自己の魂を汚すことを何とも思っていない人は多数あります。例えば、東名高速道路で怒りに覚えて二人の方を高速道路上で止めて死なせた事柄を教訓ともせずに、またもや高速道路であおり運転をする人が出ましたが、こうした方の魂とは【捻れて】いて、閻魔大王様とて救う手立てが難しいとなります。
例えば、人は死ねば終わりだから悪をしなければ損をすると言って悪事に荷担している者でも、その魂が「捻れて」いなければ助ける余地があります。霊界の刑務所(下層地獄)に入って刑を勤めれば、また人として出して貰える余地があったのです。
日本の諺に【地獄の沙汰も金次第】があります。これは辞書を引くと【地獄の裁判も金の力で有利になる。この世はすべて金の力で左右される】例え、そうしたことが書かれている思います。しかし、辞書などの解説の意味では神意が理解出来ないと言えます。
地獄の沙汰も金次第で変るかと言うと、変わります
こうしたことが辞書に書かれていますと、世の中には閻魔大王様も金で転ぶのだと勘違いされる方達も出ます。閻魔大王様も金の力で転ぶのかと言いますと、意味合いがまるで違うのです。そこに出て来るのは【贖罪】の意味なのです。仏教では、あまり【贖罪】の言葉が出て来ません。為に、「贖罪」の言葉の意味がまるで理解出来ていません。
一方、キリスト教等では頻繁に【贖罪】の言葉が出て来ます。贖罪とは、その人が犯した【罪の償い】として自己の金で罪を精算する意味です。キリスト教ではその人が犯した罪は、キリスト教会に寄進することでその罪を免れるとする意味です。
それ自体は日本でも、神社や寺院に多大な寄進をすれば自分が積んだ悪行(カルマ)も減じられるの考え方はあります。それは自分の【罪の意識】から、金銭を吐き出しているからです。自分が犯した罪を意識することそのものが重要なのです。
スピリチュアルでは自分が意識していない犯罪は【罪】ではないとしているのですが、それは【神の愛】ばかりを言って、自己の魂の【核】の働きを何一つ理解していないからなのです。
言うなれば、罪を金で支払うも【罪滅ぼし】の一環
この地獄沙汰も金次第はどこから出た格言なのかは解りませんが、日本昔話から言いますと、山寺の麓の長者様が亡くなった。しいては和尚様に葬儀をしていただきたいと長者の屋敷の者が言いに来た。
で、和尚は葬儀の了承をして、その長者が死後の世界でどこに行くかを霊視したところ、このままでは地獄界に落ちると見えて来た。 日本昔話の農村地帯の長者とは、多くの小作人を使用して米を作らせ、自分だけが大金持ちとなっていた。長者と小作人との間の貧富の差は多大だったのです。
そこで和尚は、このまま葬儀をすれば長者は地獄に落ちてしまうで、長者の財を葬儀の時までに農民たる小作人達に分け与え得るように手紙をしたためて、小坊主に持たせて長者の屋敷に走らせた。そこで、長者の遺族達は長者が地獄に落ちてはいけないとその財を小作人達に配った。和尚が葬儀を終えて霊視したところ、その長者は地獄に落ちずに済んだと言うのがその昔話の骨子だと覚えています。
私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、【私の書は旧約聖書なれども、私の真の教えは日本民話や日本昔話に秘めた。そなたはそうした物語を読んで、私の教えを知りなさい。】と告げられたことから、日本民話や日本昔話を読み、そこに秘められた意味を学んできたと言えます。
地獄の沙汰も、貧しき者に自分の金を分かつで変わった
それは閻魔大王様が、大金を出せば地獄行きの沙汰を変えるなどの話ではないのです。キリスト教で言われた【贖罪】の話なのです。
イエスの教えに、金持ちが天国の門をくぐるのは針の穴をラクダを通すようなものだがあります。イエスは金持ちの天国行きは不可能だと言ったのです。
だが、【贖罪】と言う金で罪滅ぼしをする手もあった
下記の図は以前に出したものですが、贖罪の【贖】の漢字は財(貝)で売り買いするなのです。【贖罪】は自分の罪を財で売買することです。
