西暦2018年を表す漢字一字は「災」と決定したが、本当の「災」はこれから先

0

    西暦2018年を表す漢字一字は「災」の漢字となりましたが、西暦2018年に世に起きた数々の事柄は【災い】というほどの出来事ではありませんでした。

    西暦2018年は犬年で、祓いの犬年の効力は西暦2019年の節分の頃迄ありますが、祓い年の効果で少しだけ諸悪が世の表に出て来た程度のことです。本番はこれから先と言えます。

     

    大本教の出口王仁三郎聖師は、【広島や長崎に新型(原子)爆弾が落ちて火の雨が降る。その後に黒い雨が降る。】と予言されて、広島には原爆投下後に黒い雨も降って見事に的中したのですが、その予言がなされたのはそれよりも3年〜4年前と言われていたかと思います。予言が的中して来るには時間が掛かるなのですが、そんな先まで見通している神があったなのです。

    広島や長崎に新型の爆弾が落ちて火の海になったとの情報が持たされた時、大本教の信徒が出口王仁三郎聖師が最後の時は【火の雨】が降ると予言されていることで、広島や長崎が火の雨になったことですかと質問したところ、あの程度の生やさしいものではないと答えられたことが知られています。

     

    人の火によるものが【火】で、天から来る火を【災】と言います

     

    天からの火の災いとは【裁の左下が衣でなく火】で、裁きの時 

     

    また「栽培の栽」の字の左下が木の字ではなく火です。サイという漢字なのですが第4水準漢字なので、その漢字が出る機種もあれば出ない機種もあるので、ここでは示しません。意味は、地を祓い清める意に戈の漢字がついたものです。神の裁きの火で清める意味があるのです。

     

    出口王仁三郎聖師の予言は、【月の表面が崩壊して、月からの隕石が火の雨のごとく降る】ことを予言されたのだと思われます。その時は月と地球が引き合う「引力」そのものがおかしくなっているからです。人は誰も地球の核たるエネルギーの異常で地球の自転力や引力がおかしくなるなどとは思ってもいません。そんな日が来る等とは科学者も予想だにしていないからです。

    一部の新地球論者の中には、その時の今の地球は幽霊地球で宇宙のゴミと化すなどの論があります。そうした意味を解説しているのが筆者の【上野公園】のホームページです。来年が平成31年になりますので、約10年前の節分明けに開いたHPです。 但し、Pc上ではダニエル(神は我が裁き主)の「バタフライ」の曲が流れますが、スマートフォンでは音楽は流れないようです。

    http://uenokouen.com/

     

     

    私が霊的に見せられた映像は、地球を動かす原動力のコントロールが出来なくなる光景と、地球が自転を止めることによる引力の壊失です。その時には、時間すら止まるなのです。

    しかし、創造神と呼ばれる神に従う人達にとっては何の心配も要りません。創造神が人類に約束されているのは、多くの神諭などでも既に宣伝されて来た【嬉し嬉しのみろくの世】に入るからです。巷で自分か救世主ですと名乗っている人を拝むことではありません。土下座をするならば、イスラム教徒のように創造神だけにせよです。

     

    一人一人の魂の【核】には、天帝の分魂である良心を司る神が存在するからです。

     

    それが、聖書にある

     

    神は汝と共にありなのです

    みのおわりの瑞霊の女子の意は、【汝】の字の中にあり。聖書の神の【花嫁】たる意ともなるのです。

     

     

    今年驚いたのは日産自動車の会長であった「カルロス・ゴーン氏」の不正の数々でした。権力の座に長く留まれば自分が腐敗するの典型と言えます。また2018年は自動車産業界における不正検査もこれでもかこれでもかと数々も出て来ました。

    日大フットボール事件は日本大学の恥部まで晒け出すになりました。トップに座っている理事長は如何なる者かです。大学の問題では東京医科大学が文部省の高官の子息の裏口入学のみならず、女子受験生に対する入試に対する不正操作事件まで暴くことになりました。そして各大学の医学部に波及しました。

    また、企業でも数々の不正が公になり、あちらこちらで謝罪会見の連続で、如何にこの世が不正義で溢れているかを世間に見せつけました。

    相撲の世界では横綱日馬富士の暴行事件から、相撲協会の隠蔽体質、古い感覚から抜けきれない親方衆の体質。貴乃花親方に行き過ぎはあったとしても、貴乃花親方を引退に追い込んだ親方衆の虐めの体質等が浮き彫りになりました。だが、それを改革しようとする親方も今の相撲界には居なくなっているとも言えます。感情論ばかりで動くからです。

    自己の感情云々ではなくて、何が正しいかで正しいことを遂行する意識が抜けているのです。人は感情動物だ!。それのどこが悪いかと息巻くことではないのです。 情に棹させば舟は流されるのです。

     

    隣国韓国においては理性より感情や情緒に支配された「ポピュリズム」によって、法の番人でさえ「法」の解釈をねじ曲げるが起きています。もしも法に従って判決を出せば、ポピュリズムで暴走した暴徒によって自分の命を狙われかねません。法の番人たる信念よりも、暴徒から自分の命や身の安全を図るとなります。

    現に韓国では労働者の暴徒と化したデモ隊に、警察が取り締まれない。警察がデモ隊に謝罪に追い込まれるなどの本末転倒の出来事も起きています。文政権になってから警察もデモ隊が暴れるがままにさせるより方法が無いです。もしもデモ隊を取り締まれば警察幹部の首が飛ぶことになりかねないからです。皆、何が正しいかではなくて自分の保身です。

    ポピュリズムとは、大衆の欲求不満や不安をあおってリーダーへの支持とする手法で、その手法でその国のリーダーになっても、民主政治は衆愚政治となり、大衆のエネルギーは自由を破壊し、集団的熱狂に向かうなのです。

    そうなると、その国のリーダーに何を求めて解決は出来ません。大衆の顔色ばかりを伺い。自分の地位を守ることに必死になって、何の策も無いとなります。私達はその現状を今の韓国から学んでいるとなります。

     

    これは以前からあることですが、今年は高金利の配当を歌った詐欺まがい企業の経営破綻が二つありました。一つはジャパンライフで負債総額が2400億円以上。一つはかぶちゃん農園で知られたケフィア事業振興会の1000億円。

    ほとんど金利がつかない銀行利子に対して、高金利が約束される。監査法人も何もない事業。それをおかしいと気づかないと言うのは騙した方だけが悪いのではなくて、騙された方もおかしいのです。そんな高金利で世間から集めなくても、今の銀行は貸出先に苦労しているのですから、もっともっと低い金利で銀行が貸してくれます。銀行が危なくて貸せない事業者と解ります。そうした業者の魂胆を見抜きなさいなのです。

    人は全て善人などと思っていると危ないのです。人は【霊止(ひと)】であり、邪神邪霊の容器と化している人達も多いのです。見かけでの判断は禁物なのです。 

     

    こうした企業や組織の暗部は内部告発がないと出て来ません。しかし、それを告発すると言うことは自分の命を賭けた戦いともなりかねません。

    雪印食品の牛肉偽装に関わる不正事件を内部告発した西宮冷蔵の水谷社長は、偽装工作に加担したと当局から営業停止を受けて会社は傾き、また同業者からも裏切り者として非難され、そのお嬢さんは自殺未遂まで追い込まれて命は助かったが後遺症を残すことになられました。

    自己の【良心】に従っていくら不正を告発しても、何も報われないのが今の日本の現状であり、そうした人達を助けようとしない企業べったりが今の政治家や役所の姿勢なのです。法や規則に不備があるならば、その法や規則を変えないと行けないのです。それを与党も野党も怠っているのが今の日本の政治家達です。

     

    創造神の目から見た時、今の政治家や企業家に【誠】の人は少なくなっています。

     

