれがこの世の水であれば、魂の表面に傷がつけば玉は破裂しかねません。表面は柔軟でありながら硬質という相反する特徴を持つのです。それは、この世の鉱物質で構成されているのではないからです。

       

      朝鮮に残されていた予言に、【最後の審判前、救世の為に「米」一字の教えが起きる。その教えが終わると最後の審判が開始される。その「米」一字の教えに従った者達の上には天罰は降りないが、その教えに従わなかった者達の上には天罰か降りる。その天罰を受けている中で「白十字」が現れる。その「白十字」によって助け出される。】との内容がありました。

      私はその予言を記した本は持っておらず、読んで記憶しているだけです。その著者名は忘れましたが、出版社は精神世界関係の本を多数出していた「たま出版」であったことは覚えています。だが、三十数年前の本でしたので、たま出版に問い合わせても今では解らないでしょう。

       

      大本教の霊界物語には【○十はみろくの神の御紋章の定めなり】とあるように、【みろく神】を意味する紋章です。そして、大本教神諭が予告した「九つ花」は【米】型で紐解かなければ意味が解りません。だが、大本教だけを見ると、その「○十」とは球玉の中に【白十字】が入っているとは書かれておりません。単に「○十」だけなのです。また、その○が球玉で霊的な「水晶玉」だとも書いてないのです。

      ですから、大本教神諭は【九つ花】を誠で紐解く者が出て来ないと、大本教が予告したウシトラ神の仕組みの意味も理解出来ないと予告して来たのです。

       

      西暦2015年11月7日付けの私のブログで【みろく世に行く切符。遂に(終に)確認された「〇十の降り注ぎ」】を出しました。そのブログ後に何人かの人から、霊的な話で現実にはそこには何も無いのですが、その「○十」を拾ったというメールを頂きました。それはみろく世に行くキップのことで、未だ【水晶玉】そのものではなかったのです。 いよいよ「玉」そのものが出て来たなのです。

       

      私は大本教で予告した【水晶魂(玉)】には何種類かの形があることをブログで書いて来ました。仏教系からは仏教を示す玉が出ますし、聖書系からは聖書を示す玉が出ます。日本神道系からは日本神道を示す「水晶玉」が出ます。

      その中で【○に白色の正十字】が入っている水晶魂(玉)を頂けるのは、【米】一字の教えから「みろく神」の言葉の仕組みを理解して、お釈迦様の悟りであった【人に内在する良心神】に向かった人達だけが、天から授かるものなのです。

      ただ、それは霊的なものなので、それが自分の目には見えなかったから【授与】されていないではないのです。「米」の教えをバカにしたり敵対した方達には出ないでしようが、「米」の教えを理解して【天帝】に向かった方達には授けられるものなのです。

       

      新しい玉魂なので、【鬼が云う】の仕組みが大本教から出たなのです

       

      大本教の出口王仁三郎聖師は、本当は「王仁(おに)三郎」でなく、「鬼(おに)三郎」と名乗るべきだったのです。そのことは、いくら神様でも鬼と名乗れはあんまりじゃで、「王仁」にしたと述べておられるはずです。

       

      無論、みろく世に渡るのは「みろくの仕組み」を説く「米」一字の教えを理解した者だけではなく、この仕組みを組み立てた根元となる「ウシトラ金神・国常立尊」を主神として信仰した方達のみならず、自分が信仰する宗派に良心神の存在の教えが無かったとしても、自己の良心を大切にして来た人達はみろく世にと進みます。

      何故ならば、天人達が噂話としてし言ったとされるのが、最後の審判は【各自の魂の良心神】の点数で判定されるからです。宗教宗派を問わず自己の良心を神的にして来た人達は、その点数は高いとなります。

       

      私が見て来た魂の良心神の点数が高い方は、どなたも別にスピリチュアルなどに惚けておられません。皆さん、まじめにコツコツと仕事をされ、よき社会人として生活され、先祖伝来の仏や地元の氏神様を大切にされています。別に神仏頼りではないのです。自己の良心に基づいて世の為人の為にと尽くして来た人達です。すなわち【米(世根)】だからです。

      では、神など無縁であった人達はどうなるのかとなりますと、その魂の汚れの状態において各自に【魂の洗濯】が起きます。その魂の洗濯に耐えれば、魂の汚れは洗われて行きますので、これもみろく世なのです。

       

