創造神から見れば、日本の天皇も卑しき身分の者も皆同一の立場

0

    邪教とされた大本教は、何故に日本の皇室神道と闘ったのか!

     

    世の大立替を宣伝した大本教はその主張から日本の国家神道から受け入れられずに、この日本を毒する邪教集団として国家による二度の大弾圧を受けて崩壊しました。世に大本弾圧事件と呼ばれるもので、第一次が大正10年(西暦1921年)。

    第二次が昭和10年(西暦1935年)で、特高警察の武装警察官500人が大本教の綾部と亀岡の神殿を襲い。その後に大本教の神殿群をダイナマイトでことごとく吹っ飛ばすという凄まじい国家による大弾圧だったのです。

    この時、大本教に突入した警察官達は、大本教の信徒達が武装しているものと思い。警察官達は遺書をしたためて、家族と別れの水杯(みずさかずき)を交わしたと言われています。また、当時の大本教の神の威力は世に知られており、信徒達の抵抗のみならず、邪教の神の神罰を受けて全員生きて帰れないと覚悟をしていたともされます。

    だが、大本教は無抵抗で拘束されたり出頭を命じられた信徒は3000人で、その内の61人が起訴されて、その内の16人が特高警察の拷問により獄死しています。現代の霊能者の調べででは、この獄死した16名は全て霊界でも非常に高い世界に入ったとされています。

     

    国常立尊(閻魔大王)は、犠牲と成った人達を死後に遇した 

     

    私は戦後生まれでそうしたことは何一つ知らなかったのですが、ある自民党の大物代議士を見ていて、?。この方は死後に地獄界に墜ちると解りました。その後、大本教の神諭に触れて大本教を調べていて、この代議士の方は当時の特高警察の幹部で大本教を弾圧した幹部の一人であることが解りました。拷問で多くの大本教信徒を獄死させたり発狂させた張本人でありながら、特高警察時代の自分の所業を何一つ悔い改めなかった人です。戦前多くの方が特高警察により拷問死されています。為に死後の世界で地獄界に墜ちると私には見えたのでしょう。

     

    この大本弾圧事件に関する裁判で検察は【大本は国体を転覆し世界覆滅を計る陰謀結社で、出口王仁三郎聖師は皇統を否定し世界の独裁者とならんとした】と起訴したのですが、昭和17年(西暦1942年)の判決において、治安維持法では全員無罪の判決が言い渡され、不敬罪のみが有罪とされたのです。

    不敬罪とは、当時の日本天皇は現人(あらひと)神であり、その神たる天皇に対する不敬のみが有罪とされたのですが、日本の敗戦による恩赦により不敬罪はなくなりました。日本の天皇は現人(あらひと)神ではなくて象徴となったからです。それによって、不敬罪そのものは今日はありません。

     

    日本の天皇は現人(あらひと)神であると主張される霊能者の方もあれば、日本の天皇で神であった魂の方は一人も居ないと主張される霊能者の方もあります。そこには様々な意見はあります。応神天皇と呼ばれる存在にしても、本当に存在して居たのかさえ疑わしいとされるからです。

    私自身、香椎宮、箱崎八幡宮、宇佐八幡宮、太宰府等を巡っていて、そこで私が見た御神霊の存在に首を捻っていました。私の霊界修行のお世話をしていただいた豊受姫のお代をされていた最初の師匠が健在ならば、私が見て抱いた疑問の謎を教えてくれたかも知れませんが、当時の日本で10本指に入るとされたその師匠ほどの霊能者は、残念ながら今の日本には存在していないと思われますので、私が抱いた疑念は今も謎のままとなっています。

     

    そもそも日本の天皇家がこの日本を支配していたのは平安時代以前のことで、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代と武士が日本を支配する世でした。その意味では、織田信長には如何なる神霊が懸かっていたのか?。豊臣秀吉には如何なる神霊が懸かっていたのか?。徳川家康には如何なる神霊が懸かっていたのか?。日本の歴史好きからすると、そちらの方がより興味が尽きないとなります。先祖から受け継いだ遺産ではなくて、一代で天下を取る動きだからです。

    しかも日本の天皇家は、第25代武烈天皇から若狭の一豪族であった第26代継体天皇への流れが異様であり、一部の霊能者達は霊的サイドからの調べで天皇家の系譜や歴史の書き換えが行われたとします。【継体】という言葉そものが、体制を継いだという意味になります。日本書紀も古事記も継体天皇よりも後に編纂された書であり、当時ならば権力を握れば簡単に日本の歴史そのものを書き変えることも出来たからです。

     

    大本教が明治以後の日本の国家神道から目の敵されたのは、大本教の出口王仁三郎聖師がこともあろうに皇居前の広場に3000人もの民兵的な組織を伴って、その前で白馬に乗って、まるで天皇のように【閲兵】をしたがあるからです。当時は【白馬】にまたがるのは天皇を意味したのです。

    優れた霊能者は、よりによって皇居前の広場で白馬に乗って3000人もの民兵的組織の前で閲兵するなど、自分が本当の【天皇】だと天皇家に向かって誇示したようなもので、いくらなんでもやり過ぎだです。国家転覆を謀ったと当時の維持法で捕らわれてもいたしかたがないです。

    この時の大本教の出口王仁三郎聖師の行動に関して、世に学者と呼ばれる人達がいろんな説を出されていますが、それらは人間サイドからの見方と言えます。霊界サイドから見ると、そこにそれなりの意味があったと解ります。

     

    私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神(艮金神・国常立尊)と称する声は、私に【そなたが日本の天皇と出会う時があるならば、例えそれが日本の天皇であろうとも、そなたに向かって頭を下げて来なければ、そなたは頭を下げてはならない。】と、そうしたことを告げられたのです。

    それは私が別に日本の天皇よりも偉い者だと言われたのではないのです。その後の言葉として、【もしそこに卑しき乞食の様な姿をした者が居て、そなたに頭を下げて来たならば、そなたはその者が下げた頭よりも低く頭を下げなければ行けない。その卑しき姿の者はそなたを見て頭を下げたのではなく、そなたの背後に居るこの私を見て私に対して頭を下げたのである。私はそうした者達を永遠の神の世に救う。】と告げられたのです。それは、私の背後には【国常立尊(旧約聖書の神)】と呼ばれる神が控えているという意味です。

     

    私が伏見稲荷山で修業している当時、多くの稲荷神達が私に向かって土下座をして来られる光景が見えて来ました。私は一介の修業者であり、何事かとそのことを当時の豊受姫のお代であった師匠に言ったところ、【貴方は何も解っておられない。そうした稲荷の神達は貴方に向かって土下座されたのではなくて、貴方の背後の方に向かって土下座されているのを貴方が霊的に見ただけです。貴方は貴方の背後に居られる神がどなたなのかがまったく解っておられない。】と叱られたしだいです。私には私の背後に居る神霊など【後ろの正面はだあれ】で解らないなのです。

     

    それは旧約聖書の神(艮金神国常立尊)からすれば、

    日本の天皇も卑しき身なりの乞食の様な姿の人も

     

    この世では【同一】の立場だと言うことなのです

     

    私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、【肉体を持ってこの世に人として出れば、皆、同じ立場である。】と、きつく言い渡されていました。それは、人が人を裁いてはいけないなのです。そんな権限などどこにもないのです。

    世の立替の時、その人がこの世で如何なる地位にあっても、そんな地位や財力などは艮金神国常立尊(旧約聖書の神)にとっては何の意味もなさないということなのです。その時、この世に居る人の外的な地位や身分ではなく、その人の魂の在り方で最後の審判(判定)がされるなのです。この世での地位を振りかざしても、何の効果も考慮もされないなのです。

    すなわち、創造神からすればこの世に籍がある人は全て同一の立場にある者として扱うなのです。

     

    大きな神社等に行きますと、その神社の宮司が金持ちや身分の高い人だけに愛想を振りまいていておられたりします。それは人をその外形で差別しているであり、本来の神に仕える立場の宮司であれば失格なのです。私が子供の頃、旧約聖書の神と称する声は、【馬子にも衣装(誰でも外面を飾れば立派に見える)】を言われました。そうした外形ではなく、中味(魂)が大事です。

    それは日本の天皇として生まれた出たから特別な魂の人であり、名も知れぬ貧しき家に生まれ出たから卑しき魂の者ではないということなのです。福沢諭吉の言葉にある【天は人の上に人を作らず】なのです。

    この世は魂の修学の場で在り。その修学において、いろんな環境に生まれ出て来るなのです。日本の天皇として生まれ出るのも、名も無い人として生まれ出るのも、全てこの世での【役目】という話に過ぎないなのです。

     

    そこに来る日本の神話が【蘇民将来(民は将来に蘇る)】

     

    乞食の姿とされるように、神は立派な姿で現れるでは無い

     

    一部の霊能者の方達は、私に対して【貴方は神界では何々様ですよ。】と言って来られますが、それが本当なのかどうかも解りません。ただ、私は今生の役目として、【この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国である。そなたはその仕組を見て、人々に告げなさい。】と旧約聖書の神と称する声から告げられたことをしているだけです。私の魂の本当の正体が神界で誰であろうと、私は社会の底辺を市井の者として生きているなのです。私も今生の生き方が創造神の御心にそぐわない生き方であれば、いくら神の御用を務めた者であっても私も処罰を受けるでしょう。

     

    人の身分や財力で差をつけるは、誠の者の所業に非ず

     

    これから先、日本だけでなく世界は自然現象の天変地異の中に入って行くと予想されます。もう神にこの地球の安寧を祈ろうとも、そんなものは通用しません。永遠の神の御国に入って行く魂と、そうではない魂との永遠の別れの時を迎えるだけなのです。

    大本教は日本の皇室の祖神とされる天照大御神よりも【国常立尊】の方が上位の神だから「国常立尊」の名を世に出して、皇室神道と張り合ったのではないのです。皇室神道などを振りかざしていては、地球の危機に対処する世の大立替が解らないからです。

     

    ですから、旧約聖書の神(艮金神国常立尊)と称する霊声は、私に

     

    【この私だけを唯一の神とせよ】と告げられたのです

     

    それは創造神に、この地球の現状を何とか助けてくださいと祈ることではないのです。創造神とされる神と共に永遠の【神の御国(みろく世)】に渡る。そこに視点を置き換えなければならないなのです。それは【輪廻転生】が終了して、永遠の世に向かうからです。

     

    私は霊能者をしている者ではありませんので、その真偽のほどまでは解りかねますが、伊勢神宮を訪れられた霊能力がある方が、その伊勢神宮の神と称される霊から上野公園と称する者に伝達して欲しいと頼まれた言葉は、【この私(伊勢神宮の神)は、この日本の総氏神として三千年間の月日に渡り務めたことを忘れないでいただきたい。】というものでした。

    前回のブログに書いたように、自分に天之御中主様が降りて来られて、上野公園なる者のブログは全て嘘記事だ。禊ぎとは温かいお風呂に浸かることだと言って来る様な霊が跋扈しているのが今の神霊世界の現状です。人を煽てて来る霊もあれば、人を貶して来る霊もあります。ですから、霊の言葉とは頭から信じるのは難しいのです。ですから、そうした伝言は本当だとは言い切れません。

     

    私自身の魂は霊界の伊勢神宮に飛び。約一万霊体にもなるであろう絢爛豪華な神霊行列を見せていただきましたが、この日本の総氏神たる立場と、万物の創造神とでは神としての立場や格がまるで違うのです。

    私が子供の頃に臨んで来た旧約聖書の神と称する声は、【私はそなたに何の神力も与えない。そなたにこの神の神力を与えるのは、最後の最後の時である。】と告げられただけで、何の神力も保有していません。与えられていません。ですから、私が言っていることは何の証拠にもなりません。

    ただ、私は大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を紐解いたことだけは間違いない事実です。どの神様達にも紐解けなかった代物です。