    もう根本的に政治や役所ではなくて、社会の仕組みそのものを変えないとどうにもならなくなって来ているのです。

     

    この世の不正義に、どこに神が在るのかとなります

     

    今の世は「不正義」の世であり。どこに本当の神が居るのか!。そうした声を上げたい人達の気持ちは私にも痛いほど分かります。

     

    私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、私に【私はこの世の不正義を糺す。】と告げられました。だが、その一方でその為には、【時節を待たねばならない。】とも告げられたのです。 大本教神諭に、【神も時節には適わない。おいでおいでをしなくても、その時節は向こうからやって来る。】とあったかと思いますが、私も同じ様なことを告げられているのです。

     

    そして、私が告げられたことに【新しい世(みろく世)では、上に立つ者達は住民の選挙で選ばれた者ではなくて、この私が直で任命する。】でした。神の目から見て、この者だと認定された者が新しき未来の世の指導者の役に就くなのです。

    そこに大本教の出口王仁三郎聖師の、【世の大立替とは、牛の糞が天下を取るようなものだ】があります。牛の糞の様に社会の底辺で「誠」を尽くしていた者達に天下を取らせる式のことです。正しい者達は、その時まで【我慢】をいたせなのです。

     

    大本教から、元の創造神たる【国常立尊】の復帰が予告されました。それに対して幾多の実践霊能者(スピリチュアルの段階にあらず)達の中には、反国常立尊色を鮮明にして断固として国常立尊には従わないがあります。 全ての人を新しいみろく世に移行させれば、またもや同じ過ちが繰り返されます。為に、新しいみろくの世は創造神に対して【悔い改めた者達】だけとなるのです。

     

    悔い改めない者達を可哀想だとか気の毒だと言っている間は、【悔い改めないままに何もかも赦せば、またもや同じ過ちの轍を踏む】が理解出来ていないとなります。ですから、悔い改めた者達と悔い改めない者達は近い将来に別の世界にと別れて行くことになるのです。

     

     

     

    精神世界

    にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
    にほんブログ村

    この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。


    人は誰でも霊界を見ている。自分の夢の中まで支配して来る霊。【意識】とは何ぞや!

    0

      世の中には死後の世界たる霊界。神仏が存在する世界を信じる人達と、人は【死ねば終わり】だと、死後の世界を一切認めない人達があります。

       

      日本仏教の某宗派はひどいもので、その信徒さん達に【死後の世界(霊界)などは無い。人は死ねば土に還るだけ】だと教え込んでおられます。仏典にお釈迦様は幾度かこの世に出たことが記載されていても、まるで理解出来ておらずに霊界等は無いと言うのであれば、貴方達の仏教とはいったい何だとなります。また、人は死ねば土に還るとするならば、どうして信徒に先祖供養を要求するのだとなります。自分達で矛盾に気づいていないなのです。

      この宗派は、仏典の中味は人がこの世で生きて行く為の教えであり、何も死後の世界があると説いてはいないと、かなり逸脱したことを教えておられます。確かに、仏典にはお釈迦様が死後の世界の存在を問われた時、死後の世界のことなど知ろうと思い患うな。今の世を一生懸命に生きなさいと説かれたとは言われています。それは死後の世界が無いと言われたのではなく、死後の世界を知ろうと患うなです。死後の世界の説明はかなり難しいのです。それを無理に知ろうとする必要はどこにも無いで、意味を取り違えていると言えます。

       

      この宗派の信徒さん達の中には、霊界などを説いているとすぐに【オカルト】だと執拗に攻撃をされて来る方達があります。最近もとあるブログがその被害に遭っておられました。死後の世界の存在を説く者達は全て邪神だオカルトだという信念のようです。

      この仏教宗派は日本の仏教界のほとんどの宗派が所属している全日本仏教会にすら所属しておられません。ある意味異端宗教なのですが、自分達以外が異端宗教だと思っておられるようです。そうしたオカルトの連中を叩くことが正しいことだとの認識なのでしょう。では、そうしたオカルトの連中を叩いて自分達は死後は土に還る。消え去る。そこに何の意義があるのかとなります。 それではもはや宗教とは呼べません。

       

      宗教とは、人の【胸(宗)】の中に宿る存在を教える

       

      そこに【愛】の教えもあれば【良心】神の教えもある

       

       

      そもそも仏教の開祖たるお釈迦様の教えに、人は死ねば終わりで土に還るなどの教えそのものがないのです。法華経を読むのであれば、そうした教えがどれだけ逸脱しているのかが解ります。神仏と呼ばれる存在と、自分達の死後のことがまるで理解出来ていないのです。その宗派では法華経は【嘘も方便】の集で、この世を良くする為に【嘘】が書かれているのだと反論されます。この仏教宗派の教えを信じる人達は、話せば解るの段階の方達ではありません。中には狂犬病的な方達が見られます。

      確かに法華経は【方便品】とあり、【嘘も方便】の教えがあっても、そこには【化城】の論理があるのです。人は死ねば天国だ!。そんな簡単に天国などに到達など出来ません。だから指導者は【苦肉の策】で幻の【化城】を説くのです。

       

      で、この宗派の僧侶達は死後どうなっているかと言いますと、全ての僧ではないでしょうが死後は地獄界に墜ちてしまっています。大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた、【地獄を覗けば、牧師や僧侶でいっぱいだ】の口です。それをその宗派の開祖ではありませんが、その開祖の師匠たる宗派の開祖様が地獄に赴いてまでその救済に走っておられるがあります。

      自分が開いた直系の宗派でなくても、自分の教えを元とした弟子が開いた分派の信徒でも、自分を御本尊として崇めてくれている者達。地獄に墜ちている分派の信徒達を救う為に地獄に赴いておられる姿が霊能者に視られて、その元の開祖は地獄界に墜ちておられるとの話も起きています。そうではなくて、自分の教えの真意が解らなかった直弟子が起こした宗派の信徒達を救う為です。

       

      死後の霊的世界の存在を知るには、自分に【霊能力】がないと、人の話だけでは霊界が存在していることはなかなか理解出来ません。しかも霊界は横の広がりと縦階層で成り立つ多様の世界が存在して来ますので、簡単に説明が出来ません。また、人の身で全霊界を知るなどは不可能と言えます。

      人はいくら霊能力があるとしても、その人に見える範囲の霊界しか見ることが適わず、霊能者を100人集めても、話の内容がまったくかみ合わないとなります。

       

      その霊能者が嘘を言うのではなくて、その人の霊能力では限られた限定の世界しか見えていないなのです。

       

      霊的世界が解る者からすると、【お釈迦】様や【イエス】や【弘法大師】や【日蓮聖人】などは、特別の存在であったことが解って来ます。そうした先達は狭い範囲の霊界を見たではないのです。神が人類の為に、この世に降ろした高級な魂達なのです。魂の格が低い人ほど、魂には格の違いがあることが解らないのです。そして、人は一人一人が創造神だ!。と歪んだ観念を持ってしまう霊能力保持者もいます。

       

       

      自分に【霊能力】が備わっていないと、死後の世界たる霊界の存在を認識するのは難しい話ではありますか、実は人は【夢】で霊的世界を部分的には見たり体験はしているのです。

       

      人は何故に眠るのか?