      私は魂の洗濯は辛いので、早くから【悔い改めなさい】と言っているだけです。

      自分を悔い改める為には、良心神が必要だからです。

       

      同じみろく世に行くのであれば、何も辛い道を選ぶ必要など無いでしょう。 最後の審判の時には、日本の神社仏閣に鎮まる霊達も、全て魂の洗濯は免れないのです。

       

      私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、そなた一人だけにはこの神の仕組みを見せると告げられましたが、自分一人だけが見ていると思われる光景に関して絶対の確信は持てませんでした。そうした中で、大本教から予告された【水晶玉(魂)】を見る方が出て来られたことは、それが降りて来ていることを意味するのかとも考えられます。

       

       

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      三次元世界にしがみつく人、エデンの園(神の御国)に戻ろうとする人 その2

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        前のブログの続き

         

        一方、自分の魂は他の星からやって来たなどの感覚を持つ人は、あまり三次元世界に縛られるはありません。この世は「魂の修業場」であると理解が出来ていたりします。どちらかというと、早く「この世から去りたい」です。お釈迦様の教えである【この世は苦界】を理解するからです。魂の修業場は当然に【苦界】です。

         

        私が子供の頃、旧約聖書の神と称する声は、【人がこの世にある時間とは、魂にとっては修学旅行に出たような僅かな時間である】と告げられました。数日にしかならないと言うことです。

        大本教から、国常立尊は約三十五万年前に御引退と出されたことで、私はこの世の時間と神界時間には、約8765倍の差が生じていることに気づきました。霊界には時間は無いとされていますが、時間そのものはあるようです。あまりにも時間差がかけ離れているので無いとされているようです。

         

        私は現在72歳で肉体としては老人の部類です。だが、神界時間に換算すると3日間ほどなのです。まさに「修学旅行」のような期間に過ぎません。仮に元の神界に戻れたとして100日間ほどそこに居て、この世に来たならば「浦島太郎」の状態では済まないのです。

        この霊界時間は、次元によって違っているのではないかと推察されます。霊界でも中有界であればすぐに「輪廻転生」で人してこの世に出て来るとされますが、天国界に入れば次にこの世に出て来るのはかなり先の話になります。

         

        当然、第三天国、第二天国、第一天国界ではその期間の時間が違って来ますので、お釈迦様は自分は二度とこの世には降りて来ないと言われたとされますが、霊界の最上級界からでは途方もない先でないと無理ともなります。

        ただ、大本教の出口王仁三郎聖師や弘法大師さんや日蓮聖人さんなどの霊は、自分の教えを信じる信徒の為に、この世の霊界に留まって働いてくださってはいるなのです。為に、その霊的姿を見る方は出て来るのです。

        それは、この世の神社に鎮まって出て来られる神々と同じことなのです。多くの神社の御祭神が比較的若いことは知られていますが、神と言えども通常の神霊は「輪廻転生」の中にあるなのです。そこに日本の仏教においては、日本の神と言えども「輪廻転生」は免れないとして、日本の高い位の神には「大菩薩」の称号を贈ったともなります。

         

        仏教ではこの世の【執着】から離れなさいと説いたのですが、それが多くの人に届くこともなく、欲望心からの「執着」によって【蛇霊化】する魂が続出したと言えます。蛇の脱皮を財布に入れると金が貯まる等と、欲望からの「巳さん」信仰が盛んになったとも言えます。

         

        昔の方はそれほどでもなかったのですが、今の世に天国界に渡る人は数少なくなっています。昔の方ならば、天国に案内する道もさほど難しくはなかったのですが、今の天国の門が別に厳しくなったのではないのですが、人々が物質世界に対しての執着心から切れない状態に入って来ていると言えます。

         

        また、誤った宗教理論も出て来ました。そうした一つに【先祖供養】があります。肉体はご先祖と言うのは家系の血脈に依存します。しかし、個々の魂はその先祖霊と魂の先祖関係にはほとんどの場合無いのです。魂の世界での縁によって、その家に出るです。魂の縁と自己の魂の先祖たる霊脈とは違います。

        魂の先祖関係とは貴方は誰々の「分魂」ですで知られるように、本守護神とか正守護神と呼ばれる段階の霊にあるのです。それが自己の魂のご先祖であり、自己の魂の本守護神・正守護神に帰結の道を説かずに先祖供養を言うのは片手落ちとも言えます。