    ただ、それは大本教神諭に【この神の大望を知る者は世界に唯一人。】とあるように、たった一人だけなので、無力の私にはどうすることも出来ない。それだけのことなのです。

     

    それをどう見るかは、その人しだいであり

     

    言葉の仕組で創造神の存在を確信出来る人は幸いなり

     

     

     

    精神世界

    にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
    にほんブログ村

    この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。

     


    嘘から咲かせる「誠」花。虚空蔵から出るデタラメの嘘を叩かないと誠は出せない

    0

      私は子供の頃は旧約聖書の神と称する霊声を聞いていましたが、言われる内容が子供心にもあまりにも【途方】もない内容なので、それを全面的に信じていたではありません。だが、昭和五十五年に私の身に起きた摩訶不思議な出来事から覚悟を決めて、神霊世界の修業に入ったしだいです。私が子供の頃に聞かされた内容は本当なのかを確かめる為です。

       

      人は宗教の教えによって、死後の世界があると学習します。しかし、宗教の教えと言っても、キリスト教やイスラム教などは唯一神信仰の世界であり、基本論として輪廻転生の教えがありません。キリスト教の牧師にもイスラム教の聖職者の中にも「輪廻転生」を言われる方は僅かにはありますが、そうした方達は【異端者】とし扱われておられます。

      日本人の大多数が信じる仏教は多仏の存在であり、日本神道に至っては蛇霊や狐霊なども神霊として祀る八百万信仰まで含まれて来ます。神と言う言葉の概念の幅があまりにも広すぎて、そこには高級神名を勝手に名乗る動物霊の跋扈もあります。

      私は既存の宗教界の教えではなく、稲荷と言う西洋では考えられない「狐霊」達の世界から霊的世界の存在を見聞して来たと言えます。それによって霊界底辺の様が理解は出来ました。そうした霊的世界は学問的なことをいくら学んでも解りません。詳しい書物そのものがないのです。

       

      ヒンズー教や仏教には【輪廻転生】の教えはありますが、日本の某仏教宗派は公然と「死後の世界などは無い。人は死ねば終わりで土に還る」と言ってはばかられません。その信徒は霊的な事を言うと「オカルト」だと攻撃をされます。いったい貴方達が拝している仏とは何ぞや!。です。あまりにも酷い宗派も存在するです。

      その宗派では仏典に輪廻転生の記述があっても、それらは【嘘も方便】の教えであると言われます。この仏教宗派は日本仏教会にも所属していないので、この宗派の信徒達は死後にどうした世界に行くのかもう一つよく解りません。信徒達の行き先は解りませんが、その宗派の僧侶達は全員地獄界に行くと思われます。基本論として、死後の世界が無いと思っていると霊界で迷うからです。

      私が見て来たのは現世御利益信仰に走る人達と、その人達が信じている教祖様を「救世主様」と仰いで死後の世界で亡者道とか地獄道に入って行かれる人達です。何と、天国界に進む人の少なさよ!。です。

      それは、今の世は創造神と遊離している人達ばかりと言われる由縁でもあるでしょう。また、多くの諸神達も【天帝】と呼ばれる存在が解らなくなっているのです。

       

      死後の世界とは、西洋ではキリスト教の牧師が【魔界】と称する魔女とか魔術師達の存在によって、霊的世界の存在を認識している人達はいます。そうした西洋魔術では【黒魔術】と【白魔術】が知られているわけです。人から依頼されて、相手を病気にしたり殺すことが黒魔術であり、逆に黒魔術師の攻撃から相談者を守るのが白魔術と言えます。同じ魔術師たる存在が黒魔術をしたり白魔術をするです。それ自体はこの日本でも【調伏】と呼ばれて一部の行者により秘密裏に行われています。明王などを拝むのです。

      だとすれは、不動明王であろうとも孔雀明王であろうとも、そうした神霊は行者が頼めば人殺しも受けているとなります。多くの霊能者の方が神には【善悪】論は無いと言われますが、今の神霊世界に【正義】という言葉は存在していないのです。

       

      正義とか良心は人が持つ物で、神霊達が持つではない

       

      私自身は2番目の師匠から死神を送りつけられて殺されそうになりましたが、それを見破った時、その死神から「おまえが殺したい者があればこの私を呼べば、その者を殺してやる。」と言われましたが、神界とか霊界とかは我が宗派の教えを信じれば天国などという様な安易な論理では理解不能だと言えました。

       

      「調伏」とは、依頼を受けて相手を病気にしたり呪い殺すです。日本でも平安時代は盛んに行われていました。ほとんどの人は知らないでしょうが、明治時代の刑法にはそれらに対する刑法すら存在したのです。旧刑法(明治十三年七月十七日太政官布告第三十六号)の第427条第12号。警察犯処罰令(明治41年9月29日内務省令第16号)

      第2条 左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処す。

      17 妄りに吉凶禍福を説き、又は祈祷、符呪等を為し、若しくは守札類を授与して人を惑わしたる者

      18 病者に対し禁厭、祈祷、符呪等を為し、又は神符、神水等を与え医療を妨げたる者

      19 濫りに催眠術を施したる者

       

      それ以前の明治政府の通達には、梓巫女、市子、憑祈祷、狐下げなどによる、玉占や口寄せといった呪術的行為も禁じていたのです。【シャーマン】の存在そのものが禁止だったのです。為に優秀な霊媒者が悲劇的な死をされています。が、戦後の刑法ではそれらは除外されました。そうしたことは不可能として「不能犯」としたのです。科学では霊世界は実証が不可能な分野だからです。

       

      私が見た霊的世界とは、とても科学や物理学ではあり得ない現象だったと言えます。しかし、私は霊能者としては落第生だったと思います。霊能者の方達から指摘されたことですが、【貴方は上の霊世界が見える方で、やがて宇宙最高神も見る方です。だが、下の世界がまるで見えていない。今の霊世界は蛇霊や狐霊と関わることが出来なければ、あまり役立たない。】です。いくら神の世界の教えは出来るとしても、実践霊能者としては失格者です。霊的実践が出来なければ、霊障などの困り事相談に何一つ関われないからです。

       

      私は稲荷神界に籍を頂き、白狐達の活動ぶりも見て来ました。白狐達は実に【便利】な存在です。いろんな情報をもたらしてくれるがあります。側に居てアドバイスを受けると、とても楽な存在です。蛇霊にしても【病気治し】に活動しているです。

      そうした蛇霊や狐霊は霊界底辺で起きる出来事に関しては、よく当てたりします。しかし、個人レベルでない社会的出来事になると、その言うことがまったく当たらないとなります。

      大教団の教祖さんでも、上の世界のことになると言われることが【嘘】だらけが起きて来ます。その言われることがまったく当たらないです。その教団を主宰している神霊、その多くは霊力を持った【黒龍神】などになりますが、私は黒龍神の浄霊に死ぬ苦しみを味わいましたが、それだけ汚れている「黒龍神」を神と崇める方の気が知れません。霊界でも上層神霊界に関してはまったく解らないとなるのです。私は神霊世界がどうしてこれほど【嘘】にまみれになるのか、初めは意味が解りませんでした。

       

      霊的世界では、本物と呼ばれる霊能者は僅かしかおられず。

      どれほど優れた霊能者でも、その正解率は70%台と言われています。

       

      誰も神や霊の世界を正しく説明が出来ない【謎】がある

       

      私が書いていることはその多くが大本教神諭の解説であり、私の霊的世界の体験とは大本教神諭の解説の為の知識としての事柄が主体であって、私自身は予言や人助けの為の霊能力を何も保持しておりません。また、特定の神のお代をして、その神霊の神示を聞いて発しているのでもありません。言葉の仕組みの解説で、私の教科書はある意味【漢字辞書】と霊界見聞と言えるかも知れません。

      なまじ、何神様かのお代になれば、その神霊が出す神示以外のことを自由に学ぶことも出来ません。豊受姫のお代であった最初の師匠や私が出会った霊能者から、【貴方に教えが出来る神など、どこを探しても見つからない。】と言われ、自分が見て来た霊的映像や霊的体験と多くの優れた先人達の書物や漢字辞書に頼って来ました。

       

      私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、人の世の命は短い。その短い一生で何もかも学ぶなどは誰であっても不可能なことである。自分が体験していないこと。知らないこと。それを他の人が体験しているかも知れない。そなたが知らないことも他の人は知っているかも知れない。その人は体験したのである。学んだのである。そうした他の人の体験や学びを否定してはいけない。その他の人の体験や知ったことを自分の学びとするのであれば、それは自分の学びとなる。多くのことを知ることになる。】と告げられました。

      ですから、私は霊的体験者がどのような体験をされて来たのか?。その方の背後で動いた霊的存在は何者か?。そうしたことを調べ学んできたと言えます。

       

      私は旧約聖書の神と称する声すら、本物かと疑いを持ちました

       

      だが、日本に旧約の神が告げられた【言葉の仕組】は存在した

       

      私は旧約聖書の神と称する霊声から、私はこの世の幕を卸して嬉し嬉しの未来の世などと、別地球というあまりにも途方もないことを告げられたからです。ですから、私の修業のお世話してくださった豊受姫の貴方の本守護神は「国常立尊」様ですよの言葉のみならず、多くの霊能者の元を訪ねて【霊査】を受けて来ました。すると、7〜8名の霊能者の方から、貴方の本守護神は【国常立尊】様ですよと指摘されたわけです。他に「天之御中主」様。最高神様。天帝様。閻魔大王様とか言われる霊能者の方もありました。しかし、有料のプロ霊能者でも、貴方にはどなたもおられませんと言われる方も多々ありました。数的にはそちらの霊能者の方が多いのです。

      私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【そなたの背後にこの私が居ることが解らぬ神は使い者にならぬ神】と告げられたましたが、解る神の数は少なかったとは言えます。だからと言って、私の背後にそれほどの神が存在するのかどうかすら実際には解らないと言えます。自分は凄い者だと思っている霊感者や霊能者は、私は低級霊に【欺されている者】だと言うからです。

       

      私自身は、実際には神の力を知らずして、仕組を説いている

       

      大本教と呼ばれる宗教が起きて来て解って来たことは、記紀神話の「天之御中主」と「国常立尊」は同一神の天地の別れの働きであり、旧約聖書の神でもあるです。大本教から【万教同根(世界の宗教は元は同じ根)】論が出されたのもその為です。そして、大本教から【牛虎金神・国常立尊】として出されたことにより、仏教の【閻魔大王】でもあるということも解って来たなのです。

       

      私は自分が神霊とほとんど会話できないことから、御神霊のお代さん等に質問ばかりしていると、その御神霊が最後には解りませんとなります。そして、自分は霊界では高い世界の存在ではありませんから答えられませんともなります。

      日本の神道系では神霊と称する存在と対峙する時は質問を浴びせます。その質問に答えられるかどうかで、その名乗りが本物かどうかを判断します。それを【審神(サニワ)】と呼んでいます。霊が自分は○○神と名乗って出て来たから信じるではないのです。

      日月神示などには「99%」は邪神などとありますが、高い神名の名乗りや西洋の天使名を名乗る霊の「99%」は邪神(ニセ神)だとされているなのです。

       

      最近も、自分に【天之御中主】様が出て出て来られて、上野公園と称している者が書いているブログは全て嘘の内容だ。禊ぎとはお風呂のお湯で体を洗うことだと教えて頂きました。これまでは貴方のブログの読者として学ばさせて頂きましたが、「天之御中主」様が貴方のブログは全て嘘の記事だと言われるので、もう貴方のブログは一切読みません。今日までありがとうございましたとメールを下さった方があります。そう思うのであれば、何もメールを寄越さずに私のブログを読まなければいいだけで、実に律儀なお方です。