       

      人が眠るのはこの世で働く【肉体の休養】が第一義ですが、人の肉体は【魂の服】であり、この世の活動で疲れた魂のエネルギー補充として魂は眠っている間は【霊界】に帰っているとされます。 その霊界に帰っている間に体験したことが【夢】として現れるなのです。

      ですから、人は眠らないと霊界での魂のエネルギーの補充がうまくいかずに、肉体にまで支障を来して病になったりします。

       

      そうした証拠として、

       

      如実に出るのが【霊媒質者はよく眠る】なのです

      霊媒体質者は霊に憑依されると眠くなるです。眠ることで自分に憑依した霊を肉体で浄化させるです。 

       

      人は眠っている間に、誰しも【夢】を見ています。ところが目覚めると、見ていた夢をほとんど記憶していないのです。その中で、見ていた夢で鮮やかに記憶している夢があります。この記憶している夢が【霊夢】とされます。霊界で起きた事物を魂が記憶するからです。 自分が夢に見た内容が、そのままにこの世に起きる事を【正夢(まさゆめ)】といい、反対に逆の現象がこの世に現れることを【逆夢(さかさゆめ)】と言います。これらは、この世より霊界で先に起きることが原因とされます。

      そうした夢の中で【予知夢】があります。未だ起きててもいない未来の出来事が「正夢」で、その夢の中味の通りのことがこの世で起きてしまうことです。そうした「予知夢」を見る方は、ある意味「予言者」の素質の持ち主なのです。この世を【現世(うつしよ)】と言いますが、霊界で起きたことの【写し世】だからです。

       

      私の亡き伯母は霊感持ちで、未だ誰も死んでいない家を見て、この家で葬儀があると言うと、数日から一週間ほど経つと、その家では葬儀が行われていました。伯母には葬儀の光景が事前に見えるだったのです。予知夢ではありませんが「予知」能力があったなのです。私も子供の頃はそうした「予知」能力がありましたが、今は消えてしまいました。

       

      大本教の出口王仁三郎聖師は類い希なる大預言者(予知能力者)で、その予言の的中率は誰をもってしてもそこまで出来ませんでした。そのことに関して、出口王仁三郎聖師は霊界で起きた事物を語っていると言われています。そして、霊界で起きたことは必ずこの世で起きる。だが、それが何時この世で起きるかが解らない。それが千年先になるのか?。二千年先になるのかは解らないが、必ずこの世で起きるです。

       

      しかし、いくら記憶に残った夢でも【意味が解らない】ものが多いのです。それらは一度、言葉に置き換えて、その言葉の意味を別の言葉に置き換えると解って来ると言われています。私が大本教が演じた意味を、別の言葉に置き換えて解読しているのと同じ手法です。

      だが、夢を見ただけで、その内容を全て霊界話に持って来るのはどうかとなります。私自身の体験で、夜に眠っていて夢を見て、そこで誰か見知らぬ人と出会った。で、その日の朝の神前で祝詞を宜っていると、その神前に夜に夢で見た人物たる霊が現れて来るなどがありました。それは単なる夢ではなくて、夢の中で霊界と関わっていたなのです。

      だが、霊界には邪霊達も多く、そうした邪霊達が仕組んだ内容を夢に見て、それが現実になると思うと「一杯喰わされた」となるのです。ゆめゆめ疑うことなかれでなく、夢も疑えとなるのです。

       

      この「ゆめゆめ」は【夢々】ではなくて、務めての【努々】とされますが、古事記などでは【由米】なのです。

      中国の詩に「天を視るに夢々たり」があり、夢は「神霊の啓示」として現れるもあります。精神学のフロイトは無神論者であり、ユングは神の存在の判断は避けました。これが有神論者であれば、精神医学は今とは違った方向に進んでいたでしょう。

       

      夢の中に登場人物が、目覚めると霊としても現れる

       

      夢の源は霊的世界で、霊界は【識界】であり、個々の意識と関わる

       

      私の元にある質問メールが来ました。ある方が自分がみろく神ですと名乗っておられます。その方は本当に「みろく」様なのですかとの質問です。

      その自称「みろく」ですと名乗っている方と直接の面識はありませんが、その方が自分が「みろく」だと名乗っておられることは知っています。その方の名乗りの経緯は、御本人の夢の中にお釈迦様が出て来られて、あなたが自分の跡を継ぐ「みろく」菩薩だと告げられたから、名乗っているです。

       

      私達は誰しも自分の夢の中に出て来た存在は本物だと認識してしまいます。しかし、それは霊的世界で自分が「釈迦」だと名乗っている霊の存在と出会ったという関係だけであって、その夢の中の釈迦が本物だとか偽物なのかの証拠とはならないなのです。

      霊能力がある人に、自分が天照大御神だとか大国主命だとか、天使長ミカエルとかガブリエルだとか名乗る霊が出て来ることは、霊的世界を知るならば日常茶飯事に起きる出来事だと認識出来ることです。

      これが自分が起きている日中にお釈迦様と名乗る霊が出て来て、貴方が【みろく】だと告げられたならば疑いを持つかも知れません。が、眠っている夢の中で言われると、ほとんど疑わないになってしまうのです。そこにあるのは、夢の世界と霊界は別の世界で、夢の中では自分は騙されてはいないと思う錯覚なのです。

       

      一番大切なことは、そうした事象に出会った時、果たして自分はそれに該当するだけの者かと省みることなのです。とてもじゃないが、自分はそんな【器】でないと思ったら、そんな名乗りは安易に出来ないはずなのです。

       

       

      巷で自分が創造神だとか、救世主です。みろく神ですと名乗っている人を100人集めれば、その100人が100人とも自分一人だけが本物で、残りの99人は蛇霊や狐霊に騙されている者だの批判合戦になります。皆、自分だけが本物なのです。

      確かに、そうした人達はそうした名乗りをするだけあって、それなりの【奇跡力】が備わっており、その奇跡力でその人が創造神だとか救世主と信じる人達が出て来ることは別に不思議ではありませんが、その奇跡力とは人を驚かすには充分でも、天変地異を押さえられる様なものではありません。そんな小さな奇跡力だけで、どうしてそうした名乗りが出来るのか不思議な話ではあるのです。

       

      大本教から「みろく」神が前面に打ち出されました。そして、大本教出口なお開祖に降りた神示に出口王仁三郎聖師が「みろく」様だと言う内容がありました。しかし出口王仁三郎聖師は、終戦の昭和20年に本当の「みろく下生」があったと残しておられます。で、自分は本当の「みろく」神ではなかったの発表です。

      その昭和20年に「みろく下生」の話は、西洋ではベンジャミンクレーム等が宣伝している世界教師(マイトレーヤー)と奇しくも同じですが、私は大本教神諭予告の【九つ花】の仕組みから五十六億七千万の「みろく」が導き出来ることから、【みろく】とは言葉の仕組みで、大本教の出口王仁三郎聖師ですら、一時は「偽りの神示」たる言葉に踊らされたと言えます。

       

      この昭和20年(西暦1945)にみろく下生は、極東の【ヒ】を意味する国に、世界の宗教を統一する一人の男子が誕生したとされる予言があり、その極東の国は【比国(フィリピン)】ではないかとされていたのですが、英国神智学のペンジャミンクレームは、比国でなくヒマラヤ神界で光で合成された人物として説いています。日本にもその支部は存在して活動しています。

      ただ、気になるのはこの世界教師(マイトレーヤー)とされる人物に関しては、以前は幾度か「雑誌ムー」などにも取り上げられていたのですが、その人物の写真を見た霊媒体質者が吐き気を感じるなのです。それが良い意味なのか悪い意味なのか、はっきりはしませんが日本国内だけでなく世界中に「みろく」下生の話はあるなのです。

       

      通常、弥勒(みろく)菩薩とは、お釈迦様の死後【五十六億七千万】後に現れて人類を「みろくの世」に渡す【未来仏】とされています。この地球が誕生してから四十六億年程度とされているのに、五十六億七千万後とは気が遠くなる数字です。当然に本当か?、となります。

      そもそも仏教においては、お釈迦様の入滅後二千年か千五百年で【末法】と呼ばれる時期に入り、今はその「末法」の時代と言われています。その末法は一万年間は続くとされていましたが、私に降りた霊声に末法の期間を八千年縮めるがありました。それが正しい霊声ならば、何時、この世の終了が起きても別に不思議もないのです。