        時たまの事例として、魂の霊脈もあって同じ家で親子として誕生するはあります。また、自分自身がそのご先祖霊の生まれ変わりでその家に出るもあります。そうしますと、自分が自分であったご先祖霊を拝しているという事態も生じます。

         

        私が子供の頃、旧約聖書の神と称する声は告げました。【人は自分の前世を知らず。過去の自分が神としてどこかに祭られていることも知らずに、その存在を神として崇めることも起きて来る。人は自分の前世が神として祭られていると解っても、その前世を自分だと言って表に出してはいけない。今生の与えられた名前を持ってして、神と成る道を行くべし】と言われたのです。

        過去の自分がどれほどこの世での功績があって、どこかの神社で神霊として祭られていようが、この世に出た肉体の身は、その身で【神上がり】をしなければならないなのです。その証拠に過去世の功績でいくら神として祭られていても、肉体の魂の今生の行いが悪ければ地獄落ちもあるのです。

         

        魂には、過去の名前で出ていますは通用しない

         

        家系のご先祖霊も天国界に入ってしまいますと、この世の家系の子孫との関係は切らなくてはいけません。この世の者と関わってはいけないのです。それは天国界の掟だからです。そうした話は聞かれたと思います。

        ただ、天国界に渡れなかった先祖霊にすれば、この世に輪廻転生で出て来られないとすれば、肉体の子孫に助けを頼らざる得ないとはなります。先祖供養の本質の意味合いはそこにあると言えます。 ご先祖霊もこの世に「輪廻転生」で人として出て来てしまえば、ご先祖様、ご先祖様と言っても、もうご先祖霊としてはどこにも存在していないのです。先祖霊としての供養の対象の霊とは、「輪廻転生」のシステムの中では、まだ天国では無い霊界に留まっている霊が対象なのです。

         

        ご先祖霊が全て天国界に上がれば

        家系の先祖供養は必要無し

         

        ある霊能力がある方が、自分の背後に憑いた神霊に対して、自分の肉体の親はどの世界に行ったかと問いただされたところ、その背後の神霊は【行くべき世界に行った。それがどのような世界かは知らない】と答えたそうですが、それが「正解」なのです。

         

        この世に生きている時に、天国行きのキップは手に入れる

         

        私の最初の師匠は豊受姫のお代でしたが、相談者から「先祖供養」を頼まれると、神は先祖供養は受け付けない。先祖供養をして欲しければ「坊主」のところに行けと、ピシャリと断っておられました。

         

        先祖霊を上げるは、神様に頼めば何とかなるの話ではない。

         

        神界と仏界は同じだと言われる霊能者の方もあれば、神界と仏界では行く先が違うとされる霊能者の方もあります。霊と言う面では同じでも、その世界は同じではない為に、大本教神諭には「モウ仏(物)の世は終わった」という内容が出て来ます。

         

        仏の世を必要とするのは【輪廻転生】がある期間

        輪廻転生の世が終われば【仏】の世は消えるのです。

         

        すると、先祖供養の問題はご先祖霊が「輪廻転生」でこの世に出られるまでなのです。だが、そこには「怨念、執念、執着」から脱却させるが必要なのです。そうでないと、どうしても家系の子孫にそれが降り懸かるなのです。

         

        地獄の沙汰は金次第と言いますが、子孫が先祖の罪を償うで、世の為に人の為に尽くされれば、その地獄の沙汰は変わります。お坊さんに高い金額の戒名料を付けてもらうことではないのです。

        そのご先祖が生前、世の為人の為に何もしなかったことに対して、子孫がそれに代わってすることなのです。

         

        そうすれば、先祖が犯した罪の過ちも

        羊の言たる善(譱)の羊から良心神が出て来る【養】でしょう

         

         

         

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        三次元世界にしがみつく人、エデンの園(神の御国)に戻ろうとする人 その1

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          私達が持っている魂とは、元々【高次元世界】に所属している存在です。しかし、私達人間は魂に肉体と言う物質界の服をまとった為に、どうしても三次元界という社会の概念に縛られてしまいます。【物質界の欲】です。

          古来より、【賢者】達はそうした肉体の束縛から脱出する道を説いてくれました。仏教における【この世の執着心】から離れよはその典型たる教えです。

           

          そして、説かれて来たことは人の執着心は魂を【蛇霊化】させるです

           