      日本神道の【禊ぎ】の意味を知っている方であれば、禊ぎは【身削ぎ・身殺ぎ】の言葉の意味で【辛い】体験です。禊ぎがお風呂の湯に浸かることだと言う存在は天之御中主どころか、霊界では低級も低級の動物霊だと簡単に解ることです。その言葉を頭から信じるは、私のブログを読んでいて何を学んだのか?。と首を傾げざるおえません。

      なまじ霊的存在の声が聞こえる。その姿が見えるだけで自分は特別な者だと思うと大錯覚に入るのです。それは、今日迄霊的存在があまりにも否定されて、そうした霊に対する研究が何もされていないからです。通常ならば、自分などに本当の【天之御中主】様など降りて来るだろうか?。そうした疑いを持つのですが、そうした作業もせずに自分に出て来た【天之御中主】様が、貴方のブログ記事は全て「嘘」だと言われたので、それに従いますなのです。

       

      実は、神霊世界ではこうした【素直】な方は神々の取り合いです

       

      なまじ疑問をぶつけて来る者は、実にやりにくい存在だからです

       

      霊的世界のことはほとんどの人には見えません。それで自分が見た物や体験だけに凝り固まって、それ以外のことは否定するという方が多々あります。そうした人ほど俗に邪神と呼ばれる存在の餌食となっておられたりします。巷で自分には「最高神」が降りて来ると言う霊能者を集めれば、「おまえはニセ者だ!。」合戦となります。皆、誰もが自分だけが本物なのです。

       

      大本教神諭の明治31年旧11月5日には 【九つ花は誠から咲せる花であるから、三千年の経綸を致した。誠の本であるから誠の人の世話でないと、このお世話は出来んぞよ。】とあります。

      この【九つ花】は大本教から基本構図が出されたのではなくて、大本教に在籍していた当時は大本教出口なお開祖派で反出口王仁三郎聖師派であって、後に神道天行居の開祖と成られた【友清九吾(きゅうご)】師に、何神かが懸かって教えたことで最初にその数理盤が世に発表されました。私が「米」型として出しているものです。

      大本教で説いた「みろく大神」とは、九×九の数理盤による【369】の意味であり、真ん中の「41」は【天之御中主】様。言霊で【ラ】神。これが最初に世に出された【ラ】神論の先駆けとなります。友清師の本名が「九吾」であり、その「氏名」からしても「九の悟り」たる「使命」があったとなります。

      だが、その発表に関わらず、その教えは世にさほど広がりませんでした。現在も一部の方が三六九神示とか、言霊の仕組みとして【ラ】神を説いておられる程度です。その仕組みが、本来はお釈迦様の悟りであった【人に内在する良心神】であることは、友清九吾(歓真)師も思考が至らなかったのです。知らなかったと言えます。

       

      いくら、言成るの【誠】と言っても、ほとんどの方が【言霊】とは何かが解っていないのです。九の「数理盤」を出すだけでは無理であったとなります。私は修業時代に言霊学会の重鎮達が主宰する講演会に行きましたが、単に学問上の知識者だけの集まりでした。どなたも霊界と噛み(神)合っていないのです。実際には神霊世界の見聞がどなたも出来ていないなのです。

       

      その大本教神諭の明治25年旧正月版に

      【尊い世の根の世の本の、龍門館の高天原であるから、何を致しても、綾部の大本の許しの無きは、九分九厘でひっくりかえるぞよ。皆神の仕組みであるから、我が我がと思うて致して居るが、皆艮の金神が、化かして使うて居るのであるぞよ。】があります。

      この明治25年旧正月とは、最初の神示に当たります。大本教から、綾部から離れてしまいますと、意味が解らなくなるのです。その中の【艮の金神が化かして使うているぞ】が何を意味していたかです。

       

      スピリチュアル標榜者の方の中には、自分は【アカシックレコード】が読めると豪語している方達があります。このアカシックレコードとは、この世での全ての事柄の過去から現在、そして【未来】までが書かれているとされます。

      そのアカシックレコードを読めれば、あらゆる【予言】が出来るとなります。そのアカシックの語源はサンスクリット語の「アーカーシャ」からです。その意味は幾つかありますが、インド哲学上の意味を日本語にすると【虚空】の意味となります。

       

      万物は全て【虚空(牛虎)蔵】から発したです

       

      虚空蔵とは「0(霊)」的世界の意味で、仏教で説く【無から有を出した】世界のことです。大本教から出された【ウシトラ】には【牛虎】もあるぞよとありまして、仏教における【虚空蔵菩薩】の守護年は【牛歳・虎歳】とされるように、牛虎の言葉そのものに【虚空】の意味が秘められていると解ります。大本教の出口王仁三郎聖師の予言能力が非常に高かったのは、そこに牛虎金神の【虚空蔵】と関係していたからです。為に、他の神々には出来ない予言が出来たのです。

      私が修業のお世話になった豊受姫も、事前に「阪神淡路大震災」や「普賢岳爆発」などの数々の予言を的中させて来られましたが、豊受姫と国常立尊の間には深い関係が存在したからです。豊受姫の分魂を貰っておられる肉体の方は、皆さん「国常立尊」様のことを言われます。そして「豊川稲荷」です。これは不思議なことに、皆さん言うことが一致しています。

       

      では、スピリチュアル標榜者で自分はアカシックレコードが読めると豪語している方達が、まったく先(未来)を当てられないのは何故か?。です。

       

      虚空蔵の周囲に【デタラメ】の玉が飛び回っている

       

      牛虎金神が、世の神々を「化かして」使っている玉


      その中の当たり玉を取れば、予言は大当たりをします。だが、デタラメの玉を拾うと当たらないのです。虚空蔵にはいろんな【未来映像】が流れています。しかし、その当たり玉は100の内の一つぐらいでしょう。99%は嘘の玉(化かし玉)を拾ってしまうのです。そこに予言が当たらないが起きます。

       

      嘘の字は虚空(牛虎)蔵の虚の口、嘘の字に牛虎の虎がある

       

      大本教神諭の【皆、艮(ウシトラ)の金神が、化かして使うて居るのであるぞ。】は、世に出ている神や霊は、その虚空蔵から出る【デタラメ】の玉を理解していないなのです。私はその「デタラメ」にどのような漢字を振れば解りやすいかと考えました。国語辞典では【出鱈目】で完全に当て字です。これは【出多羅目】が解りやすいでしょう。また【出多良芽】などの漢字も振れます。つまり、【ラ】の言霊を解らせる為と言えます。

       

      日本の諺に

      嘘は誠の皮、誠は嘘の骨があります

       

      ならば、誠は【嘘の皮を叩いて骨とする】です

       

      で、私の【誠】の解読作業は神々や霊が出す「嘘の言葉」を叩くことによって、どこに本当があるのかの見極めをして来たわけです。そこに大本教神諭の【皆艮の金神が、化かして使うて居るぞ】があるのです。

      だが、私の言葉の解読が完全かと言ったならば、完全ではありません。特に言葉の仕組みからする予言の解釈は難しいと言えます。私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【そなたが教えを間違えたならば、その責任はそなたには非ず。この私の仕組みが悪かったのである。】と告げられましたが、言葉の仕組みの解読とは、「世の仕組み」で解読は決して簡単なことではないのです。

       

      神ならば、その言う言葉が100%当たらないと承知しない等と言う方は永遠に神など見ないでしょう。どんなに優秀な霊能者でも予言者でも、その正解率が70%もあれば超一流者です。当たるも八卦。当たらぬも八卦と言いますが、正解率が50%もあればそこそこの霊能者なのです。西洋の冠たる予言者でも、実際には外れ玉がほとんどなのです。嘘を言っているのではなくて、霊界の嘘を拾うなのです。

      超一流の神霊のお代さんでも、当たらない神示を出されることがあるはこの世界では常識の範疇です。それはその御神霊が全神界のトップ神でない限り無理な話なのです。さらに、世には世に出ている神霊達の【思惑】が様々の形でうごめいているからです。一つでも【嘘】があればニセ神だの判断は、神霊世界をよく理解していない人の発言と言えます。

       

      もし神々の発言が全て正しいであれば、私達人類は早くに霊界を把握出来ていたでしょう

      自分に出て来るのは最高神だと主張出来るのであれば、その神示が外れるもないでしょう

       

      どこまで神霊が出す嘘を叩けるか、許容出来るかです

       

       

      精神世界

      にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
      にほんブログ村

      この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。


      種々の九分九厘の教えを統合して「九つ花」に咲く一輪を入れれば、創造神の教えが見えて来る

      0

        私は大本教神諭(正式には大本神諭)の解説に特化して来ました。それは世間的な言えば一つの宗教団体の教えに偏向しているという考え方にはなります。しかし、私は霊界を見聞をして来て、霊の言葉には非常に嘘が多いを味わいました。

        確かに、貴方は昨日誰々と出会っていましたねとか何を食べましたねという様な類いの段階であれば霊は的中させて来ます。そうした世俗的な話に関しては、霊は人の行動はよく見えているです。そうした神霊の前で【嘘】を出しても見破られてしまいます。私は神霊の前では【嘘】は通じないと言います。

        人は自分が喋ってもいない事を言い当てられてしまいますと驚いてしまいます。それが高い霊等と錯覚に入ります。だが、この日本がどうなるのか?。人類はどうなるのか?。そうした段階になると見事なほど外れます。ある意味、スピリチュアルの限界です。

         

        未だ来ない未来を予言するのと、起きた事を言い当てるは別

         

        人類や社会に起きる出来事の予言は高級霊でないと出来ない

         

        私はこの違いは何だろうかと探っていて、霊の世界とは【横】に広がるだけではなく、【縦】に【次元】と呼ばれ【階層】でも成り立っているということです。

        仏教では【三千世界】が説かれますが、これは三千個の世界があるという意味ではありません。一番上の階に千の世界が存在し、その千の一つの社会の下にまた千の世界が存在して来る。それは100万個の社会の世界です。その100万個の世界の一つにまた千の世界が存在するで、10億万個の世界が存在するが三千世界です。しかし宇宙全体では10億万個の社会では済まないでしょう。そうした意味では神は語りきれません。

        その三千世界を第一天国、第二天国、第三天国論に当てはめますと、10億人が第三天国階に居ても、第二天国階に行くのは100万人。第一天国階に行くのは千人なのです。計算上では第三天国界に100万人居ても、第一天国階に行けるだけの者はたった一人程度となります。仏教は実に狭き門の存在を説いたと言わざる得ません。ただ、霊能者は三千世界的なことは言わずに【次元階】で説いているのです。人数の割合ではなく、個々の魂が次元を上がるです。

        霊が見えるとか、霊と会話するだけでは下の霊世界との交流であり、霊の世界の存在証明にはつながりますが、それで自分が高い次元界と交流しているではないのです。

         

        インターネットなどに、霊からの伝達としてどこどこに地震が来ます。そうした予告がかなりなされています。しかし、ほとんど外れて行きます。当たることそのものが珍しいなのです。だが、大本教の出口王仁三郎聖師の予言は的中していた事実は歪めません。東日本大震災も事前に言われた方が数名はありました。霊界では事前にそうした天災も事前に解るのですが、霊界との関わりの能力の問題になるのです。

        その方を守護している守護神霊さんの存在が高ければ高いほど、そうした神霊の予言も当たって来るです。

         

        あるブログ主さんから、その方の御祭神からと言って○月○日にどこどこに大地震が起きると神様が言われています。世間に広めてください。そうしたメールが幾度か送られて来ましたが、その当日には何も起きない。なのに性懲りも無く、△月△日に東海沖大地震が起きると神様が言っておられます。無論、それは当たりません。

        その方の守護神が言われる御神示で当たった試しがない。あまりにも当たらない予言の神示の連発に、御本人に注意申し上げたところ、【自分の力が未熟で至らない為に神様の神示が外れてしまいました。】と詫びを入れて来られるのです。それは一見すれば謙虚に見えますが、自分の力が未熟であるならば、それ相応の神霊しか自分には関わっていないと認識されていなのです。