      大本教は仏教で無く日本神道の立場でありながら、仏教の未来仏たる「みろく」大神を全面に打ち出しました。そして、大本教神諭は【九つ花】に咲く一輪の言霊の経綸を告げ、それは誠の者でないとそのお世話が出来ないと予告しました。

       

      その【九つ花】を紐解くと、何故に大本教が「みろく神」を全面的に打ち出したのかが解ります。また、大本教では「みろく」として「五六七」と表しましたが、九つ花から【五十六億七千万】の数字そのものの仕組みを打ち出せるのです。

       

      私はその【言霊で成る】仕組みを知った時、とんでもないことを仕組んだ神が存在するの認識に立ちました。

       

      私は、何故に「みろく」神が【言葉の仕組み】になっていたのかと推察すると、言葉を創った神は、世界中の邪神達を炙り出す仕組みをなされたのではないかと推察しています。

       

       

       

      精神世界

      にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
      にほんブログ村

      この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。


       

      どちらが正神界で、どちらが邪神界等は無意味な論争。私が言う邪神界とは蛇心界

      0

        私も含めて霊的世界に関わっている者は正神とか邪神の言葉を使います。しかしながら、日月神示などに書かれている【悪霊自身は自身を悪と思うてないぞ】とあるように、悪霊も自分達こそ正神であるとの認識下にあります。

         

         

        自分は正神界だと思っている霊は、反対派の霊を邪神と呼ぶ

         

        勝てば官軍。負ければ賊軍で、負ければ邪神にされてしまう

         

        今の神霊界は強い力を持った者が勝ち、どこにも正義は無い

         

        大本教霊界物語の中では、創造神であった【国常立尊】は天地開闢に当たり自身の魂を天と地に分割されて、天の主宰神は【天之御中主】とされ、地の神界の主宰神は【国常立尊】とに別けられて、国常立尊は地の神界を創る為に地球に降下されたとします。

        これが西洋の近代神智学では地球に降り立ったのは「サナト・クマーラ」たる存在とされています。西洋の神智学では「1850万年前、金星から地球のロゴス(地球の創造主、神)として降り立ったです。このサナト・クマーラたる存在は日本では650万年前に金星から鞍馬山に降り立った【尊天】と同一視されています。どちらも【金星】からとされているからでしょう。

        それが本当に1850万年前のことなのか、650万年前であったのかは定かには言えないことですが、いずれにしても、その頃には今の人類と呼ばれる様な存在はなかったなのです。宇宙の彼方から、創造神と呼称される様な霊魂がこの地球上に降り立ったの論は霊的世界を見ていると言える話ではあるのです。スピリチュアルで自分は宇宙のある星から降り立ったなども、あながち嘘とは言い切れないのです。

         

        この地球上に住む私達は【三次元世界】と呼ばれる「物質世界」に縛られている為に、死後の世界も神仏の世界も時間も空間も関係無いと言う世界を告げられても、そんな世界は存在しないと言う非常に狭い意識の中に置かれています。霊や神仏の姿が見えると言う人があると、それだけでキ印扱いにするがあります。

         

        人は何故にこの世を去れば、その魂は死後の世界と呼ばれる【霊的世界】に帰って行くのか?。

         

        それは私達の魂が元々そうした異なった次元が違う世界から、三次元界と呼ばれる物質世界に存在した動物的な生命体に入り込んだことが原因とされるからです。それらは、元々が違う次元世界に存在したからに過ぎません。だから、死後は元の霊的世界にと帰るなのです。

         

        一部の人達が言う説に、エホバ(旧約聖書)の神は自分達人間を奴隷にする目的で、人間を生み出した悪神などの穿ったというか、誤った論理も存在して来ます。もしもそうであるならば、何故に人の魂は死後に霊界に帰るのか?。それに対する説明がまるでつかなくなるでしょう。

        また、そうした説を唱える方達は、そうした宇宙からの存在がこの地球に存在した動物達の遺伝子を操作をして、今の改良型人間を造り出したと言われます。人間は猿から進化したのではなくて、一種の猿的存在を利用したです。そこに宇宙人=神の図式が言われます。しかし、宇宙人そのものは霊人であっても「輪廻転生」の中に存在しているのであって、創造神の概念に当てはまる存在ではないはずなのです。創造神が「輪廻転生」しているでは話そのものがおかしくなります。

         

        霊能力がある人達は、自分が産まれ出た星に帰りたい。そうしたことを言われます。特にシリウスとかプレアデスを言われる方が多いかとは思います。人によっては魂の中の記憶にそうしたものを持つのです。それが、【この地球は魂の刑務所】論になるのです。

        また、本来の神の世界に進める【天人となる苗床】です。 私自身、その過去に宇宙の初発とされる時代には【龍】と呼ばれる存在で生きた記憶があります。その時は「金色を放つ白龍」の姿でした。霊能力がある方の中には、私からその金色の光を放つ白龍の姿を見る方もあります。その龍とは恐竜などの龍ではなくて、蛇系の龍の形ではあったのです。

        聖書には龍とは「霊界で年老いた大蛇霊」とありますが、日本で使う【十二支】において、龍(辰)と蛇(巳)は別物で分類されるように、元々は龍と蛇は別物なのです。

        また、日本で【神代】と呼ばれる時代があったとしますが、そうした時代に私も生きていた記憶を少しは持っています。だが、そうした記憶はこの世に降りた時には封じられてしまうので、断片でしか出て来ないなのです。

         

        私は遙かなる超太古の時代には、神司(天使)の一員として国常立尊様に忠誠を誓っていた存在でしたが、国常立尊様が地の神界の表舞台から退かれたことにより、私も流浪の神司(天使)となった者と言えます。私はその当時の国常立尊様に忠誠を誓っていた神司(天使)達を元に世界に戻したいと思っている者の一人なのです。

         

        一部の人達は、人は一人一人が創造神だ!。そうした論理に固執されています。確かに全ての元の元を突き詰めれば、神は一柱であり、全てのものはその神に集約されることになります。しかし、この地球に生きる人間は約70億人とされていますが、宇宙に存在する魂たる存在は70億どころではなくて超天文学的な数であり、一人一人が創造神だ!。等と誤った論理感に陥るべきではないのです。

        創造神は万物の創造の神であるように、私達のような小さな魂にも小さな【創造力】があるなのです。しかし、太陽や月を創れないのです。創造神と同じ力の創造力を持っているではないのです。私は一人一人が創造神だ!。そうしたことを言う者は救いようがない者と言います。それでは、自分が【いと小さき者】と理解が出来なくなるのです。

        イスラム教の開祖マホメット(ムハンマド)が自分は神の【下僕】と称した様に、私も自分は創造神の【下僕】だと言います。

         

        大本教から元の創造神たる【国常立尊】様はあまりにも厳格な神であったが為に、堕落した神々から疎まれて、地の神界の神々の多数決の論理によってその座を追われたとしました。この国常立尊様を多数決で追った神達からすると、国常立尊を【悪神】としてその座を追ったのです。 またその【厳しさ】を【鬼】としたのです。

        そこに国常立尊は【悪神】説が出て来ます。自己の魂を堕落させた神々からすると、「国常立尊」などは神界の表舞台に永遠に復帰して欲しくない存在なのです。

         

        何故にそのような事態になったのかは、【国常立尊】様は非常に厳格な神であったが為に堕落した神々には煙たかったのと、多くの神々が蛇霊に懸かられて【蛇霊の囁き】に乗ってしまったからなのです。聖書では人類の祖とするアダムとイヴの話になっていますが、アダムとイヴではないのです。蛇霊に懸かられた神達は「国常立尊」は悪神であるの立場になったなのです。