          聖書における人類の原罪は【蛇霊の囁き】です。すなわち、蛇霊の囁きから脱出が出来た人だけが、エデンの園たる【神の御国】に戻れるのです。意外なことですが、聖書の教えも仏教の教えも中味的には【蛇(執着)心】から離れなさいと説いているのです。

          私は【悔い改めた蛇霊神】は、現実界の蛇が棒の様に直立をして、その蛇霊神は麗しい元の天人の姿に戻って、本当の【天人界】に入ると書いて来ました。

           

          何が大切かと言いますと、自分を【悔い改める】なのです

           

          私が説いている【人に内在する良心神】は、自己に良心が備わっていなければ【悔い改める】が出来ないからです。良心無くして、【悔い改めが出来ますか?】、と言っているのです。

          それは、人の魂の心棒に蛇霊が巻き付くと、人は蛇霊の囁きに対抗できなくなるからです。蛇霊が人の魂の心棒に巻き付く心棒そのものが【良心神たる真柱】なのです。ですから、スピリチュアルで「愛」ばかりを連発する人は、良心神を理解することは出来ません。愛では何をしても赦されるで「悔い改める」ことが出来ないからです。

           

          日本の神智学では、愛の教えばかりを言っている者は蛇霊の唆しにあっているとされますが、イエスの教えの本質は「悔い改める」でした。しかし、新約聖書は悪魔達に支配された牧師達によってある会議でその内容か書き換えられたとされます。「愛」さえ言っていれば、自分は正しい者と見なされる。そうした錯覚からでしょう。

           

          私が子供の頃、旧約聖書の神と称する声は、【旧約聖書は我が書であるなれども、その内容は暗号化されたものであって、表面通り読めば意味が解らぬ】と告げられました。為に意味がよく理解出来ないので、悪魔に支配された司祭や牧師達も意味が解らずにそのままにしたのでしょう。逆に暗号化されていれば意味を紐解くことは困難となります。

          私は日本神道の世界に足を踏み入れて、日本神道は「旧約聖書の世界」かと戸惑いが生じました。そうしたことは一部の人達から日ユ同祖論として出ていますが、それは今の人類以前に源があるのです。そのことは今の日本の神社に鎮まる若い御神霊達が知る内容ではないのです。

           

          ユダヤ教は旧約聖書でも「タナハ」とされるトーラー・モーセ五書を指します。イスラム教はコーランと旧約聖書。キリスト教は旧約聖書と新約聖書ですが、キリスト教はその重き比重は新約聖書でイエスの教えとされるものです。それを私に臨んだ旧約聖書の神と称する声は、【新約聖書は人の子達が為した書】と言われたのです。書き換えられているからです。

          このユダヤ教とキリスト教とイスラム教の三宗教に共通するのは【旧約聖書】なのですが、単に読めば恐ろしいだけの書です。この神を信じない者達は奴隷にするとか、割礼をしていない者は赦されないなどがあります。それらは「暗号」だとは理解されずに、それに引っかかったのが独国のヒトラーと言えます。

           

           

          大本教の出口王仁三郎聖師は、地元の古老達の話によれば、元の金龍池の周囲を下半身の裾をまくり上げて性器丸出しに見せて歩いておられたと聞きました。地元の人達からはとんでもないうつけと思われたでしょうが、まさに珍(うず)の宝を見せておられたわけです。それで「割礼」の意味もある程度解けるのです。

          それは、節分の煎り豆にも花が咲くの【牛虎(艮)金神】が「鬼で云う魂論」と解っていなければ意味は紐解けません。また、魂の中には心棒があるを知らないと無理です。魂の【心棒】を真柱とも言います。仏教で男性のシンボルを「魔羅(真ラ)」ともしますが、割礼の本来の意味がどこにあったかなのです。

           

          性器とは、生まれながら心の器

           

          私は大本教の出口王仁三郎聖師の姿をした霊から、天帝はアラーの神との示唆を受けました。大本教からは「いろは」の言霊が出されたのですが、アイウエオの「ア」門を出て「ラ」の言霊に行く道筋となります。

          大本教からはアイウエオの第十三番目「ス」の神論が出されたのですが、それは霊界物語第十三巻にある【信天翁(あほうどり)】において、この大本教に現れた変性女子はニセ者だ発言で、「みのか尾張の国から現れる」と言葉の道の示しが出されていたとなります。美濃か尾張から出る道は国道は【41】号線です。