        それは自分が未熟だとか至らないから神様の神示が外れると言う問題ではないのです。それはその神霊の名乗りに自分が騙されているということに、いくら経っても本人が気づけていないのです。その神霊の言葉に踊らされているなのです。

         

        巷で自分が創造神だ。救世主だと称しておられる方を100人集めれば、その100人が100人とも、自分以外にそうした名乗りをしている者は全て蛇や狐や狸や猫の霊に騙されている者だの合戦になります。そうした名乗りをする霊能者の背後は蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊だということは誰もが解っているのです。

        そこにあるのは、常に自分だけは騙されていない者だが、他のそうした名乗り者は騙されているで、そこから一歩も抜けられないがあります。トドメのフミと呼ばれる謎の神示に、日月神示も九分九厘とありますが、世に出回っている神示にしても完全なものは一つも存在していません。

        巷には自分に宇宙連合○○○○司令官等が降りて来ると言われる方達も多いのですが、この手の宇宙司令官話は西暦1999年当時は非常に多かったのです。だが、1999年には何も起きなかったことにより、この手のブログはほとんど消えました。皆、自分は霊に騙されていたと解って、そうした活動をしなくなったのです。

         

        霊界は存在しないでなく、霊が発信する内容に嘘が多い

         

        為に、死後の世界の霊界等は「嘘」だと言って霊界否定に走ると行き過ぎなのです。大本教の出口王仁三郎聖師の予言は個人の幸福の話ではなくて、この地球がこの社会がどうなるかを予言して的中させて来られたなのです。ここを読み違えてはいけないなのです。それだけの神霊が存在していたなのです。

        自分が未熟で至らないから神様の神示が外れるのではなく、自分が未熟で至らないから、自分は高級神霊とは本当は関われていないなのです。その霊が名乗っている神霊名が本当かどうかを本人自身が見抜けていないなのです。

        何度か書きましたが、霊界では集団霊による俺々詐欺集団が存在して来ます。その中で天照大御神役とか大国主命役などの役割分担がなされて来ます。ですから自分には霊能力があると誇っていても簡単に欺されてしまいます。と言うよりも自分になまじ霊能力があると欺されてしまうなのです。

        ですから、世に霊が見えるとか聞こえるという段階の者が千人居ても、本物の霊能者と呼ばれる存在は一人しか出ないとされているのです。

         

        私の神霊界修行のお世話をしてくださった豊受姫は阪神淡路大震災や普賢岳爆発などを事前に告げられる御神霊でしたが、そうではない豊受姫と名乗る霊を担いでおられる方から、私がお世話になった豊受姫は「黒狐」だと言われました。その方はその豊受姫と称する霊が本物だと認識してしまったなのです。逆に私から見ると、それは「大野狐」霊が支配する霊集団達なのです。だが、そうしたことを言い出せば中傷合戦になるだけなのです。

        ただ、そうした霊には特徴がありまして、世に書かれた本は信じるな。自分達の言うことだけを信じろで、本当か嘘かを知る学びすら否定するなのです。その本に書かれている内容が本当か嘘かを判断することすらさせないなのです。

        はっきり言えば、私がお世話になった豊受姫が【黒狐】の存在であろうが無かろうが、阪神淡路大震災などを事前に告げて当てる御神霊と、そうした事が何も言えないし、言い当てられてないのに自分は高い神霊と称している霊のどちらの神霊の言葉に【証拠】があるかなのです。

        大本教は世に邪教として国家弾圧を受けましたが、しかし出口王仁三郎聖師を通じて出された予言は当たっていたなのです。

         

        大本教と呼ばれる宗教が起きて、その後に岡本天明氏の【日月神示(ひふみ)】が出され、【九分九厘】の言葉が盛んに説かれました。九分九厘の教えとは肝心要の一厘が入っていない教えのことです。 謎の神示ですが、インターネット上に【金神の艮の文(トドメノフミ)】なるものが出回っています。これを読むと内容が非常によく出来ているとは解ります。

         

        この金神の艮の文(トドメノフミ)に

         

        神はこれまで言わなんだ、何が何とて言わなんだ。

        一厘隠しは神隠し。一厘伏(ふ)せねば立ちゆかん、これまでの世ぞ立ちゆかん。

        されど時節ぞ来たからは一厘伏せては立ちゆかん、これからの世ぞ立ちゆかん。

        ゆえに一厘明かすぞよ、これより一厘明かすぞよ。

        神信心、無くばこれまで治まらん、これまでの世ぞ治まらん。

        されどこれより神信心、超えねば世の中治まらん、これからの世ぞ治まらん、ここに一厘秘(ひ)めたぞよ。

        あらゆる教えは九分九厘、どなたの尊き教えとて一厘隠して九分九厘、一厘隠しはカミ隠し。

         

        −−−中略−−−

         

        これまでの日月神示も九分九厘、何が何とてわからずや、なれどおかしやおかしやと一厘伏せて申したら、あんなものぞと思いきや、一厘の蓋(ふた)ぞ開けたれば、これはおかしやおもしろや、やれ、おもしろや、おもしろや。

        目の開く者ぞ現われん、されどこれにて日が昇る。

        日月の書(ふみ)にも日が昇り何が何やらわからずに文字見るどころか書さえも手に取る事さえかなわずに足から手から錆の噴く哀れ悲しき人々ぞどっと出るぞと申すぞよ。

         

        −−−中略−−−

         

        金神前より伏せていた一厘の事を申すのぞ。

        上と下とのど真ん中、右と左のど真ん中、腹の中心ど真ん中、腹帯(はらおび)締しめて下されや。

        こことこことの真ん中にそれぞれ神が降りるのぞ。

        人それぞれの真ん中にこの度、神々舞い降りて、人なる肉身に鎮まりて三千世界ぞ建て直す。

        世の建て替えとぶち潰し同時に起こると申すぞよ。

        どちらに出るかその沙汰は金神次第と申すぞよ。

        金神のご沙汰次第と申すぞよ。

         

        −−−中略−−−

         

        同じ米でも大違い、一厘違いの米と米。

        同じ人でも大違い、一厘違いの人と人。

        一厘有ると無いのでは別ものなりぞと申すぞよ。

         

        −−−中略−−−

         

        この「金神の艮の文(トドメノフミ)」には【一厘】が何であるかは書いてありますが、その一厘は大本教と同じで【ス(主)神】となっています。それではやはり【九分九厘】としか言えません。

        しかし、ヒントは書いてあります。【上と下とのど真ん中、右と左のど真ん中】です。

         

        また、

         

        叱りて分れる事ならば、きつく叱りてやるなれど、説いて分れる事ならば、つらつら説いてやるなれど、この事だけはどうしても、押しても引いても揺すりても、わかれる道理と違うから、ここ一厘は人任せ、人間任せと申すぞよ。

        この事わかれる方々が出る程、道は別れ道、分れと申せど別れ道、わかれる人々増えたならわからん人々増えるぞと、道は二手に別れると、金神言う事、わかれるか。

        理屈にて、わかる、わからん別にして、神が有るやら、有らぬやら、これまで続いた無駄話、この一厘にもケリの付く、分れ道ぞと申すぞよ。

        経(たて)と緯(よこ)とが結ばれん、形を字にして十の字の、その真ん中のど真ん中、ここの話のわかられる、お人と成りて下されや、まことごころが芯に有る、お人となりて下されや。

        経と緯との結び目は経から見てもここにして、緯から見てもここにして、どちらもここしかごさんせん。

        こことこことの結び目が、こころなりやと申したら、まことごころと申したら、神の心のわかられる人達、わからん人達が二手にお別れする時ぞ。

        ここで一断ちいたすぞよ。神から見ればこの話、わかれ話と申すぞよ。

        ここの話のわかられぬ者に御用は務まらん、ここらでここにケリ付けて出直す時ぞとなりたので、こことこことのど真ん中、心の事にちと触れて、どちらも心を残さずに、心残りはいたさずに、わかれ話をいたすぞよ。

        一厘は人間任せと申すぞよ、神は人間創造(つく)する時、あれこれ苦心したなれど、それはどうこう言わんから、恩着せがましく言わんから、分りてほしいは唯(ただ)一厘、こころ一厘、ここ一厘、ここの一厘知る事ぞ。

        人が言おうが言うまいが、これしか無いぞと思うもの、人がやろうがやるまいが、わしはこれぞと思うもの、芯から湧くもの出づるもの、溢れ溢れる真のもの、その出所が心ぞよ。

        経と緯、こことこことの結び目の芯から出(い)ずる、真心(まごころ)に神の住む人、住めぬ人、別れ行くぞと申すぞよ、分れ行くぞと申すぞよ。

        旨(むね)に一厘有る無しで分れ行くぞと申すぞよ。

        中途半端は無くなりて二筋できると思すぞよ。

        この度だけは何とても、どうでもこうでも二筋の道になるぞと申すぞよ。

         

        −−−後略。−−−−

         

        牛頭虎敷(パンツ)の【牛頭天王(牛虎金神)】の祇園精舎を守護神とするお釈迦様の本当の悟りは埋没していた為に、大本教からウシトラ金神と「みろく神」の仕組みが世に出されました。だが、日本では牛頭天王は素戔嗚尊だと混同されています。そこに一度、素戔嗚尊で【スの神】論を出す必要はあったなのです。そこに、大本教に出た変性女子(ス神の素戔嗚尊の魂)の演技はニセ者だがありました。

         

        どの教えも【九分九厘】なのですが、それらの種々の【九分九厘】の教えを学び、そこに大本教神諭予告、【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を入れてくだされば、それらの九分九厘の教えにも意味があったと解って来ます。

         

        この仕組みは、スピリチュアルで【愛】などと言っているような人には、あまりにも桁外れの仕組みで解らないでしょう。理解不能とも言えるでしょう。愛では【一厘とは】がそもそも何かが解らないからです。

         

        今を助けて貰えても、未来の世が地獄であるなら悲惨

         

        魂の永遠性が解らないと、今の世で未来への道を誤る

         

         

         

        精神世界

        にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
        にほんブログ村

        この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。


        何故に大本教は予言の数々を出して、的中させて来たのか?。予言を的中させて創造神の存在証明

        0

          日本の新神道系では、「世の大立替」とか「みろく神」とか「ス神」とかが説かれていますが、これらは全て大本教と呼ばれる宗教が戦前に発信したことです。それらが世に戯言と取られなかったのは、大本教の出口王仁三郎聖師のカリスマ性とその予言の的中率にあろうかと思われます。

          そうしたこともあって大本教は戦前の日本で大宗教となり、そのあまりの勢いに日本の天皇家の国体を転覆させる邪教として国家からの大弾圧を受けて崩壊したがあります。世に言われる大本教弾圧事件です。

           

          しかしながら、大本教の出口王仁三郎聖師が予言した事柄の的中とは、日清戦争や日露戦争での日本の勝利。日本が受け取る賠償金額や譲渡される領土等の的中。太平洋戦争などの世界の大戦の予告。ソビエトが不可侵条約を破って来る。そうした戦争で登場して来た航空機や潜水艦やタンクなどの新しい兵器の予告。そして日本の広島と長崎に原爆が投下されて火の海となる。地震では関東大震災の事前予告などがありました。

          さらに大正時代に現代のテレビやスマホと思われる物の登場まで予告されており、どうしてそうしたことが事前に解ったのかがあります。それはスピリチュアルで人類の未来は定まっていませんなどの論理とはまったく違うのです。明らかに未だ来ていない先の世を予言して来たのです。

          大本教は数々の予言を的中させて来たことから【予言教団】だと言われて来ました。大本教で予言されたことは、この世で起きる可能性が非常に強いなのです。それ故に霊能者と呼ばれる人達は大本教が発信した内容を見ているのです。

           

          創造神には、諸神霊と違って未来が見える

           

