日月神示に99%(九十九)迄は邪神とあるようですが、そこから残る「一厘の秘密」が言われています。一厘だけが正しい神です。この九分九厘は大本教神諭にも盛んに出てきます。邪神でも九分九厘迄は行けるです。しかし、最後の一厘には行けないです。つまり正しい神達には存在していても、邪神には存在していない物となります。
その解釈にいろんな意見があり、百引く一だから「白」だと言う方もありました。それに王の字を加えると【皇】の字になるなどと解釈は様々です。しかし、それでどうしてそれが秘密なのとなります。
大本教霊界物語には「一厘の仕組み」が説かれています。霊界物語における一厘の仕組みとは、国常立尊がシナイ山にその時の為に隠し埋められた神宝で、それを使用されることが一厘の仕組みとありますが、それをあまり論じても意味がありません。そもそもそのシナイ山そのものがどの山かという論議すらあるからです。
霊的なものは隠し埋められていたとしても、それを掘り当てるなど至難と言えます。
大本教神諭は【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を予告しました。但し、これは【誠の者】でないとそのお世話が出来ぬです。誠は「言成る」です。当然に「言霊」のことだと告げられているわけです。
しかしながら、この日本で【言霊】と言った時、幾度も言いますがそれが解る霊能者の方など若干名なのです。ほとんどは、自分には霊が見える。霊と会話が出来る。自分に高い神や天使と称する霊が下りて来るから自分は特別な者だ。で、終わっているのです。 大本教神諭は「一厘」ではなくて【一輪の火水(言霊)の経綸(しくみ)】としたことに意味があるのです。
一輪ならば「九分九厘」の残りの一厘とは当然に意味が違い、誰もそこに「一厘」が秘められているとは考えないからです。しかし、ひら仮名にすれば一厘も一輪も「いちりん」は一緒なのです。引っかけと言えます。
大本教で神旗とした【九曜紋】を「九つ花」と解釈すると答えが出ないようになっているのです。単に九つ花に一輪だけ咲く言霊で終わります。誰がそこから紐解けるのだとなります。そこに【唯一】の意味が秘められるのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は【神の九十九(つづら)織り。織られた物を見ないと意味が解らない】と告げておられます。
そこに出て来るのは、「九十(と)九織り」なのです。九×(と)九
九と九。縦に九つ。横に九つ。それを縦にも横にも斜めにも総和を【三六九】と織ることによって大本教が世に出した「みろく」神の言葉の意味を出し、その「九十九織り」の真ん中に【みのか尾張の国から出る】国道41号線に載せまして「一輪の言霊」が出て来ます。
それを大本教が出した「いろは」ではなくて、日月神示の「ひふみ」の並びの41番目の言霊を持って来ると【ス神】論となりますが、それでは九つ花は無理なのです。で、アイウエオでもアオウエイでも41番目は【ラ神】論となるのです。その「ラ」の元の漢字は「良」。お釈迦様の本当の悟りであった【人には良心と呼ばれる神が内在する】となります。
しかも、この九つ花の仕組みはお釈迦様の本当の悟りを告げる弥勒菩薩の【五十六億七千万】の数字の意味すら紐解かせることが可能となっているのです。大本教ではそれを簡単に【五六七】としたので、少し意味が解りづらいはあったのです。
正しくは【5670000000】と「0」を七つ付ける必要があるのです。今日まで七度、霊(0)界が立ち。次は無限(∞)を意味する八度目の【ダルマの七転び八起】となるからです。ただ、それは大本教神旗の九曜紋ではなくて【九つ花】を見ないと出せないのです。
つまり、出口王仁三郎聖師が告げられた【九十九(つづら)織り】を見ないと意味が解らないなのです。
さらに、それを理解するには【龍宮の音秘め】の理解が要ります。
巷には自分が「みろく」神です。「イエスキリストの再来です」。「お釈迦様の再来です」。「創造神です」。そうしたことを名乗る人が目白押しにおられます。そんな人の数など百人どころではありません。
最近も、自分がみろく神です。ゼウスの神を倒しました。そうした文面を幾つも寄せて来られた方があります。本人は本気なのでしょうが、こうした方は何を言っても自分の意見を曲げられません。なまじ霊が見えたり、霊と会話する霊力が備わっていると、霊界からの思い込みをさせる【罠】に見事に嵌まってしまうのです。
霊的世界を見る能力と精神病は紙一重とされます。最初は霊的な事柄が見えていたとしても、やがて妄想に支配されて精神科のお世話になる。私は、そうして命を絶たれた若い救世主を自称する者の悲しい結末も見てきました。非常に危険なものとして「ヘミシンク」が言われています。その人の脳(精神)を破壊して【妄想】の世界を体験させるがあります。同様に覚醒剤等も使用すると妄想の世界に入りますが、そうした妄想で見る世界と本来の霊的世界とは違っているのです。道理をわきまえていないと霊に食い物にされる危険性がある世界なのです。