        大本教は、その国常立尊が神界の表舞台から退かれたのはこの世の時間で今から約【三十五万】年前のことであったとします。別に今の人類の世の話ではないのです。

        そこに人類を堕落させた神達の為に、人類は過去に【六度】も滅びたとも言われているわけです。そして、今の世は【七度目の世】で、記紀神話の神代七代とか聖書における創造神は一週間の【七日】でこの世を創られた等の【七(質)】を意味する世ともされるわけです。そこに大本教から、【ダルマ(真理)の七転び八起】が予告されたのです。

         

         

        これらのことを如実に語る言葉が【邪の道は蛇】なのです

         

        勝てば官軍、負ければ賊軍で、勝てばいいではないのです

         

        スピリチュアルでは自分に天使長【ミカエル】が降りて来る式の方が非常に多いのですが、大本教の出口王仁三郎聖師は「ミカエル」などの天使長は存在していない。【省みるの意味】だと述べておられますが、モーゼ外伝ではミカエルは最後の審判で蛇(巳)を成敗する者を指します。日本語で読むと【巳(蛇)帰る】をさせる者なのです。

         

        私はヴェーダ典に残る【人の中に眠るコブラ蛇が目覚めて走り上がる時、その人は真理に目覚める】の体験で、これは日本語で【巳(蛇)帰る】であり、魂の姿が動物霊や爬虫類の姿に【身変える】の働きのことであると知りました。そこに来る働きは自分を【省みる】でもあるのです。

         

        これは幾度か書きましたが、

         

        人の良心神は、常に蛇霊と対峙しています 

         

        蛇霊の存在が霊的に見えなければ、反対に対峙している【良心神】は理解不能となります。

        スピリチュアルで「良心神」が理解出来ていないのは、自分が見ている光輝く霊の背後を見抜くだけの力が無いなのです。

         

        私が最初に師事した師匠は、霊界修行の最初の頃には女性であれば絶世の美男子の霊が出て来て、男性であれば絶世の美女が現れ来て、修業者はその霊のあまりの美しさに恋をする。霊に恋い焦がれる。霊との恋に落ちれば後は盲目。修業者はその時点で終わって邪界にと誘われる。後は美男美女に化けた邪神の言葉を鵜呑みで言うがままと教えてくれました。

        その師匠自身、修業の始め頃に絶世の美男子霊が現れてその霊に恋をしてしまった。邪神界に誘われる前に豊受姫によって救出されたがあったなのです。こうしたことに関しては、成長の家の開祖であった谷口雅春師の著書にも書かれていると聞いていますので、修業者には通常起きているのだと考えられます。

        各云う私もそれに遭遇したのです。ですから実地体験をしています。霊的世界の【罠】とは、何も知らない人の想像を絶するようなところがあるのです。

         

        古事記では初発の神を【天之御中主】として、日本書紀では初発の神を【国常立尊】としています。これは同一神であるの観念で言えば、どちらが先かと論じても意味が無いとなります。同一神を天と地の働きに別けたからと言えます。

        私は霊能者をしている者ではありませんので、自分の背後に存在すると言われる神のことに関してはよく解りません。私が最初に師事した豊受姫様からは、私の本守護神は【国常立尊】様だと告げられましたが、他に7〜8名の霊能者の方からも【国常立尊様】と言われ、一人だけ「国常立尊」様と「天之御中主」様の両柱が見えるとの指摘を受けました。国常立尊様と天之御中主は元が同一神なので、その両柱神が見えると指摘されても別に不思議ではありません。

         

        私自身が子供の頃、私に臨む声は【旧約聖書の神】と称する声でした。それが本当に旧約聖書の神であったかどうかは私には解りません。ただ、その声が私に告げられた。【この国(日本)は私の教えが満ちあふれている世界で唯一つの国で、そなたはその仕組みを人々に告げなさい】と言われたことを、何故か使命感を持って取り組んでいるだけと言えます。

        それを言葉遊びとか、あほだらに長い文章を書いていると批判したければ批判していただいて結構なのです。そうした人には自己の魂の【奇魂】が働いていないので、魂が【ハート型】で不完全となるだけです。

         

        勝てば官軍。負ければ賊軍の神の力の世界では、いくら元は創造神であった神でも蛇霊に懸かられた神々が大多数を占める中では敗軍の頭として追われたとなります。

         

        私は今の神霊世界の神々には【良心神】が無いと知った時、三千世界。いったい自分の身をどこに置いたらいいのかと迷いました。苦悩しました。霊界での行き場が解らないなのです。しかし、大本教に触れて言葉の仕組みが解けた時、今の世に出ておられる神々が束になってかかっても勝てない力を持った神が存在しているとの認識に立てたのです。

         

        日本の国に常に立つ御言(尊)は【日本語】

         

        私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【私はそなたが何者か、神々に解らないようにしておく。無論、そなたも自分が何者かを知らない。そなたはこの世ではバカを演じていればよい。働くのは肉体のそなたではなく、そなたの魂の方である。肉体のそなたを見て、そなたをバカにする者は続出するであろう。されど、そなたの背後に、この私が居るということが解らない神であれば使いものには成らぬ。】と告げられたのです。

         

        ただ、豊受姫からは【貴方は言葉の神と呼ぶ方です。】と告げられて、言葉の神?。から言葉の解読に入ったと言えます。この日本では【言霊】の存在は説かれていますが、世界では【初めに言葉は神と共に在った】だけであり、【言霊】を知るではありません。言霊の存在が告げられている日本では、言霊とは何かを知っておられる霊能者の方は若干名に過ぎないという現状がありました。言霊と言う存在を世の表に出して来たのは大本教であり、その歴史が短いもあります。

         

        私はこれと言った霊力も持ちません。病気治しも出来ません。予知予言能力もありません。私がしていることは単なる【言葉遊び】だと揶揄する方達は多数あります。だが、そうした方達からは【魂】論が何も出て来ません。魂の説明がなされていません。

        大本教が出した【国常立尊・ウシトラ金神」の「ウシトラ」から、ここまで言葉の仕組みが展開出来るなど、誰も考えもしなかったし及びもつかなかったことです。神々にも解らなかったと言えます。

         

        その仕組みの中に見えて来たことは、人類を蛇霊の囁きから脱却させるなのです

         

         

         

        精神世界

        にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
        にほんブログ村

        この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。


        この世の良い思い出だけをあの世への土産として、この世の悪しき思い出はこの世に捨てなさい

        0

          私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、私に【人の一生とは魂の世界からすると、人が修学旅行に行ったような僅かな時間にしか過ぎない。その僅かな時間の修学の為のこの世で、刹那心に溺れて自分の魂を腐らせてはいけない。いくらこの世が苦しいからと言って、自らの命を絶ってはいけない。人は死んでは生まれ、死んで生まれるの繰り返しである】。

          【人はこの世での修学を終えて、あの世に帰って来る時、この世での良い思い出だけをあの世の仲間達への土産話として持ち帰り、この世での悪しき思い出は一切この世に置いて行かなければならない。】とも告げられました。

          それは、仏教の葬儀でも説かれているあの世に旅立つ時、「喝」で、この世の【未練・執着】を捨てなさいと言うことです。つまり、この世での悪しき思い出はあの世に持って行くなです。

           

          この世は魂の【修学の場】であり、一時の住まいでしかない

           

          つい先日、私の従姉がこの世を去りました。歳は80そこそこですが、突然だったのでびっくりしたのですが、胃がんが発見されて入院予定の前に別の病で急死してしまったのです。その通夜が終わった後に、その従姉の顔が私に大きく出て来ます。その想念です。何か私に言い残すことがあるのかと感じていました。

          私の家系は祖父が養子になりますが、五代前の御先祖霊が霊能者の調べで日蓮聖人の御分魂であったことが判明しています。私は父方の筋で、その従姉は母方の筋で同じ御先祖霊が居るとなって来ます。家系とは何も肉体の血がつながる必要はありません。養子養女に入ると、その家系の霊脈に変わるからです。魂は後から肉体に入るので肉体の「遺伝子」とは関係がないのです。その家筋に入ることで、その家系の霊脈を継ぐなのです。血がつながらなくても、どうしても先祖霊の影響は受けます。