          それらは単に出口王仁三郎聖師という個人の空想や妄想から発した事柄ではないのです。大本教が戦前の日本で大宗教になったのは、大本教神諭に【この神は病気治しの神ではなく、心の立替立直しの神である。】とありますが、実際には多くの大本教宣伝使達による全国巡回宣伝の中で病気治しが行われています。

          個々の宣伝使達に大本教の神の力が付与されて、人々にその神の威力を直に示したからと言えます。そうしたこともあって、大本教からは世界救世教の岡田茂吉開祖や成長の家の谷口雅春開祖を初めとして、多くの宗教開祖が出たと言えます。現在の研究では大本教を源とする宗派は108派とも言われています。日本の新神道系に強烈な影響を与えたのです。ですから、巷には自分の前世は大本教の出口王仁三郎聖師であったと称する方も多々あります。ただ、自分の前世と言うのと、出口王仁三郎聖師と同じ神の系列の魂だと言うのではまったく違うのです。そこに同じ神でも次元の違いが語られるのです。

           

          人は誰でも【空手形】でなく現金を好むで、大本教神諭に【心の立替立直しの神】といくらあっても、現ナマを出さないと信徒などは集まりません。人々が求めるのは現ナマで、戦前の大本教はその【現ナマ】を大量に出せたなのです。

          しかしながら、多くの霊能者が今の大本教を訪れて、その神はいったいどこに行ったのだと言います。大本教に出た艮金神・国常立尊がどこにも見当たらないなのです。大本教出口なお開祖と出口王仁三郎師が生存中にはそれだけの神は存在したが、今の大本教にはその神が存在していないなのです。

           

          大本教から出されたのは、

          人は神の子・神の宮。人は神の容器なり

           

          そこに、人の肉体に天降っている魂の存在とその魂の次元の格が言われているなのです。お釈迦様、イエス、マホメット(ムハンマド)、出口王仁三郎聖師、弘法大師、日蓮聖人などは魂が高い存在でしたが、人類の上に九次元とか十次元等と呼ばれる高次元界の存在の魂が降りて来ないと、人類には創造神段階の神のことはよく解らないがあるのです。

          巷には自分が【救世主】ですと称しておられる方が多数輩出していますが、お釈迦様やイエスを超えている次元世界から降りて来た様な高次元界出身の魂の方でないと、それは難しいとなります。そうした魂の持ち主は神社等に存在する御神霊よりも霊界では高い存在で、一代で宗教を起こされたなのです。

           

          私は伏見稲荷大社講に4年間ほど所属して、信仰の【現ナマ】を厭というほど見て来ました。人は【理想論】などでは動かないなのです。いくら【天国行き】などの空手形を発行しても確実性はありませんし、自分が置かれている病魔や生活苦を取り除いてくれる神霊にと向かいます。例えそれが悪魔であろうと蛇霊であろうと、今の【苦】を何とかして欲しいなのです。誰もこの世が【魂の修行場】だとの認識が出来ていないからです。

          為に、現在は霊力が強い黒龍神等が支配する多くの宗教団体が起きて、【現ナマ】の投下が行われているなのです。それはこの世における【一時苦】を解消してはくれますが、魂の点から言えば【天国界】には進めないがあります。そうした教団が勝手に発行する天国行きの切符は【空手形】になっているなのです。逆に地獄界に導かれるです。

           

          イエスは、イチジクの花が咲く頃と予言しましたが

           

          やがて、人類の上に訪れる【一時苦】にて花が咲く

          大本教では【節分の炒り豆にも花が咲く】と宣伝しましたが、同じ意味合いなのです。イチジクとは「無花果」で、花が無くても果が実るで、言葉の意味だと理解する必要があるのです。

           

          日本で著名なある教祖様は。その教えに【この世の苦や病は、自己のカルマが消えて行く姿(過程)】と正しく説かれてはいますが、現実に多くの人の【一時苦】にぶつかると、それを何とか助けてあげたいと思うのが人情であり、人を助ける力が欲しいと悪魔と契約して人助けの力を得られたと言われています。

          だが、その教祖様が死なれる時の断末魔は見ていた幹部達は、その死に様に恐怖に震え上がったと言われます。それだけ凄まじいものだったです。悪魔に人を助ける力と引き換えに自己の魂を売られたからです。この話は私がその教祖様の側近幹部の方から聞いたことなので間違いは無い話と思われます。

          私もその教祖様の気持ちは痛いほど解ります。その人が今の世で苦しんでいるのは本人の過去のカルマによる【一時苦】だと解っていても、人の【情】からすれば何か助ける方法が無いのかとなります。一般的に【正神界に奇跡無し】と言われますが、正神は人助けに関してはほとんど無力に近いがあります。そこで悪魔や邪神界の力に頼り走るです。

          しかし、霊界には【目には目を、歯には歯を】で、自分が積んだ【カルマ】は自分で解消しないと行けない原理原則があるのです。悪魔や邪神にはカルマを根本的に消すだけの力はないのです。それを先送りするだけです。カルマは仏教用語ですが、日本神道系では【借銭払い】などと説かれます。借金は払い負えないと何時までも残るのです。今の世は悪魔や邪神に頼って【一時苦】を回避したとしても、次の世に生まれた時にはそれは襲って来るのです。

           

          私は子供の頃に旧約聖書の神と称する声から、【そなたはイエスの愛の教えを恐れずに乗り越えよ!。】と告げられたのですが、神霊世界の修業に入って大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】の解読と、お釈迦様の本当の悟りが【人には良心と呼ばれる神が内在する。】だったと知った時、どうしてお釈迦様の悟りは人に内在する良心神から【仏の慈悲】等に書き換えられてしまったのかと考えた時、人に内在する良心神では【現ナマ】とはならないがあるなのです。

          お釈迦様の本当の悟りは、弥勒菩薩でないと解らないとされていましたが、大本教から「みろく神」が全面的に打ち出されたことそのものが、とんでもない言葉の仕組みを見せているのです。

           

          良心神の教えは、この世では現ナマにならない

           

          はっきり言って、お釈迦様の本当の悟りであった【人に内在する良心神】とは、私達の目には見えない死後の世界での【天国行き】の切符であって、この世に生きている者からすると【空手形】を言っているようなことなのです。人々に自分が死後に行く天国の様子を直に見させられないからです。

          では、何故に旧約聖書の神と称する声は私にイエスの愛の教えを乗り越えよと告げられたとなりますと、日本の神智学で【愛ばかりを言う者は蛇霊の教えに犯されている】とされるように、愛は間違えると【蛇霊化】する側面が強いからと言えます。これは実際に神霊世界に関わると解って来ます。神霊世界においては蛇霊神が圧倒的に多いからです。

           

          獣神や悪魔にも愛はある。されど、良心神は無い

           

          国常立尊御引退劇は、神々が蛇霊に毒されたから

           

          霊界に関わって蛇霊に言向けをすると、悔い改めた蛇霊は蛇霊の姿から麗しい天人の姿に戻って天人世界にと帰って行きます。そうしたことを見聞すると、私が子供の頃に旧約聖書の神と称する声が、【そなたはイエスの愛の教えを恐れずに乗り越えよ】と言われた意味が理解出来ます。

          しかしながら、お釈迦様の本当の悟りが【人には良心と呼ばれる神が内在する】であったとしても、それが消されてしまった。埋没していたという事実からしても、人には良心神が内在するをいくら人々に説いてもほとんど聞いて貰えないと言う現実にぶつかるのです。それは何故かと言った時、人に内在する良心神は【現ナマ】とは成らないからです。良心神そのものが現ナマを持たないなのです。

          では、どうして戦前の大本教では信仰する人達に【現ナマ】の支給がなされたのか?。

           

          大本教の【牛虎金神】とは、鬼が云うの魂の総親神で

           

          信仰する者達の魂の汚れ、カルマなどの消滅が出来た 

          そこに創造神だけを、唯一の神とせよがあります。

           

          大本教における【現ナマ】支給は、大本教と呼ばれる宗教を大宗教として、その教えの火を消さない為でもありました。いくら「現ナマ」支給をしても、その教祖が死すと消えて行った中小教団は山ほどあるからです。私が大本教と言う今日では中小教団となった教えに触れることが出来たのも、かっては日本の大宗教であったことからです。

          現在の大本教以上の大教団は世に多数ありますが、それらの教団には見るべき教義そのものが存在していません。魂的にはお釈迦様にはほど遠い人達が、自分の前世は「釈迦」であった等と名乗っておられます。オーム真理教の麻原彰晃などがそうでした。しかし、今の大本教内部には大本教の仕組みを解説出来るだけの者が居ないなのです。大本教の教義を【宝の持ち腐れ】にしていると言えます。

          私はかって大本教の大幹部が催す講演会で講師をして、その会場に居た大本教信徒達から「帰れ。帰れ。」の大コールを受けたことがあります。ある霊能者から「貴方は大本教に入信して、大本教を内部から立て直さないと大本教はダメになる。」と言われましたが、それは不可能だと承知しています。大本教の教えは【宝】でも外部からの発信しか方法がないのです。

           

          私が子供の頃に旧約聖書の神と称する声は、【この神を唯一神として仰ぐ者達は私は永遠の嬉し嬉しの世に渡す。】と言われたのも、輪廻転生。カルマの原則の中において、魂の汚れを完全に取れるのは私達の魂の総親神である神だけだからです。

          だが、私自身が2番目の師匠の元で【国常立尊】と名乗る御神霊の奇跡の霊力に引っかかってしまった様に、名乗りだけでは真偽が解らないなのです。霊世界では自分が創造神と称する霊がいくらでも出て来るからです。

          巷には【奇跡】の霊力をもって、自分が救世主ですと名乗っている人は多数居られますが、その真偽は?。となります。そうした名乗りの多くの背後には奇跡力を持つ【黒龍神】や【赤龍神】が存在して来るからです。

           

          そこに、日本語という言葉の仕組みで

          魂は鬼が云うで、牛頭虎パンツの鬼の仕組みが要る

           

          ウシトラの言葉一つで、いろいろ読み取れるのです

           

          しかしながら、それが本当にそれだけの神である【証】はとなりますと、霊的世界では国常立尊様が神界の表舞台から退かれた後、霊力を持った神達の群雄割拠の状態になっており、自分には神や天使が降りて来る等の百鬼夜行の有様で、そうした霊の名乗りだけでは本当かどうかが解らないがあります。

          未だ何も起きてもいない時に、未来に起きることを予言できる神とは、通常の神霊ではあり得ないとなります。私は霊界修行をしていて、自分は困っていますで【現ナマ】を支給をされる神達は多数見て来ました。

          しかし、未だ来てもいない未来のことを予告して言い当てる神ともなれば、これは限られて来る事実です。私がお世話になった豊受姫は「阪神淡路大震災」や「普賢岳爆発」を事前に言われましたが、そんな御神霊はさほどありません。

          それは貴方はいつ頃に事故に遭います等の個人レベルの話ではなくて、この社会が地球が人類が今後どうなるかの予言です。それが出来たのは大本教の出口王仁三郎聖師をおいて他にはさほど見られないなのです。

           

          大本教神諭には、【この大望な経綸の致してあることを、世界に一人知りておる。誠の人はこしらえてあるから、この誠の人が出て来んと解らんぞよ。】とありまして、世界にたった一人しか知らないでどうにかなるなど、私には理解しがたいことが書かれています。たった一人しか知らないでどうするのだ!。です。

          私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【私はそなた一人だけにこの神の仕組みを見せる。そなたはその仕組みを見て、人々に告げよ!。】と命令されましたが、それが大本教神諭の大望な経験がしてあることを世界に一人知りている者のことかどうかは解りませんが。

          ただ、私が旧約聖書の神と称する声から聞かされたことは、【私はこの世の幕を降ろして、人類を嬉し嬉しの永遠の未来の世に渡す。】です。ただ、その世界とはヨハネの黙示録にある今の地球ではなくて、【私は新しい天地を見た!】の新地球と言う途方も無い話なのです。