          それは、「ひふみ」で演じれば41番目は「スの神」となりますが、それでは大本教神諭予告【九つ花】は織れません。日本語の「アイウエオ」で、太陽神「アモン・ラー」で言えばアイウエオの第41は、「ア」の門を出て「ラ」に至る道筋となります。

           

          それは何を意味しているかとなった時、「ラ」には「良」の漢字が当てられますので、お釈迦様の本当の悟りは【人に内在する良心神】であり、大本教神諭が予告した【九つ花】を紐解けば、そこに「みろく(369)と56億7千万」の数字が浮かび上がって来るとなります。

           

          そこに【神代七代】の仕組みを終えて

          次は【神代八代】に入る仕組みが読み取れるわけです

           

          神代八代とは、「8」は無限(∞)を指して来ますので【永遠の世】と言えます。為には、蛇霊からの「解脱」をしなければいけないのです。

           

          聖書にあります人類の原罪。蛇霊に唆されてエデンの園(神の御国)から追放された人類ですが、大本教霊界物語にあります国常立尊の追放劇も、蛇霊の囁きに毒された当時の神々の多数派工作によるものでもあったなのです。

           

          蛇霊と共に神の御国(エデンの園)から追放された人類

          神の世界に帰還する為には、【巳(蛇)帰る】が必要なのです

           

          力を持たれた優秀な霊能者の方達は、魂の蛇霊化は【奢った権力、莫大な財、怨念、執念、執着】。そして、【色情】から魂が蛇霊化することは御存じなのですが、単なるスピリチュアルと本当の霊能者の違いはそこにあるのかも知れません。

          ある方が大本教霊界物語を読んで、結婚は二度までしか許されないと書かれていたことに対して、何回結婚しようが不倫をしようがそれ認めないような神ならば、まつぴら御免だとブログに書いておられましたが、全ての魂や神々が天帝たる創造神に遵(したがう)はあり得ないのです。為に、永遠の別れの時が近づいて来ているのです。

           

          創造神に遵(したがう)は、尊(御言)の道を行くことであり

          その神霊の力が強いから従属する従うではないのです

           

          聖書に龍神とは霊界の年老いた大蛇霊とあるように、蛇霊神の力は非常に強い為に、それと面と闘う方は数少ないと言えます。霊能者でも命あつての物種です。しかしながら、それでは長いものに巻かれろで「正義」は死んでしまうのです。

           

          私が 現在の神界は善悪ではなく、どれだけ【力】があるかだと言っているのは、そこにあります。蛇は【力】の象徴でもあるからです。

           

          ただ、全ての蛇霊がこの世で言う悪の存在ではないのです。例えば、その地域と住民を守りたいという念から力を欲して蛇霊となって龍神化して、その地域と住民を守護している例があります。しかしながら、それは主の神からすれば、もうその仕事はいいから、自分の魂の身を洗って天に帰りなさいがあります。主の神は怨念とか執念心を嫌っておられるのです。

          私は以前ある事件で、弁天様のお使いの10メートルもあろうかの大白蛇霊に出会ったのですが、その息の臭ささに閉口したがあります。「臭い」ということが、問題を提起しているのです。

           

          エデン園(神の御国)に戻ると決めたならば

          蛇を自分の身から帰らせる【ミカエル】の作業が要る

           

          だが、蛇を帰らせてしまうと自分に備わった霊力を失うなので、霊能者商売をしていると死活問題になりかねません。 神の御国(エデン園)に帰るには、この世に対する「執着心」を捨てなければなりません。この世(三次元世界)に執着すれば、元の神たる世界には帰れないと覚悟しておくべきなのです。

           

          日本の神社に見られる「現世御利益」は、人の目には見えない霊的世界の存在が解るように許されて来ました。また、人々の目が霊的世界に目が向くように奇跡的の示しもありました。

          しかしながら、多くの人はそうした「奇跡」や「現世御利益」に触れたとしても、意識の面で人は元々高次元世界の住人であるの意識まで到達しなかったと言えます。ただただ現世御利益をくださいにしがみついた節があります。

           

          創造神は私達肉体が生きて行く為に、この地球に空気や水や太陽の熱を与えてくれました。そうした自然を見て【神の息吹】を知るべきであったにも関わらず、それすら理解出来ていないのです。日本の神社に存在する神霊段階では、空気も水も太陽の熱も人類には贈れないのです。

           

          私は子供の頃、人々が自然を見て「神の息吹」を感じないことに不思議な違和感を感じていました。

           

          次に続く

           

           

           

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