          私の家の仏壇では、その日蓮聖人の御分魂が霊能者には出て来られるがあります。そうしたこともありますので、その従姉の行く末はその御先祖霊に任せるです。あの世のことはあの世の者に任せるです。

           

          その葬儀の後に霊的な疲れを覚えて一眠りして目が覚めると、その従姉の御主人の姿が見えて来ました。今は80歳代ですが、私に見える姿は40歳〜50歳当時の姿です。今から30年〜40年前の出来事と思われます。その御主人が妻であったその従姉にひどい家庭内暴力を振るっている光景です。今で言うDV(配偶者に対する暴力)です。それが従姉の心のトラウマとなって出て来たのです。

          もう80代になった御主人は今は穏やかですが、若い頃はイケメンで女性にモテモテで浮気は数知れず。毎夜毎夜麻雀で遊んでいました。で、従姉が泣かされていた話は聞いていましたが、家庭内暴力を振るっていたことまでは知りませんでした。

          自分が生んだ子供達は父親側に付いて、自分を何一つ応援してくれないという愚痴は聞いていました。それが、従姉がこの世を去った葬儀の後に、その光景が私に出されたのです。

           

          仏教で人は死ねば皆仏様だと言いますが、閻魔庁は晩年は穏やかだったからと言って若いの時の所業をチャラにはしません。チャラにするには、その人の善行と悪行との天秤が平行でなければなりません。イスラム法の【目には目を、歯には歯を】であり、スピリチュアルでも言う【正負の原則】が存在するからです。

           

          自分が犯した罪は、本人に償わせるがカルマの大原則

           

          従姉霊の訴えは、自分が生きている時に自分に一言でも謝って欲しかった。そうでないと、良い思い出だけを土産としてあの世には行けないなのです。これは49日忌までに、その御主人が位牌に向かって自分が悪かったと謝ると感じましたので、機嫌良くあの世に旅立ってはくれそうです。私の伯母は霊感が強く。幼い私が後光を放っていたので、この子は神仏の生まれ変わりだと語っていましたが、その女の子供達も霊感が強く、霊を見るが有りましたので霊界否定論者ではありません。

           

          私は霊能者をしていないのは日常的に霊を見る者ではないからです。しかし、必要な時には私の御先祖守護霊が見させてくれます。なまじ霊が見えると、いろんな訴えが来ます。中には人を騙しに来る神霊達も多々あるわけです。

          私が子供の頃、旧約聖書の神と称する声は、【そなたの前世は武将であった。そなたは武将ながらあまりにも人がよくて、人を疑わない者であった。為に、人の魂胆が解らずに悪の魂胆を持った者達の策略により悲劇の最期を遂げた武将である。そなたの今生の学びは、人の魂胆を見抜く力を養うことでである。】と告げられました。善悪の判断力で、相手の腹の中の魂胆を見抜く力です。

          この相手の腹の中を見抜く力とは、自分の前に出て来る神と称する霊に対しても要求されます。相手の自分は〇〇大神ですと名乗る神名などに惑わされて、その言葉に踊らされていてはいけないからです。

          その○○大神などと名乗る霊の魂胆が見抜けないと、それが本物ではなかったと解った時には、自分がボロボロにされているからです。俗に言われる【行者の末路哀れなり】の状態に入るからです。

           

          私が霊界修業に入った当時。夜、眠ろうとすると霊的な光景が見えて来ます。すると【バチン】という大音響と共に、その霊的映像が遮断されるがありました。どこかの霊が私に見させようとする霊映像が私にとっては悪いものと思った時、御先祖霊がその映像を強制的に遮断するでした。時には日蓮聖人の直弟子であった方の霊が、私が寝ている間も不寝番として見張ってくれていました。

          その御先祖霊は私が2番目の師匠の元で言霊を習っている時、その御祭神は【国常立尊】と称されていましたが、その神霊に楯突いて、その師匠からお前には糞坊主が付いていて、このわしに楯突くと言われたものです。当時の私はそれが「ニセの国常立尊」とは思えず、どうして先祖霊は楯突いているのだろう?。さすがに「国常立尊」と呼称するだけに凄まじい霊力の主であり、楯突けるのだろうかと不思議に思っていました。

          その先祖守護霊の霊力は出雲大社教の教師から出雲大社の神と比べても遜色がないと告げられて、出雲大社の神と並ぶほどの霊力?。に首を傾けていたところ、日蓮聖人の御分魂で私の家系に生まれ出た方だと判明したのです。

           

          私は神霊とほとんどしゃべりませんが、それに関して最初の師匠は、豊受姫が豊受姫の許しなき神霊は私と直接会話してはならないと神界に命令を発したからと言われます。私は人(性格)がよいで下級神霊の言葉に騙されない為の予防です。

          その豊受姫のお代であった師匠は、貴方が見る霊的光景は本物ですと言いましたが、それは私の家系の御先祖霊が私に見せるべき映像か見させてはいけない映像かを判断していると言えます。

           

          自分がこの世で周囲からどんなにひどい仕打ちを受けたとしても、死後の世界でそうした想いをトラウマとして持つと浮かばれない霊ともなります。

           

          それは、神の愛で何をしても赦されると説くスピリチュアルの論理ではない 

           

          この世で他人にしたむごい仕打ちは、その本人がカルマとして背負うからです。悔い改めない限り逃げられません。

          それは子供だからと言って、赦される事柄ではありません。一人一人の子供にも守護霊と呼ばれる霊は存在しており、そうした守護霊が子供であってもその行動を見ていて、悪い行動に走ることは阻止しなければならないからです。ですから、子供の場合はその責任はその子供の守護霊として就いた霊が責任を負わなければならないとなります。

           

          霊能者相談で、自分の子供は盗みばかりをするの親の相談に、霊能者が御祭神に頼んでその子供の守護霊を交代させるをしたところ、その子供の盗み癖が治ったなどの事例があります。その守護霊自身に盗み癖があったなのです。守護霊と呼ばれている多くは副守護霊(神)と呼ばれている段階で、必ずしも正しいことと悪しきことの判別が出来ているではありません。人はそうした副守護霊と共に魂の修業をしています。

          何故にそんな先祖霊が副守護霊になっているか?。ほとんどの人はどうして自分がそうした家系に生まれ出たのかの理解すら至っていないのです。親は子供を立派に育て上げると神から賞されます。すなわち、自分の天国行きの道も開けて来るなのです。自分がだらしない親をしているでは天国行きは起きないなのです。逆に死後に自分が苦しいからと子孫に懸かって子孫を苦しめるなのです。

           

          私達の肉体は、この世の学びで自己の魂を磨くと共に、未だ天国世界に渡ってない自分を守護している霊の霊界での向上にも勤めなければならないのです。この世での肉体を貰うということは、それだけの価値があるのです。他者も霊も助けることが出来るからなのです。

          神の愛で何をしても赦されます等は、結果的に地獄行きを推奨する論理なのです。

           

          単にこの世は楽しいで、遊んでいた肉体の魂は天国には行けません

           

          お釈迦様の悟り【この世は苦界】。そこから何を得たかです

           

          貴方がこの世でどれだけ他人からひどい仕打ちを受けたとしても、その恨みを果たしてはいけないのです。この世での貴方が受けた仕打ちは、あの世に持って行ってはいけないのです。忘れるのではなく、この世に捨てるのです。

           

          貴方の恨みは、艮の心で【閻魔大王】が貴方に代わって果たす

           

          艮(ウシトラ)金神【国常立尊】の意味が理解出来ましたか?

           

           

           

           

          精神世界

          にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
          にほんブログ村

          この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。


          西暦2018年の犬の祓い年の現時点で、弥勒世に渡る有資格者は3億8千5百万の神柱か?