          誰がそんな途方も無い戯言が信じられるかとなりますが、大本教の出口王仁三郎聖師がされた予言の的中を考えた時、それが出来るだけの神の存在を頭から否定など出来ません。それは私が【霊子(たまのこ)線】を見て来たからです。霊子線を切断すれば、切断された肉体から魂が抜けてしまうなのです。人の肉体と魂は別物だからです。

           

          旧約聖書神(国常立尊)の大望は、人類を新地球に移す

           

          弥勒の世(神の御国)とは、この地球上のことでは無い

           

          それは優秀な霊能者の人達がこの世は【魂の修行場】と言い。大本教の出口王仁三郎聖師はこの世は【天人の苗床】と告げられたように、神の御国とはこの地球上ではないのです。そこに魂の本籍は霊界で、肉体を持つ者の現住所は「この地球」なのです。私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、【人のこの世の一生とは、魂の修学旅行にすぎない】と言われました。しかし、いくら科学が発達しても人類がその神の世界を知るなどは不可能なのです。

           

          私が子供の頃には旧約聖書の神と称する声が臨んでいましたが、大人になってからはそうした声は臨んでいません。そうしたこともあって私は自分の背後にある神の存在を調べるとなったのですが、豊受姫を初めとして7〜8名の霊能者から告げられたことは、貴方の本守護神は【国常立尊】ですでした。

          私からすれば、どうして「国常立尊」とか「ウシトラ金神」と名乗らずに旧約聖書の神の名乗りがなされたのかとなります。大本教からは【世の大立替】の予告はなされました。しかし、大本教からは【新しい地球に人類は移行する】的なことは一言も出ていません。ただ、基本宣伝歌として【例え大地は沈むとも】とあるようにこの大地が沈むことを匂わしたのです。

          しかし、聖書のヨハネの黙示録だけには、【私はこれまでの天地が消えて、新しい天地を見た。】とあるように、人類は新しい天地に移行するがあるのです。

          それは私一人だけでなく、幾人もの霊能力がある方達も人類の魂は【新地球】にと言われます。だが、どうやって人類の魂は新地球に行くのかとなりますと、誰も詳細が解らないなのです。大本教神諭に【今度の大事業(大望)は人民の知りた事では無いぞよ。神界へ出ておでます神にもご存知ないよう深い仕組みであるから】とありますが、伊勢神宮に鎮座されている御神霊も出雲大社に鎮座されている御神霊でも詳細は解らないなのです。

           

          では、私に臨んだ旧約聖書の神と称する声と【国常立尊】は別の神かとなりますと、私は大本教の出口王仁三郎聖師がみろく神業に使われるお宝が埋められていると直弟子達に言い残された場所と角を接する土地に住み。私が住む土地は出口王仁三郎聖師が大正時代に大本教の一部の信徒に、【教団には内密で、その土地を死守して欲しい。】と頼まれた土地に住んでいます。私は知らず知らずに神の大望の計画の仕組みの中に組み込まれていたなのです。 

          ただ、この土地は霊能者によって判断が違います。私の最初の師匠は豊受姫の言葉として【最後の時に人類が見たことが無い創造神と呼ばれる神が天下る場所。】と言い。一部の霊能者は三次元世界(人類)が終わる鍵を握る神界機密ゲートがある場所と言い。ある霊能者は汚れた霊の吹溜り場所と言います。

          私自身が豊受姫の命令で現在地に住んで解ったことは、【この土地は霊界の汚れた霊の吹溜り場所】です。豊受姫はその汚れた土地を清めに清めてこそ、その場所が宇宙創造神が天下る場所に成ると言われるのです。しかしながら、その土地を清めるだけの力を持たれた日本の神は一柱も存在していないなのです。しかし、それが出来るであろう神柱の存在はあるなのです。その存在は大本教の出口王仁三郎聖師が【蒙古】に渡る型演技で示されているのです。

           

          大本教の出口王仁三郎聖師はそうしたことまでご存じだったようで、後は神の仕組みに委ねられたかと思われます。そこに、大本教は七代まで女子の教祖で続くと予言されたのでしょう。既に大本教の正式な女子の教祖候補者の系列は七代目女子まで育っておられるです。だが、その正式の家系の系統ですら陰に追いやられたように、邪神達の暗躍の中では簡単にはいかないなのです。邪神達は何をしても国常立尊(艮金神)の計画を邪魔するからです。

          私自身、神霊世界に関わって来て、【言うは易く行うは難し】で旧約聖書の神(国常立尊)の仕組みは理解して来ましたが、私自身は神の仕組みを見せられているだけであって、それは【絶対】だとは言い切れません。

           

          最終的には、正神界と邪神界の神界戦争は起きかねない

           

          そこに宇宙から本当の宇宙創造神(恐怖の宇宙大王)が天下って来る可能性は否定は出来ないなのです。その時、私達は空に無数のUFO軍団を見ることになるかと思われます。それとも各種の神示にある複数の太陽が出て来るのか?。何が起きてもおかしくない時節にと向かっているなのです。それらが片付けば【みろくの世】が見えて来るなのです。

           

           

          精神世界

          にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
          にほんブログ村

          この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。


          法は執行者が居て初めて機能する。宇宙に法はあれども、執行者は誰?。どこに?

          0

            スピリチュアルでは【何をしても自由です。】式の論調が多いのですが、

             

            何をしても自由であれば、世界は無秩序となる

             

            力が強い者だけが、世界を支配出来る獣の論理

             

            明治25年(西暦1892年)に丹波の綾部という片田舎で、【出口なお】と呼ばれる老婆に【艮金神・国常立尊】とされる神懸かりがおきました。この綾部という土地に江戸時代の熊野水軍・鳥羽藩の九鬼氏のお家騒動から、兵庫県三田藩と丹波綾部藩とに分割されて転封(国替)がなされました。無論そこには徳川幕府の熊野水軍を手中にする策もあったと思われます。

            熊野の九鬼水軍の九鬼氏を陸に上がった河童にするです。その九鬼氏に関して大本教神諭に「綾部の大本教と九鬼氏の関係が解れば驚くぞ」とありますが、誰も気づくことなく終わったようです。

            現在、熊野本宮の宮司は綾部藩主の末裔であった九鬼氏がされていることからも解る様に、九鬼氏の【九鬼神道】と呼ばれるものは綾部藩主の九鬼氏が受け継いで来られました。

             

            元々綾部という土地は中国からの帰化人「秦氏」が住み着いたところで、古代名を漢人達の部で【漢部】と言いました。大本教神諭に【ここは神戸】とありますが、漢部の漢字を変えただけです。秦氏は日本神道と深い関わりを持ちます。大本教神諭に【綾部に九つ花が咲いたならば、万古末代枯れぬ花であるぞよ】と、【綾部は三千年余りて昔からの神の経綸の致してある結構なところ】とありまして、綾部と呼ばれる土地に神界の何等かの機密が存在しているとなります。

            私の最初の師匠の御祭神であった豊受姫は、【綾部は神の聖都】と告げられましたが、人類が未だ出会ったことがない創造神が天下る場所とも告げられました。それは、【国常立尊】様のことではないのです。

             

            その九鬼神道では、宇宙の元津神を【宇志採羅根真】としました。

            大本教は「ウシトラ」金神=九鬼神道は「宇志採羅」根真

             

            漢字の当て方は違っていますが同一神です。大本教が起きた時、一部の学者は大本教の出口なお開祖の御主人は大工で九鬼藩邸に出入りが出来たことから、藩邸内の九鬼神道の秘文書を盗み見たのだろうと評しましたが、出口なおさんは文盲でそもそも漢字など読めなかったのです。それはお筆先で知られる大本教神諭を知れば解ります。筆先に出る光をなぞっただけなのです。それどころか藩邸に出入りすることすら出来なかったでしょう。藩主しか知らない秘文書など手にすることなど不可能なのです。

             

            私は大本教出口なお開祖が熱心に通われたとする「本興稲荷神社」に行って、これはとんでもない仕組みの元で行われたと理解したしだいです。本興稲荷とは九鬼氏の鳥羽藩時代に藩主が信仰された稲荷社で九鬼家の守護神です。九鬼氏が明治の廃藩置で東京に行かれた後、藩邸内に在った稲荷社を現在地に移し、誰でも参拝が出来るようになったなのです。その稲荷社は綾部の九鬼氏の菩提寺がその管理をされていまして、大本教の出口なお開祖はそこに熱心に詣られたです。

            当然、そこには大本教のウシトラ金神と本興稲荷神社との間に深い関係があるなのです。大本教霊界物語に「白狐は下郎の役で奉仕する。」がありますが、これは本興稲荷神社との関係とも言えます。それは伏見稲荷山の白狐とは、必ずしも「国常立尊」系ではないからです。私はやがて白狐の世界は国常立尊系と反国常立尊系との間で神界戦闘が起きると見ています。それは白狐と言えども、邪神界の手先となっている存在があまりにも多いからです。

            そこに【トドメのフミ】にもありますように、一厘ある米と一厘ない米では大違いがあります。

             

            大本教の仕組みは、九鬼氏の本興稲荷神社と関係する

             

            お釈迦様の時代であれ、イエスの時代であれ、神懸かりとか神霊現出現象などはほとんど理解されていなかったと言えます。私は霊能者としては失格者ですが、多くの霊界見聞を体験したことにより、その仕組みが解って来たと言えます。何々文書にはこう書かれているではダメなのです。何故ならば神霊世界とは次元という霊界階層によって遮断されており、自分には霊が見える。霊と会話が出来るだけでは、自分が如何なる階層の霊界と交流しているかが解らないからです。

             

            どの国でも、その国に所属する者に対して規制する【法】と呼ばれるものが存在します。もし【法】が無ければ何をしてもやり放題で、その社会は【無法者の世界】と化します。スピリチュアルの何をしてもいいのです等の論調は、社会を【無法者】の世界仕様とする論理でしかないのです。

            この日本で考えるならば、この日本には日本の【法】が存在して来ます。自分が法そのものであると言うのであれば、それに他人が従えないとなると力尽くになり戦いが生じます。そこに「法」は権力者が定めたり、民主主義による選挙で選ばれた者達によって法が定められ、その法を守らない者があれば、それを取り締まる役人が必要となります。

             

            法を守らせる者を【警察官】と言い

             

            警察官とは、言葉を敬い宇宙を祭る

             

            大本教から【節分の炒り豆にも花が咲く】や【鬼も内】が大宣伝されましたが、大本教信徒ですらその意味に気がついていなかったと言えます。

             

            節分の炒り豆で追われている鬼とは、閻魔庁の鬼

             

            その閻魔庁の鬼を【邏】卒と言い、現在の警察官

             

            閻魔大王の別名は【閻羅(エンラ)大王】。その羅(ラ)王が住む城を「羅城」と言い。その門を【来世門】と言いました。その「羅城の門」をくぐれば【来世】が授けられたことからです。その門番達を「羅卒」と言ったのです。ですから現代の警察官がパトロールすることを今でも【巡邏】とか【警邏」と言うのです。

             

            大本教神諭が予告した【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】には、【良(ラ)と羅(ラ)】の二つの漢字の意味があるのです。綾部藩の九鬼神道家の【宇志採羅根真】には、宇宙の意志は「羅」を採用しますの意味があるのです。

            私達の魂が今日まで輪廻転生してきたのは、こちらの【羅】の意味合いなのです。これは「死者の維新」です。だが、【最後の火の審判】において、モウ輪廻転生と呼ばれる【羅(ラ)】の制度は無くなります。残るのは【良(ラ)】で示される世界です。そこに「艮」も出されたと言えます。今は【退いていますの艮の道】です。