そして、そこに何が起きるかです。
大本教の出口王仁三郎聖師は、地獄を覗けば牧師や僧侶で一杯だと残しておられますが、どれだけ多くの宗教家が地獄界に落ちているかです。単に大本教が他の宗教と違って、創造神と呼ばれる神を説いたからではないのです。そこには【贖罪】の結果の意味が秘められていると言えます。
自分が犯した罪を【財】として、他の者に金銭を付けて渡したならばその罪分は消えて行きます。この意味を理解していないと、贖罪の言葉の意味が解らないが起きます。
自分の家の爺さんは放蕩者で、家の財産を全部食い尽くしたなどです。すると、一見するとその爺さんはどうしょうもない人だったとはなりますが、これはその家の御先祖様が多くの人を泣かせて大財産を築いた。すると、その家に放蕩者が出て、その財産を全て失った。その時、その放蕩者であった爺さんが悪かったのではなくて、その家系に多くの人を泣かせて築いた財に残されていた【カルマ】そのものを解消させたもあるのです。
その爺さんの放蕩でその家は貧乏にはなったが、それは霊的世界から言うと幸いなのです。【幸いなるかな貧乏人】なのです。イエスが説く【幸いなるかな貧乏人は】舌足らずの言葉の教えと言えます。
そこに来る言葉が、【子孫に美田を残すなかれ】
我が子可愛いで道を誤る人は数知れず 。特に母親は気づかない。
一部の霊能者の方達は説いておられるのですが、御先祖霊が本当の天国界に渡りますと、この世での子孫とは【縁切り】となります。先祖霊としてこの世の子孫に関わってはいけないからです。先祖守護霊として出て来られる段階の霊は、まだまだ本当の天国界には行っていない段階なのです。ですから、先祖霊は【副守護神】格と言われているわけです。
そうした先祖霊に対して、自分自身の魂のルーツの中で神上がりをしている存在が【正守護神】と呼ばれるのであって、人はその【正守護神】に帰結しなければならないのです。単なるあの世ではなくて、霊界での次元が違うのです。
東京の深川富岡八幡宮の宮司家の姉弟で宮司の地位と金銭を巡って姉を殺して弟が自殺するがありましたが、どちらの霊も浮かばれることはないでしょう。富岡八幡宮に鎮座している神霊が誰かは知りませんが、監督不届きの神霊とも言えます。神霊の座にあぐらをかいていたのかです。
大本教の出口王仁三郎聖師が、地獄を覗けば牧師や僧侶で一杯だと書き残しておられますが、【いったい貴方たちは生前に何を拝んでいたのか?。】なのです。
スピリチュアル標榜の女性霊感者の中には、首や指に宝石をきらびやかに飾り魔除けなどと称しておられますが、自分自身が【魔界】の中に在る理解がまるで出来ていませんよなのです。
この世では石には【魔除け】のパワーはありますが、この世の宝石はあの世には持って行けません。あの世に持って行くのは自分の磨かれた意思たる【魂】を持って行く以上、その魂が【宝玉】でなければならないのです。
人は誰しも困った時には、外在神の【霊力】に頼ろうとします。それに頼って今の時は助けられても、死後に天国界には進めないとなります。
では、自分が過去から積んで来た罪(カルマ)は誰に支払えば有効かと言いますと、【世の為、人の為】に吐き出すのが一番有効なのです。だが、その金の出し方が解らないとなります、宗教団体よりも【社会福祉組織】に出すなのです。宗教団体に出す時はその宗教団体が【慈善事業】をしていないと意味をなしません。その宗教団体が自分の宗教の拡大の為にそうした資金を使う。教祖や宗教家が贅沢をする為では、【贖罪】として出された金が贖罪とは成らないのです。
某宗教はその教祖様がイエスの再来で、信者達に教団に大金を出させて、その財は高価な骨董品等に使われていたがあります。無論、この教祖様はイエスの再来でも何でもありませんでした。要するに霊界のペテン師です。
この教団ではニセ霊能者を使って、相談者に霊障が起きていると高価な壺や絵画や印鑑を売りつけていました。俗に言う【霊感商法】です。しかし、その霊能者達は全てニセ者達でした。そんな教祖が「イエスの再来」などあり得ないことなのです。そんなことすら解らなかった者達は、俺々【詐欺】に引っ掛かったのと同じ事で、出した金はトブ捨て金に等しいとはなります。