          0

            私は今の世が立て替わって、やがて永遠性を持った嬉し嬉しの弥勒の世(神の御国)が到来して来ると語って来ました。しかし、現在のスピリチュアルの世界ではそうしたことを語っている方は少数も少数になってしまいました。今では火が消えたようになっています。

            この地球の置かれた環境は日増しに悪化しており、自然災害も多発して来て、今の人類の力では病んだ地球は救えません。創造神と呼ばれるような神が存在していて人類を救済するでなければ、遅かれ早かれ人類は消滅するでしょう。私は人類は創造神と呼ばれる神によってのみ新しい世に向かうと思っている一人です。

            それは子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、【私は永遠の嬉し嬉しの未来の世に人類を渡す】と告げられたからです。

             

            弥勒の世の到来を語る人達の中では、だいたい私と同様の論調がなされています。新しい弥勒の世とは今の地球上ではなくて、聖書のヨハネの黙示録にも記載される新天地、新地球上です。その新地球を「宇宙船」と呼ぶのも一緒です。ただ、次元が異なっているので科学的にはその存在証明は出来ないのです。そもそも現代の科学では霊界そのものが証明不可能です。為に多くの学者は霊界の存在を否定しています。死後の世界を否定して、神の存在を否定しない等の矛盾の科学者も出ています。

            いくら聖書に書かれていても、常識的に言えば新地球などとても信じられる話ではありません。私達人間は霊能力が備わっていれば神社仏閣に鎮まる神霊の存在は確認出来ますが、【創造神】などよく解らないのです。世に出ておられる神々ですら、創造神の存在に関してはよく解っておられないがあります。神界の末端の霊等は、創造神?。そりゃ何じゃとなります。まず聞いてもムダです。

             

            その新地球論を言う少数派の中で、以前はみろく世に渡れるのは世界で一億人あるかないかの論がありました。それから数年後、ようやく2%に達した。次に、二億人には達していないが二億人弱まで増えたとの説が出ていました。しかし、あまりにもその数が少ないので、実際に立替が実施されるのかの疑問も出ていました。そうした論者は次々とこの世を去られましたので、そうした論も今では僅かな人だけとなりました。待てど暮らせども、一向にその兆しが見えて来ない弥勒世の宣伝マンの悲哀です。

            そうした新地球論は架空論であり、現実にはそぐわないとなります。だが、その時が現実に私達の目の前に襲って来た時には手遅れだとなります。霊界に関わることは実にやっかいなことで、自分に他人に目に物を見せる奇跡力が無いと、それは人々に信じて貰えないとなります。

             

            死後の世界など無いと言う人達に霊界があることを解らせるのは「奇跡力」ですが、霊界の奇跡力は龍神と呼ばれる存在が起こして来たりしますが、結局は龍神をバックにしたおかしなおかしな自称救世主と名乗る人達の続出だけで終わります。

            龍神と呼ばれる存在が人に見せて来る奇跡としては体や手に金粉現象が現れることは知られていますが、それでこの地球が元の地球環境に戻せるなどの霊力はありません。龍神に個々の人を助ける霊力はあっても、地球を救うだけの霊力は無いからです。

             

            その弥勒の世とは、俗に【五六七】と言われるように、最低の基本次元界が五次元霊界となります。単に死ねば誰でも入る四次元霊界ではないのです。その世界そのものが【第三天国とされる天国界】が最低ラインとなるのです。

            霊界が天国や地獄や中有界などの階層を持った世界であることが認識出来ると、こんな我欲にまみれた世界よりも、天国天人達が本当に嬉しそうに暮らしている世界にこそ、人々の本当の平和と幸せの世界があると解って来ます。すると、この世には何の未練も無くなるのです。仏教で説かれた「この世の執着」から離れるが出来て来たりします。

            その為には、今の地球上に居る人達の意識を【天国界天人の意識レベル】まで引き上げなければならなくなります。スピリチュアルで、何もしなくてもこの地球が自動的に五次元世界に行くのですの論調は言えないなのです。

             

            世の大立替説は、日本では大本教が最初に出したとされますが、調べると天理教からも出るには出たのです。しかし、何と言っても大予言者とされる大本教の出口王仁三郎聖師の存在が大きかったと言えます。出口王仁三郎聖師の存在を知って、その予言を的中させた内容の数々を知るならば、その凄さが解ります。スピリチュアルの比ではありません。神社に鎮まる神霊で、そんなことが言えただけの神霊そのものが居ないなのです。

            私は大本教の出口王仁三郎聖師を高く評価されている霊能者の方が、その出口王仁三郎聖師と違うことを言われた時、貴方と出口王仁三郎聖師では言われることが違っていますが、どちらが正しい説なのですかと質問すると、だいたい自分の方が間違っていましたと訂正されます。それぐらい出口王仁三郎聖師は正しい霊能者達の間では高く評価されています。

            そうした霊能者の方達は、自分はとてもその神界の域に達していないと理解されているのです。俗に言う神界の高山のレベルが自分と出口王仁三郎聖師とでは違っているなのです。

             

            しかし、出口王仁三郎聖師の肉体の行動が全て正しかったのかと言うと、それは違っています。その大本教の出口王仁三郎聖師は、自分は「ニセ者」であったと発表されましたが、本番は自分とは「似ても似つかない人」だと残しておられます。それは出口王仁三郎聖師的な行為行動の持ち主ではない肉体の存在とも言えます。

             

            本当に霊格の高い方達とは、大本教には所属せずとも大本教の出口王仁三郎聖師の霊界での格の高さを理解されています。一方、自己の霊格が低いことが解っていない霊感者レベルでは、大本教の霊界物語を「あほだら長い経」と批判して、そこに書かれている意味合いが解らずに、直感だ!。直感だ!。で、蛇霊や野狐霊達が化けた神霊の言葉にコロリと欺されるが起きています。

            自分では自分に臨んできている霊が、天照大御神や大国主命だと思っていても、他の霊能者からそれは蛇霊や野狐霊が化けているだけだと言われていることに自分では気づけないなのです。

            言うなれば、蛇霊や野狐霊段階では、あんな「あほだら長い経」そのものが書けないのです。意味すら解らない。為に、批判だけをする。そのあほだら長い経の中に「宝石」的な内容をちりばめてあることが解らないなのです。それは邪神達には意味が紐解けないようになっているからなのです。

             

            世の立替を説いた大本教からは人類の「3分」だけが新しい世に行けると説かれたようですが、その3分が全体の1/3のことなのか?、単に割分厘の3分なのかはっきりしません。大本教の出口王仁三郎聖師は人類の3%(3分)などあってたまるかと述べておられますが、私も同意見です。それでも聖書の14万4千人よりも遙かに多い数とはなります。

            この1/3とは天下を三分けに構成させてあることから解ります。天国と中有界と地獄の三分け。第一、第二、第三と天国を三分け。第一、第二、第三と地獄を三分け。そこに2/3の「666」と1/3の「333」に分けがあるにはあるのです。

            単に「666」の数字だけを持ち出して、三つ六でみろくとか悪魔の刻印だと言っても意味が解りません。神界の力が正神界333、中間派333、邪神界333ならば、その中間派の帰属如何によって神界の力関係は「666」と変わるからです。

             

            可能であるならば、全ての人類を弥勒の世に渡したいは【国常立尊】様の願望であろうと思い、私も微力ながらも一生懸命みろく世に全ての人が渡れるように【悔い改める】ことを主眼にした、人に内在する良心神を説いて来ました。

            しかし、スピリチュアルでは何もしなくてもいいのです。神の愛で全ての罪は赦されるのですの一点張りです。誰も【悔い改める】を言わないわけです。確かに、神の愛で何をしても赦されるであれば、【悔い改める】などと説く必要はないのです。時には【良心の呵責は重いので、良心などは捨てましょう】です。スピリチュアルでは言われることは私とは真逆の説明なのです。