            一部のサイキッカー(超能力者)達も言っていることですが、最後の審判は各自の【良心神】の点数で判定されるです。自分が所属している宗教には関係しないのです。自分はお釈迦様を信仰している。イエスを信仰しているではなく、自分の魂の核である良心神の点数において、七次元とか六次元とか五次元の世界に入るです。これが世に【五六七(みろく)】として大宣伝されていることなのです。

            スピリチュアルで説く、神の慈悲で何をしても赦される等の論理などは、どこにも存在していないのです。【羅】が持つ意味での【輪廻転生】と言えます。

             

            私は大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】から、その【九つ花】とは【真理】を告げる宇宙の法であると知りました。

            人はこの世に生きている時は何も解っていないのですが、死後の世界では天国と呼ばれる世界に行く方もあれば、地獄に行かれる方もあるです。それは、我が宗教の教えを信じれば天国で、異教徒は地獄に墜ちるではありませんでした。

            世紀の大予言者であった大本教の出口王仁三郎聖師が【地獄を覗けば、僧侶や牧師で一杯だ】と残されたように、多くの宗教家が地獄界に墜ちています。行者の末路は哀れなりの言葉がありますが、多くの霊能力者であった行者霊もさ迷っていました。また、光輝いて出て来る神霊の正体が【蛇や狐や狸や猫】霊と言われているように、そうした動物の姿で見えるがあります。

            いったいこの現象は何かと突き詰めて行きますと、大本教神諭が予告した【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】にあると言えます。すなわち、その仕組みそのものが宇宙の【法】だと言えるのです。

             

            その法の仕組みが、【みろく(369)】であり。【五六億七千万】と【ダルマ(真理)】で、お釈迦様の悟りであった【人に内在する良心神】を語らせるなのです。

            大本教神諭には、この仕組みに【三千年の月日】を要したとありますが、日本語と言う限定ではありますが、それぐらいの月日をかけて言葉が仕組まれているとは考えられます。その仕組みが解るのはこの日本だけですが、【誰がいったいこんな言葉の仕組みをしたのだ!】となります。

            私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、【この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国である。】と告げられましたが、調べれば調べるほど、その旧約聖書の神と称する声が告げた言葉そのものは間違っていないとなりました。

            私は別に創造神を見たではありません。ただ、私の神霊世界の修業のお世話をしていただいた豊受姫を初めとして、一部の霊能者の方達から貴方の背後には【国常立尊】が居られると告げられただけのことです。ならば、その証拠として国常立尊の神力を見せろと言われる霊能者の方達は多いのですが、私は子供の頃に旧約聖書の神と称する声から、【そなたにはこの神の神力は何も与えない。】で、何も持ち合わせておりません。ただ、【そなたの背後にこの私が居ることを見抜けぬ神は使い者にはならぬ。】と言われただけのことです。

             

            私自身はこの日本に生まれて、豊受姫のお世話もあったことから、伊勢神宮の天照大御神とか出雲の大国主命様と呼ばれる存在にも出会えました。無論、それは本物ではなくてニセ者霊だと言われてしまいますと、それは私にも証明などは出来ません。

            だが、大本教出口なお開祖霊と思われる霊から、【大本教はまな板の鯉。その鯉をどう料理するかは料理人の腕しだい】と告げられたように、【五月五日】の鯉を料理すると、とんでもないことが解って来たなのです。

             

            宇宙に【九つ花と云う法】がある以上

             

            その【法】を執行できる存在もある

             

            私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声を聞いていましたが、「国常立尊」とは、この日本の国に常に立つ御言で「日本語」の神の意味かと気づきました。そして大本教神諭予告の【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】から、これは宇宙の法(真理・ロゴス)の理解に至りました。

             

            日本語でこの仕組みを組み立てた神とは、日本の神社に鎮まっている段階の神ではない。

            言葉を組み立てた神は、宇宙の【法】の執行者

             

            その神は、人の【情】などには左右されない

             

            大本教からは、この地球の創造に関わった神は【艮金神・国常立尊】様ではあるが、その状態は【引退】状態であると出されました。だが、時節が参りて元の【主座神】に復帰されるです。その大宣伝がなされたなのです。

             

            私は幾度か【言霊】とは何かと知った時、愕然としたと書いて来ました。聖書に【始めに言葉は神と共に在った】と記載されていますが、旧約聖書の神を唯一神として仰ぐキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の誰一人として【言霊】など理解していないと言えるでしょう。イエスもマホメット(ムハンマド)しかりなのです。【言霊】の存在が語られているのはこの日本だけなのです。

            しかし、言霊と言う言葉は知っていても、その言霊は何かとなった時、大本教の出口王仁三郎聖師が最初の先駆者と言えるでしょう。

            ただ、新約聖書のヨハネの黙示録だけに【言葉の王】と呼ばれる存在が出て来ます。その言葉は諸国民を討つ剣となっています。私は日本神道の審神(サニワ)において、言葉が霊界では「剣」となるを知りました。

            私自身は昭和五十五年、地底の底から響いて来る声に恐れおののき霊的世界に修業に入りました。私自身の目は開いているにも関わらず真っ暗闇に落とされたりで、神の恐ろしさが身に染みている一人と言えます。神を【お友達式】に思っていると、後で後悔をしなければなりません。恐み。恐みが要ります。

            日本の神社に行けばそこに鎮まっておられる御神霊ではなく、この宇宙の創造に関わって来た神達の存在です。それは人類の歴史などで解る様な神では無いなのです。

             

            大本教からは、霊界物語で主の神(国常立尊)は【三十五万年前に御引退】と出されました。三十五万年前のこの地球で何が起きたのかは霊界物語以外には定かには解りませんが、私が大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】が紐解けたのは、この【三十五万年前】の言葉そのものにあるのです。

            その【三十五万年前】の時代の神々とは、今の私達が神様と呼んでいる存在ではありません。大本教で告げた世の大立替とは、その三十五万年前の神達が出て来るなのです。私は霊能者ではないので、その存在に関してよく解りませんが、その神達が見える霊能者はそれは「パンドラの箱」を開ける様なものだと言います。大本教神諭の【地獄の釜の蓋開け】かも知れません。

             

            今、世界は異常気象による天変地異だけでなく、社会のそのものの変革が起きており、香港におけるデモ。韓国でも大きなデモが起きていて、社会体制がひっくり返るかも知れません。これまで隠されたいた隠蔽も浮かび上がって来ています。関西電力や日産自動車などの企業問題もそうした流れでしょう。

             

            この社会に何が起きようとしているのか?

             

            それを見つめられる人にならないといけない

             

            この宇宙に【法】がある以上、必ずその【法】の執行者は存在しているのです。

             

             

             

             

            精神世界

            にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
            にほんブログ村

            この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。


            早く【帰幽】するメリット、デメリット。天の典(法)は一律には説けない

            0

              人はこの世に生まれ出て来る前、その【籍】は天国界からであろうと地獄界からであろうとも霊界にあります。この世での魂の修行を終えると、元の霊界にと戻るわけですが、今の世でよく学び体験すれば霊界において【進級】が出来ます。逆に今の世で魂を汚してしまうと元の霊世界より【降級】となります。

               

              この世に出て来ることにはメリットとデメリットがある

               

              スピリチュアルで説かれる【この世は遊んでいてもいいのです。】と言った類いの教えに引っかかると、間違いなく元居た霊界よりも降級処分を受けます。

              この世に人として出たい魂は大量にあるからです。その中で選ばれたという論理は嘘ではないのです。しかしながら、そうした教えですらメリットとデメリットがあるのです。

              この世に出て来ると、それまで自分が居た霊世界の仲間(ソウルメイト)に囲まれていた世界ではなくて、魂の修行場なので自分より優れた魂を持った人達。どんなにあがいても追いつけない高い魂を持った人達。自分とはまったく異質な考えの魂を持った人達。そうした魂の人達に出会って激しい劣等感に悩まされるが起きます。人の魂とは今の世がスタートではないからです。

              また、地獄界から赦されて出て来た様な魂の人達とも交わるともなりますと、その影響も受けます。そうした人達の悪しき行為に悩まされるも起きて来ます。俗に言う、【赤信号、皆で渡れば怖くない。】で、悪を覚えてしまいます。為に、この世では降りて来るまでは【汚れていなかった魂】も「悪」に染まるがおきます。この世に降りるデメリットです。

               

              霊界における大原則として、人は【自殺してはいけない】があります。この世に出て来たことが「自殺」に追い込まれる原因だと言っても、この世に出て来ることは誰かから強制されたのではなくて自分で選んだからです。自分でこの世に出て来ることを選んでおいて、予想しなかったと出来事に遭遇して自殺したでは天から赦されないなのです。

              よく子供が思春期になると、【誰が自分を産んでくれと頼んだ!。】と親に突っかかるがありますが、本当はこの世に降りると決めたのは自分なのです。

               

              自分がこの世に生まれ出るのが厭ならば、

              別の魂にこの世に生まれ出るチャンスを譲ればよかったのです

               

              この世に降りて来ることは【諸刃の剣】です。自分が他の人を言葉や暴力等の剣で切ることもあれば、他の人から剣で切られてしまうもあります。為に自分の魂(心)に深い傷を負うもあります。

              この世には他人を自殺に追い込むようなことを平気でする人達が居ます。おかしな優越感を持っていたり、言葉の暴力で人を追い込んだりします。そうした魂は間違いなく魂が捻れ曲がった人達です。魂が【丸い】人は性格が温和であり、そうした行為も言動もしないからです。

              魂に捻れがあっても、その捻れの程度が軽ければこの世に出るがあります。幼児でも性格が温和な子はこの世に出る前の魂が丸く。こんなに幼いのに、この子の捻くれぶりはと思う様な子は元々の魂に軽い捻れがあったりします。人はオギャーと誕生した時、そのスタートラインは同じではありません。生まれ出る環境に過去世の自分のカルマが影響しているのです。だが、魂の捻れは修復可能な程度の捻れなので、この世に出ることが出来たなのです。

              若い頃は捻くれ者であっても、社会の荒波に揉まれて長い年月を経て、年老いた頃は穏やかな人になった。これは捻れていた魂がこの世は魂の修業場であるが故に、魂が丸く(温和)になったのです。その意味から言えば長生きする方が得なのです。長生きすることが【更生】の機会が多くなるからです。

               

              ある時代には人殺しをした。そうした過去を持つ魂も全てこの世に出て来ます。自分の過去世は【聖人君子】でした。それはあり得ないなのです。お釈迦様の前世に関する話として、その真偽は別として船乗りの時代に安酒場で喧嘩をして人を殺めて、その罰として次の世は「猿」に転生させられたがあるという話があります。

              お釈迦様がその前世において、猿に転生したという話はよく出来ています。それは「猿」は奇魂の働きを示しているからです。日本神道で「一霊四魂」が語られますが、和魂は牛。幸魂は羊。奇魂は猿。荒魂は虎。とされますが【牛虎(艮)金神、羊猿(坤)金神】で示されているのです。お釈迦様は奇魂の働きである【智慧】をもって、人々に教えをされたです。

               

              現代スピリチュアルを標榜する人達は霊は見える。霊と会話が出来るとしても「奇魂」の働きがほとんど出来ていないがあります。為に、お釈迦様の教えの説明が出来ずに「愛」一辺倒なのですが、それは「奇魂」がほとんど働いていないことが如実に解ります。愛の「幸魂」と智慧の「奇魂」は相反する立場にあるからです。為に、「愛」ばかりを言っている方の魂の総合点数は低いと成ります。

              私の場合は過去に何をしたのか記憶にはありませんが、【牛】に転生していた時代が存在しています。その時は牛として尻を叩かれ苦役をさせられた。その時の光景が走馬灯の様に出て来たがあります。また、私には【牛頭の人の時代】もあったなのです。それは私が「和魂」の働きが強かったからと言えます。