国常立尊(ウシトラ金神)の御引退後の地上神界の主宰神はゼウス(ジュピターたる木星神)で、中国での名は盤古大神(木星神)とされます。私は鍾馗神のご案内の元にその盤古大神に拝謁しましたが、それは数千体に及ぶ将軍霊と、その将軍霊の部下達たる数万体霊にも及ぶ中での出来事でした。
自分はそのゼウス神と一対一で戦って倒した。で、自分がそのゼウス神に代わって最高神となった。私から言うと、仮にも本当のゼウス神であるならば、それにはとんでもない数の部下霊達が従っているはずなのです。その防衛陣を突破して一対一の闘いなどあり得ないわけです。 だが、この手の方はそうしたことをいくら言ってあげても、自分が見た霊物から脱却出来ないが起きるのです。
よくよく考えれば、自分が一対一で地上神界の最高神と戦って勝利した。それは単なる妄想か霊界が見せる【罠】のどちらかに気づかなかったなのです。
私はこのブログ上で何度も書きましたが、自称みろく神。創造神と称する人達にはそれなりの霊力を持った方達が多いのです。現実界に及ぼす力も多少はあったりします。為に、その方がみろく様とか創造神だと信じる信徒もそれなりに出ます。あの方は、超大型大地震を事前に食い止められたなどです。多少なりとも人にそうした存在だと思わせるだけの奇跡力は持っておられるからです。
ただ、ほとんどの方は自分がみろく神とか創造神だと称するにはあまりにも背後に居る霊の数が少なく、数十体から数百体程度なのです。それらの霊がその役割を変えて、俺々詐欺の様な劇場型を演じているなのです。
その方の背後に何万体とか何十万体とかの霊が従っているならば、かなりの霊力がある方となりますが、そうした背後霊団が存在しないと霊界では戦えません。その方にそうした巨大な背後霊団が存在しないとなれば泡沫と言えます。
それは一種のオーラとも言えますが、霊能者としての霊力が強く出ているです。本当に霊力がある方は、出会った時点やその姿を見かけた時点で解るものなのです。単に本人の自称の名乗りで動かされるものではないのです。
平安時代の武将ならば、武将同士の一対一の戦闘はあったでしょうが、戦とは大軍と大軍がぶつかり合うです。敵の大将の首を落とすには、その防衛陣を突破しなければなりません。単騎で向かってその防衛陣を突破出来るではありません。
今の神霊世界は数は力なりで、霊的に言えば重戦車やミサイルの働きを兼ねた様な龍群と龍群とをぶつけるとなりますので、その人の背後に従う龍神の数が桁外れに存在して来なければならないのです。部下無し将軍では戦えないのです。
ある自称大天使は、自分は宇宙から二千億体の龍神を動員出来ると豪語されていましたが、その人の背後には数体の黒龍神がいることは認められました。しかし、宇宙から二千億体もの龍神を動員出来るかとなると疑問は生じます。この地球上に居る人間の数など100億人にも満たないからです。
一部の方の説では、国常立尊は最終場面で宇宙から「九億九千万体」の龍神を従えると言われていますが、いずれにしても龍神と呼ばれる様な強力な力の動員力が鍵を握るなのです。
聖書には【ハルマゲドン(殺戮の丘)】が出て来ますが、それは人と人との闘いではなくて、【神界最終戦争】が私の見立てです。神界の神々の最終戦闘において神々の血の雨が降るです。空には無数のUFOも飛び交うでしょう。
ある霊能者の方の元には数千体にも及ぶ騎士団の霊が集結していて、既に蛇霊の掃討作戦が行われているとの連絡もありますが、神と神が一対一で我こそは何々であると名乗りを上げて戦うなど漫画の世界の見過ぎと言えます。
九分九厘邪神とは自称者100人の内、自分一人が本物だ!。ではないのです。各自の魂の内部の【核】であり、天帝の分魂(直霊)であり、自分の良心として働く神の力。
それが国常立尊の言霊による【九十九織り】の仕組みで、出口王仁三郎聖師が告げられた織られた物(九つ花)を見るまでは意味が解らないで、自分が「みろく」神ですと名乗るような話ではないのです。
そこにあるのは一厘の秘密ではなく、【一輪の言霊の経綸(しくみ)】なのです
大本教神諭。大正7年旧正月12日記。
【一輪の火水(言霊)の経綸(しくみ)がいたして在りて、綾部は三千年余りて昔からの神の経綸の致してある結構なところ】
大本教神諭。明治31年旧11月5日記。
【九つ花は誠から咲かせる花であるから、三千年の経綸を致した。誠の本であるから誠の人の世話でないと、このお世話は出来んぞよ】
大本教神諭の三千年とは、日本語の仕組みにはそれだけの時間は掛かります。日本では皇紀を叫ぶ人達がありますが、平成30年は「皇紀二六七八年」で、それ以前からと言うことになります。しかもその仕組みには、お釈迦様もイエスもモーゼも仕組みの中に入っていたということなのです。
何故にウシトラ金神国常立尊は神力の発動ではなくて、言葉で仕組まれたのか?