            スピリチュアルの言葉が本当に正しいのであれば、どうして【地獄界】が存在して来るのか?。その説明すら出来ていないのです。本当に霊能力があるならば、【地獄界】を一度も見ていないなどあり得ないはずです。地獄界の存在を見れば、【神の愛で何をしても赦される】など言えないのです。

             

            私が子供の頃、私に臨んで来た旧約聖書の神と称する声は、【そなたはイエスの愛の教えを何一つ恐れずに、イエスの愛の教えを乗り越えよ。】と告げられました。どの神からも貴方に教えることなど出来ないと告げられて、今は埋没してしまっていたお釈迦様の菩提樹の下の本当の悟りが、【悪魔は実態を持たない現れであり、人には良心と呼ばれる神が内在する。】であり。それは大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】で、五六億七千万の「みろく(369)」を出せると解ったのです。

            今日知られるお釈迦様の悟りも、後世の者達によって書き換えられたものであり、そうしたことになると事前に解っていた国常立尊(祇園精舎の守護神たる牛頭天王)によって、日本の言葉であっても、それを言葉と数霊で仕組まれたと言えるのです。それは伊勢神宮に鎮座する神でもなければ出雲の神でもないのです。

             

            西暦2018年は犬年で、祓いの年と昨年出ました。しかし、神社で見られる祓い串による祓いとは、人の肉体に降りかかった霊的なチリや誇りの類い。すなわち霊的な【ダスト】程度の祓いであって、魂そのものを汚した場合には祓だけでは解決しません。

             

            汚れた魂は【身削ぎ(禊ぎ)】によってのみ、汚れが落とされる

             

            何故、禊ぎの漢字は神との【契約の示し(示契)】なのか? 

             

            つい先日、そんな中で私は不思議な夢を見ていました。とある場で大工の棟梁が新しい家を建てる為に無数の柱を立てています。その棟梁が新しい家の柱立てのお祝いに、私に【三億八千五百万】とお囃子をしてくださいと言います。私は言われるがままに、棟梁の祝い歌の間に【三億八千五百万】とお囃子を入れるのです。

            夢から覚めて、【三億八千五百万】が【柱】の数の意味だと気づきました。これは新しい地球船に渡る人(神柱)の数は以前は二億人弱と言われていましたが、ようやく三億八千五百万神柱まで、その数が膨れあがったです。立替そのものは「柱」の意味で表現されます。ですから、柱立ての祝い歌です。

             

            祝い歌が出たとは、立替は実施されると思われます

             

            しかし、これらは私が単に見た夢でしかありません。その計画の主にそれだけの神力がなければ「ポシャる」でしょう。

             

            仮に立替が起きるとしても、この数は入試の様に定まった数ではなく、現時点でそれだけの数に達したです。未だ犬の祓いの年は来年の節分まであり、その数は更に増えて行くはずです。私より少し前に、その三億八千五百万よりもいくらか少ない数を受け取った方があったようです。たぶん、三億八千五百万前後に近い数字を受け取った方達も既に世には出て来ているはずです。

            2018年度中の地球の人口は76億人規模と推察されます。仮に弥勒の世が創設されるとしても、未だ5%程度の人数しか確保が出来ていないとなります。それでは未だ永遠の嬉し嬉しのみろく世に渡る人の数としては少なすぎます。未だ最終確定人数ではないと思えます。現時点でみろく世行きが決定したこの世の人の数と考えられます。

            その時の問題はみろく世に渡る人数ではなく、大本教神諭に記載される霊界の【上・中・下】の三段。【五・六・七】の三段に振り分けが起きることなのです。大本教神諭にある魂の段階の入れ替えで「上の者が下に行き。下の者が上に行く」で【不満】を出す者が出るなのです。ですから、早くから立替が予告されたのです。

             

             

            これから先は、強制的な魂の身削ぎ(禊ぎ)洗いによって、みろく世に渡る人の数は一段と増えて行くと予想されます。

             

            創造神の大望は神々や人民が創造神の【栄光】を讃えるで、滅ぼすではないからです

             

            為に、表舞台から退(艮の道)いてまで仕組んで来られたのが【ウシトラ】なのです

             

            私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、【そなた一人だけにはこの神の仕組みを見せる。】と告げられて来ましたが、その仕組みとは、夢で意味を教えられて来たのです。霊界は情報が【筒抜け】であり、言葉で降りたのではないのです。言葉で降ろすと邪神達もその仕組みを知るからです。

            私が霊界修業に入って言霊師の師匠の元に居たある夜、夢に私の姿をした人形が浮かんでいて、声が聞こえて来ます。それは童謡の「人形」のメロディーに乗せて、【私の人形は良い人形。どの神様の人形よりも、その見かけは悪いけれども、私の心を受け継ぐ良い人形。】と歌っているのです。その歌声に乗って、私の姿をした人形が動かされているのです。以後、夢の中に私の姿をした人形が出て来て、いろいろと演じる内容を夢に見ていて、その行動から言葉の仕組みを紐解いて来たと言えます。

            私は霊界修業中、どの神からも貴方に教えなどは出来ないと告げられて、豊受姫は豊受姫以外の神霊が私と直接会話することを禁じられたと最初の師匠が言っておりましたが、例え神霊が出て来られても私に教えるではなく一言とか二言です。大国主命様も幾つもの姿を変えて私の前に出て来られましたが、その言葉は一つも聞いていません。なのにどうして言葉の仕組みが解けたかと言いますと、私の夢の中で自分が出て来て何かをしている。その内容を言葉に置き換えるだったのです。

             

            では、その三億八千五百万人だけが弥勒の世に渡るのかと言いますと、これはこれから来る立替の大嵐。その嵐には【禊ぎ(魂の身削ぎ)】を伴いますので、その禊ぎの期間を楽に越せる人数と考えられます。それらの数は、今日までに既に自己の魂を浄化浄霊して来た人の数とも言えます。蛇霊の囁きから脱却して、みろく世の神柱の地位を手に入れた人達の数だと考もえられます。

            大本教神諭に、【人には神とも成れる魂を授けてあるにも関わらず】とありますが、その神とも成れた存在です。

             

            されど、

            未だ地球に関わる神霊世界は、力の強い者が勝つであり

            力による獣の論理が支配しています。

             

            より多くの人達が【嬉し嬉しの五六七の世】に行く為には、神界における最終戦争が未だ終わってはいません。

             

            それはモーゼ外伝にもあるように、蛇霊神達との戦いになります。蛇霊神を帰すミカエル(巳帰る)の働きが必要なのです。蛇霊の囁きから脱却しないと本当のエデンの園(神の御国)には戻れないからです。どんな事態になろうとも、その時を楽に越せる現時点での人数かと思われます。

             

            私が修業時代、蛇霊に改心の言向けをすると、【改心など殺されても絶対にしない。その時が訪れたなれば暴れに暴れて死んでやる。】等と返して来ました。立替の時は、その蛇霊達の死を覚悟の暴れが危ないのです。

             

            言葉上では簡単に立替などと言えますが、実施ともなればかなり難しいと言えます。容易な事柄ではないのです。蛇霊達がどう動くのか?。その影響が如実に私達の上に現れるからです。

             

             

            精神世界

            にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
            にほんブログ村

            この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。


            calendar
                  1
            2345678
            9101112131415
            16171819202122
            23242526272829
            3031     
            << December 2018 >>
            日本ブログ村に参加しています(よければ応援のクリックを願います)
            selected entries
            archives
            recommend
            links
            profile
            search this site.
            others
            mobile
            qrcode
            powered
            無料ブログ作成サービス JUGEM

            にほんブログ村 哲学・思想ブログ アセンションへ
            にほんブログ村