しかしながら、自分の罪や先祖の罪を意識して財を吐き出したならば【贖罪】の理には適わってはいるのです。その宗教家は死後に地獄に落ちたでしょう。ただ、悪しき宗教家に欺されて吐き出した金と慈善として世の弱者に為に出された金とでは、贖罪の働きに大きな差異が生じます。
そうした詐欺の宗教とは、大本教の出口王仁三郎聖師が【天国に案内すると言いながら地獄に案内する取次者(金儲けの宗教家やスピリチュアル的存在)】と残しておられるのは、そうしたことなのです。
スピリチュアルでも最初は高い霊と交流していても、金儲けに入ると低い霊との交流になります。本人は気づいていないのですが、他から見ている霊能者には憑いている霊が代わった(変わった)ことが解ります。その霊能者は、やがて蛇霊憑きや野狐霊憑きと呼ばれるようになるのです。霊世界を自己の金儲けの手段にしてはいけないなのです。
私が以前は大評価していた某霊能者も有名になった途端、以前の霊界よりも落ちておられます。金儲けに入ったからです。御本人は以前と変わらずに霊が見えているから気づかれないのですが、自分の魂の格を落としているなのです。最初は霊界に対する功績は大でしたが、今は霊界の罪人と化しておられるです。
ですから、大金持ちが世の弱者に対して大金を出すのは有効なのです。
常に、【世の為、人の為】の原理原則がある
では、何の財産も無い者はどうすればいいのかとなりますが、そこにお釈迦様の教えの中にある【貧者の一灯】があるのです。大金持ちの大金の寄進よりも、何の財も無い者の【一灯】の方に価値があるなのです。私は大金持ちの天国行きは僅かしか見られないと言います。しかし、貧しい人達の中に天国行きは多数見られます。
その貧者の一灯には金銭ではなくて、
世の為人の為に働く【ボランティア的活動】がある
それは大災害が起きた時などに、そこに手弁当で駆けつける表だったボランティア活動があります。だがそうした人達は若者や体力や時間が取れる人達です。老いた人や体力が無い人や時間が取れない人や病人は駆けつけたくても駆けつけることが出来ないなどがあります。そうした時には代替えとして弱者に対する【金銭的援助】が役立つなのです。
また、そうした大災害時のみならず、日々地域のボランティアとか奉仕をされている方達。それは【世の為、人の為】にされているので、その魂に【悳(徳)】点が加味されて【天国界に向かう】となります。
神様神様、御利益下さいと拝んでいる人よりも、世の為に人の為に(他の救いたる世根活動)と働いた人の方が、死後に遙かに高い霊界の次元界に進まれる。
私が説いていることは【米】教と言いますが、【他(田)を救い(鋤くい)て世根(米)】と成れなのです。ですから私が説いている内容は【みろく(身禄)】の教えともなっているのです。
仮に自分が神で有るとするならば、自分に大金を差し出す者は天国に案内するは悪神の論理で、世の為に人の為にと働く者や犠牲を払った【誠】の者は天国に案内するは正神の論理であると言えるかどうかです。
どの神霊も【自分が悪神】とは言われないでしょう。しかし、神として自分がどちらの論理に立っているかなのです。
自治会の組長などをしていますと、何年に一度か組長が当番で来ます。以前は日赤の赤い羽根とか暮れの歳末助け合い運動に自治会から強制的に割当金がありました。通常コーヒー一杯程度の金銭です。ところが、強制的に自治会がするのはおかしいと言う声が出て任意になると、もうその程度のお金も出さないで激変してしまいました。
困っている人のことなど知ったことではないと言う。世知辛い世になったとは言えるでしょう。
人は何故に、この世と呼ばれる世界に生まれ出たのか?
何の意味も無く、目的も無く人類は誕生したのでは無い
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