それは、巷に自分が「創造神」だとか「みろく」神と称する者達が大量に出て来ることなど最初から解っておられるからと言えます。だが、そうした霊達とそうした霊達に支配された肉体達では【言葉の仕組み】を創ることも出来ず、また、その仕組みを解読することも出来ないなのです。
私の役目は子供の頃に旧約聖書の神と称する声が告げられた、【そなたには何の力も与えない。この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国であり、そなた一人だけにはこの神の仕組みを見せるので、そなたはその仕組みを人々に告げなさい】でした。
そうしたことから私は何の力も持たないので神たる武力行使はしていません。しかし、私の前で自分はキリストです。みろくです。そんな名乗りは一切通らないのです。最初からそうした名乗りをする者は本人が邪神に欺された者か妄想による者とか、誠の者だから解るのです。その意味では九分九厘が邪神なのです。
もしも、なまじ力がある霊から神力を授かってしまいますと、自分を助けてください。自分を助けてください。そうした人が連なって自分の元に助けてと来るとなります。その結果、宗教家と呼ばれることにはなります。しかし、そこに出て来るのは【他力本願】だけであって、その人の魂の根本的救いにはつながらないのです。
自分がみろく神です。キリストです。救世主です。そうした名乗りは、自分を高い者だと人々に思わせたい欲望となるのです。
為に国常立尊様は、旧約聖書の時代から予告されていた男女の二人の大預言者を先発させて、真理(キリスト)を告げる【九つ花】を言葉で解読出来る【誠の者】を使わしたなのです。
私が初めて伏見稲荷山に上がった時、豊受姫の神は【貴男は言葉の神と呼ばれる貴きお方です。貴男の言葉による教えは天帝の「詔」と同じであり、貴男の言葉による教えが聞けぬ者は如何なる神でも天帝に対する反逆罪として裁かれます】と告げられたのですが、その時の私は正直言って何のことか意味が解らずにキョトンとしていました。
外国に残されていた予言に、【ユダヤ人ではなく、異国の人が異国の言葉で主を語る。その人はその国では「言葉の君」と呼ばれている。言葉の君は自分は主を知らないと言うが、主は言葉の君を知っていて、終わりの日。万軍の主は言葉の君を主の元に召しい出す。その時をもってユダヤ人は助けられる】とありまして、ヘブライ語ではなくて異国の言葉たる日本語で主を語れるのかと取り組んだだけです。
ですから、私はみろく神でもなければメシアでも無いのです。みろく神もメシヤ(飯屋の米)も全て日本語で解読される「言葉の仕組み」だと言っているのです。
私が神霊界修業に入った5年後に、大本教の出口なお開祖霊が私に懸かって出て来られて、霊媒通しで【大本教はまな板の鯉。その鯉をどう料理するかは料理人の腕しだい】と告げられたことから、五月五日の鯉の料理に入ったと言えます。
私が子供の頃、私に臨んでいたのは旧約聖書の神と称する声でした。別にその姿など見たこともないのです。だが、長じて昭和五十五年から神霊世界に関わって、幾多の霊能者の方から貴男の本守護神は「国常立尊」様ですと告げられて、どうして私が子供の頃に臨んだ声は旧約聖書の神と言ったのか?。
しかし、それは大本教出口王仁三郎聖師が告げられた【自分と開祖(出口なお師)は旧約聖書で予言された男と女の二人の預言者である】からによって、旧約聖書の神と【国常立尊】は同一神であるが解って来たと言えます。
では、その男女の預言者の後に出て来る【メシヤ(救世主)】とは、誰ですか?
それが大本教神諭が予告した【九つ花】なのです。九を制する主。
旧約聖書に予言された男女の預言者たる役目は、大本教出口なお開祖と出口王仁三郎聖師の二人が勤められ、各自の魂に自己の救世主たる【メシヤ(みろく)】が秘められたなのです。それは自分がキリストだとか弥勒神だと名乗ることではないのです。
朝鮮に残されていた予言。最後の審判前、救世の為に【米】一字の教えが起きる。その米一字の教えに従った者達には最後の審判において天罰は降りない。全て赦される。だから、【米であり飯屋(メシヤ)】の教えと言えます。言葉遊びではなくて天帝の言葉による仕組みなのです。
自分が「みろく」神ですとか、「キリスト」ですとか、「救世主」ですと名乗ることは許されていないのです。
救世主は【九制主】の【米型】で【三六九(みろく)】
大本教神諭は全編「ひら仮名」。救世主も九制主も同じ「きゅうせいしゅ」。
この言葉の仕組みを創った神の「栄光」を讃えるべし
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