              そうした他人を虐めて優越感を持つ様な人は、魂が捻れ曲がりが軽度であれば地獄界で済みますが、極度に捻れていると魂の破砕に行きます。あいつは死後には地獄に墜ちて行くのだと解っていても、そうした人から被害を受ける方からするとたまったものではありません。人を虐める者を叱責もせずに、そうした人達を「愛」で赦すことだと言っている人達は本末転倒者なのです。

               

              そうした時、そのいじめられた人を守護している存在が龍神であったりすると、その虐めた者が病気したり事故死したりするがあります。龍と人の子の間のハーフで、言葉を忘れてしまいましたが○○チルドレンと呼んでいます。非常に念力が強い人達が世には居られます。私も人類と呼ばれる存在が誕生する以前には「白龍神」であった時代があります。

              聖書に龍神とは霊界の年老いた大蛇霊とありますが、そうした蛇霊系の龍ではなくて、宇宙創成時の龍神と呼ばれた存在の龍です。

               

              自殺するくらい追い詰められた人ならば、なまじ【この世の苦】に堪えなさいと教えるよりも、【この世を楽しみなさいとか遊びなさい。】と楽な方向に進めてあげる方が、自殺されるよりもいいなのです。

              この世を遊んで終われば、元の霊界よりも降級するかも知れません。しかし、自殺するよりもましだと言うことです。自殺すると地縛霊化をすることを霊能者は体験として知るからです。

              だからと言って、それをメインの教えにしてしまいますと、この世に霊界での進級をする為に出て来ている魂達に対してまで、元の霊世界の地位より【降級】させることになりかねません。

               

              霊能者によっては【水子の祟り】等無いと言われる方達もありますが、私は霊界修業の過程の中では水子霊の浄霊に関わったことがあります。この世に出て霊界で進級しょうと思っていた魂からすると、その芽を奪われたからです。霊能者と称している方達の中には水子霊の霊障など無いと公言される方達はありますが、それは自分がそうした事例に遭遇していないだけの話なのです。霊能者と言えども、自分が体験経験していないと自己過信から否定論に走ってしまうのです。

              しかし流産などにおいては、それだけで魂としての目的が果たされたとする場合もあります。それは魂が肉体に宿る時の苦痛が尋常ではないからです。人の肉体に魂が宿る時とは、精子と卵子が結合した時ではないからです。

              ただ、この説はスピリチュアルの大御所と称される霊能者江原啓之さんやその師匠である美輪明宏さんの精子と卵子が結合する妊娠時とする意見ではなく、実際に御神霊のお代を勤めている実践霊能者や行者の多数のご意見です。悪阻(つわり)の時とします。魂が肉体に入る時の苦しみです。また、母親の産道から出て来る時の苦痛の体験で、この世に出て来る時に大きな苦痛を体験もしているなのです。

               

              そこに、

              霊界における法は、人を見て説けがあります

               

              霊世界における教えは一律に説くことは難しいのです。その師匠は、その弟子の力量に応じて「法」を説かなければならないのです。力量が備わっていない弟子に一律に説いてしまうと、弟子が間違った解釈に入ってしまうからです。どの宗教でも開祖は解っていても、弟子の段階になると教義は学んでいても実務体験が備わっていないとなります。間違った理解をしたりします。

               

              100人の弟子あらば、100の教えが必要

               

              そうしたことを100人居れば、100の「真理」があると説くような人は何も解っていないとなります。それは「真理」ではなくて、理解する力量が足りないことから学びきれないなのです。

              自殺しかねない人に、頑張れ。頑張れと説くのは間違いと言うのは間違った説ではありません。だからといって、自分が【愛】を説くことが「聖人君子的」な感覚を自意識として説く者が持ってはいけないと言うことなのです。

              そこに来るのがイエスの難解な教え。狼が居る荒野の柵の中に居た100匹の羊の内の一匹が荒野に逃げ出した。羊飼いはその一匹の羊を助ける為に、九十九匹の羊が狼に食べられる危険性を顧みずその羊を助けに行った。その羊飼いこそが神だと言う教えです。

              このイエスの教えは常に神学論争の種になります。何故に、神は一匹の羊の為に残りの九十九匹が死ぬ危険にさらしたかです。もし、その一匹を助けて戻って来た時、残りの九十九匹の子羊が全て狼に襲われて食べられていたならば、その羊飼いは自分の行いは正しかったと言えるのでしょうかです。イエスの弟子は、一人としてその疑問をイエスにぶつけなかったのかです。

              そこに、創造神たる主の神は愛の神だと言う錯覚があるのです。全ては創造神から出なかった存在はないけれでも、主の元に帰ろうとしない者は主から離れた存在となるのです。

               

              創造神には全人類を助ける【義務】そのものは無い

               

              創造神が助ける者とは、創造神を唯一神とする者達

               

              私は常にイエスの教えは【言葉たらず】と言っています。神を説く時、常に例え話(方便品)で説くのですが、それでは人は割合で考えてしまうからですイエスの例え話は、聞いた人の頭の中を混乱させてしまいます。例え方が悪いと言えます。それならばお釈迦様の【長者の息子】の例え話の方が優れます。創造神(長者)は自分の元に帰って来ることを待ち望んでおられるです。

              その逃げた子羊の一匹は、他の九十九匹の子羊の合計の価値よりも勝る子羊であれば、神は九十九匹の子羊を見捨てても、その一匹を助けられる。それが新日本神道系で盛んに言われる【九分九厘】と【一厘】の違いの意味と同じなのです。

               

              その一厘とは、1%の人だけを助ける意味ではないのです

               

              私はその一厘を、人に内在する良心神として説きました。それは、良心神を持っている者は、良心神は持たないが、他の99%迄は持っている者よりも先に助ける意味合いです。

               

              天は多数決の論理ではなく、その「一厘」を持つ者を救う

               

              天の神にとって、良心神を持っている者は【宝】なのです

               

              世に出回っている神示の中に、【トドメのフミ】と呼ばれているものがあります。その内容を見ますと大本出口なお開祖や天理教の差し添えであった増井りんさんの名が出て出ていますが、「日月神示も九分九厘」とありまして、それらを考察すると戦後に出た神示と思われます。だが誰が出したものかが解りません。インターネット時代になって、誰かが世に出したもののようです。

              その中に、

               

              一厘ある米と一厘無い米とでは大違い

              があります。

               

              私が説いている内容は大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」で、【米】型に一厘の意味を出しています。一方、単なる米の教えとは「稲荷」の教えで、実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな。

              大本教神典に【白狐は下郎の役で奉仕する】があります。但し、この白狐とは全白狐達のことではないのです。私が豊受姫から聞かされたことは稲荷神界そのものが国常立尊派と反国常立尊派とで真っ二つに分かれているです。一厘ある【米】の教えに敵対する稲荷神達も多数あるのです。実際に多くの白狐が悪神の配下とか反国常立尊派の下に存在しています。

              トドメのフミには、「日月神示(ひふみ神示)」も九分九厘とありますが、日月神示をいくら読んでも「米」の教えそのものが存在しないのです。

               

              この世は「魂の修業場」であり、「天人の苗床」でもあります。人として生きるに当たって人には【寿命】があります。その定められた「寿命」が長い方もあれば短い方もあります。この世でより長く生きればよく学べるではありませんが、何も学ばないのであれば長く生きても意味はないなのです。

              サニワ(審神)の中で、この世を10歳ぐらいで亡くなった子供の霊が霊界に帰って、神界の御用に就いた等が解っています。その子供の魂は、この世での修行期間は10年間でよかったなのです。幼くして死んで可哀想なのではなく、元々が10年間がこの世での修業期間だったのです。

               

              私の肉体の父は私が9歳の時に享年39歳でこの世を去りました。○○ガンの末期で、この世を去る一週間ほど前に私をその枕元に呼び、【父さんは間もなくこの世を去る。大きな翼を持った白馬に引かれた馬車に乗ったお迎えの人が来て、この世を去る準備を言われた。何時までも、その天馬に引かれた馬車とお迎えの方達を待たせておくわけには行かない。おまえが泣くと、私も安心してあの世には行けない。ここで私が死んでも泣かないと約束してくれ。おまえが泣くと、私も後ろ髪を引かれてあの世に行けない。残された母さんのことは、男であるおまえが守れ。これでお別れだ!。】と言います。そして、数日後にこの世を去りました。

              私は父親との約束で泣きませんでした。その様子を見た人達は、私が子供だから父親の死が解らないのだろうと言っていましたが、父親との約束からです。その遺骨の前で49日まで般若心経を何巻も何巻も唱え続けていました。【親父、天国への道を間違えるなよ。】です。

              その光景を見た菩提寺の住職は、こんな子供が熱心に御経を唱えているとびっくりしたそうですが、私は幼い頃から自分は天命を受けてこの世に降りて来た者であり、肉体の父親が亡くなる以前より、旧約聖書の神と称する声から教えを聞いていたからです。だが、私が旧約聖書の神と称する声から教えを受けていたことは、実の両親にも話しませんでした。そうしたことをいくら両親に告げても信じて貰えないと解っていたからです。

               

              天は私に苦難の道を与える為に、肉体の父親の命さえ持って行った

               

              私にはその自覚があるので、苦難を苦難とも思わず乗り越えて来たなのです。豊受姫が私の最初の師匠に、【あれ(私)には、もっともっと苦労を積ませるつもりであったが、あれの母親の神力に邪魔されて苦労を積ませる事が出来なかった。あれは苦労が足りていない。」と泣かれたそうですが 、豊受姫の神力すら遮った私の母親の神力とは私の母親の本守護神が「豊国姫(未申金神)」であったからです。

              確かに、豊受姫が告げられた「私には苦労が足りていない。」はあります。だが、豊受姫より上位神である「豊国姫(未申金神)」は、私にあまにも過酷な苦労を積ませて自殺に追い込みたくなかったなのでしょう。神とは現世御利益を授けるではなく、その魂を磨かせる為に「苦労」を積ませるがあるのです。

               

              神が与える苦労は【試練】であり

               

              この世の「試練」無くして、天国界には行けない

               

              本当の【愛】を知る者は【厳しい】ことを言います。甘い言葉ばかり吐いている者は「エセ(似非)」者と言います。

              現代スピリチュアルは【愛】ばかり言っています。しかし、その【愛】とは聞いていると「エセ(似非)物」の愛と言えます。本当の愛とは、自己の「命」を投げ出して他の人を助ける心が求められるのであって、自分が可愛いでは「愛」は成り立たないのです。 人に愛を説くのであれば。まず、自分の命を差し出すことです自分の命を差し出すのであれば、神はその人を「愛」の人だと言われるでしょう。それは他の人の為に【犠牲】を払った人達と同じ扱いになるからです。

               

              良薬は口に苦し、良薬を飲まずに天国?

               

              例え、この世に生きた時間は短くても、その間に密な経験体験を得て、それを自分の魂磨きにした方は、この世での時間の長さに関係がありません。

               

              世の大立替とは天帝たる創造神がなされることなので、私も絶対に起きるとは断言できませんが、朝鮮に残されていた最後の審判前、救世の為に「米」一字の教えが起きる。その教えに従った者達は救われるとあり。大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を紐解けば、「米」型で56億7千万の「みろく」が出て来たことは覆せないのです。日本ではあらゆることが、その仕組みになっているのです。

               

              この世に生ある人は必ず死にます。誰も永遠にはこの世では生きられません。

               

              人はこの世の命が終える日まで学びの中

               

               

               

              精神世界

              にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
              にほんブログ村

              この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。


              calendar
                12345
              6789101112
              13141516171819
              20212223242526
              2728293031  
              << October 2019 >>
              日本ブログ村に参加しています(よければ応援のクリックを願います)
              selected entries
              archives
              recommend
              links
              profile
              search this site.
              others
              mobile
              qrcode
              powered
              無料ブログ作成サービス JUGEM

              にほんブログ村 哲学・思想ブログ アセンションへ
              にほんブログ村