天国に行く為に、今日迄の宗教で説かれた【地獄の沙汰も金次第】と金銭で自分の罪を償う【贖罪】とは?

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    自己の魂を汚すことを何とも思っていない人は多数あります。例えば、東名高速道路で怒りに覚えて二人の方を高速道路上で止めて死なせた事柄を教訓ともせずに、またもや高速道路であおり運転をする人が出ましたが、こうした方の魂とは【捻れて】いて、閻魔大王様とて救う手立てが難しいとなります。

    例えば、人は死ねば終わりだから悪をしなければ損をすると言って悪事に荷担している者でも、その魂が「捻れて」いなければ助ける余地があります。霊界の刑務所(下層地獄)に入って刑を勤めれば、また人として出して貰える余地があったのです。

     

    日本の諺に【地獄の沙汰も金次第】があります。これは辞書を引くと【地獄の裁判も金の力で有利になる。この世はすべて金の力で左右される】例え、そうしたことが書かれている思います。しかし、辞書などの解説の意味では神意が理解出来ないと言えます。

     

    地獄の沙汰も金次第で変るかと言うと、変わります

     

    こうしたことが辞書に書かれていますと、世の中には閻魔大王様も金で転ぶのだと勘違いされる方達も出ます。閻魔大王様も金の力で転ぶのかと言いますと、意味合いがまるで違うのです。そこに出て来るのは【贖罪】の意味なのです。仏教では、あまり【贖罪】の言葉が出て来ません。為に、「贖罪」の言葉の意味がまるで理解出来ていません。

    一方、キリスト教等では頻繁に【贖罪】の言葉が出て来ます。贖罪とは、その人が犯した【罪の償い】として自己の金で罪を精算する意味です。キリスト教ではその人が犯した罪は、キリスト教会に寄進することでその罪を免れるとする意味です。

    それ自体は日本でも、神社や寺院に多大な寄進をすれば自分が積んだ悪行(カルマ)も減じられるの考え方はあります。それは自分の【罪の意識】から、金銭を吐き出しているからです。自分が犯した罪を意識することそのものが重要なのです。

    スピリチュアルでは自分が意識していない犯罪は【罪】ではないとしているのですが、それは【神の愛】ばかりを言って、自己の魂の【核】の働きを何一つ理解していないからなのです。

     

    言うなれば、罪を金で支払うも【罪滅ぼし】の一環

     

    この地獄沙汰も金次第はどこから出た格言なのかは解りませんが、日本昔話から言いますと、山寺の麓の長者様が亡くなった。しいては和尚様に葬儀をしていただきたいと長者の屋敷の者が言いに来た。

    で、和尚は葬儀の了承をして、その長者が死後の世界でどこに行くかを霊視したところ、このままでは地獄界に落ちると見えて来た。 日本昔話の農村地帯の長者とは、多くの小作人を使用して米を作らせ、自分だけが大金持ちとなっていた。長者と小作人との間の貧富の差は多大だったのです。

    そこで和尚は、このまま葬儀をすれば長者は地獄に落ちてしまうで、長者の財を葬儀の時までに農民たる小作人達に分け与え得るように手紙をしたためて、小坊主に持たせて長者の屋敷に走らせた。そこで、長者の遺族達は長者が地獄に落ちてはいけないとその財を小作人達に配った。和尚が葬儀を終えて霊視したところ、その長者は地獄に落ちずに済んだと言うのがその昔話の骨子だと覚えています。

     

    私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、【私の書は旧約聖書なれども、私の真の教えは日本民話や日本昔話に秘めた。そなたはそうした物語を読んで、私の教えを知りなさい。】と告げられたことから、日本民話や日本昔話を読み、そこに秘められた意味を学んできたと言えます。

     

    地獄の沙汰も、貧しき者に自分の金を分かつで変わった

     

    それは閻魔大王様が、大金を出せば地獄行きの沙汰を変えるなどの話ではないのです。キリスト教で言われた【贖罪】の話なのです。

    イエスの教えに、金持ちが天国の門をくぐるのは針の穴をラクダを通すようなものだがあります。イエスは金持ちの天国行きは不可能だと言ったのです。

     

    だが、【贖罪】と言う金で罪滅ぼしをする手もあった

     

    下記の図は以前に出したものですが、贖罪の【贖】の漢字は財(貝)で売り買いするなのです。【贖罪】は自分の罪を財で売買することです。

     

     

    そして、そこに何が起きるかです。

     

     

    大本教の出口王仁三郎聖師は、地獄を覗けば牧師や僧侶で一杯だと残しておられますが、どれだけ多くの宗教家が地獄界に落ちているかです。単に大本教が他の宗教と違って、創造神と呼ばれる神を説いたからではないのです。そこには【贖罪】の結果の意味が秘められていると言えます。

     

    自分が犯した罪を【財】として、他の者に金銭を付けて渡したならばその罪分は消えて行きます。この意味を理解していないと、贖罪の言葉の意味が解らないが起きます。

    自分の家の爺さんは放蕩者で、家の財産を全部食い尽くしたなどです。すると、一見するとその爺さんはどうしょうもない人だったとはなりますが、これはその家の御先祖様が多くの人を泣かせて大財産を築いた。すると、その家に放蕩者が出て、その財産を全て失った。その時、その放蕩者であった爺さんが悪かったのではなくて、その家系に多くの人を泣かせて築いた財に残されていた【カルマ】そのものを解消させたもあるのです。

    その爺さんの放蕩でその家は貧乏にはなったが、それは霊的世界から言うと幸いなのです。【幸いなるかな貧乏人】なのです。イエスが説く【幸いなるかな貧乏人は】舌足らずの言葉の教えと言えます。

     

    そこに来る言葉が、【子孫に美田を残すなかれ】

    我が子可愛いで道を誤る人は数知れず 。特に母親は気づかない。

     

    一部の霊能者の方達は説いておられるのですが、御先祖霊が本当の天国界に渡りますと、この世での子孫とは【縁切り】となります。先祖霊としてこの世の子孫に関わってはいけないからです。先祖守護霊として出て来られる段階の霊は、まだまだ本当の天国界には行っていない段階なのです。ですから、先祖霊は【副守護神】格と言われているわけです。

    そうした先祖霊に対して、自分自身の魂のルーツの中で神上がりをしている存在が【正守護神】と呼ばれるのであって、人はその【正守護神】に帰結しなければならないのです。単なるあの世ではなくて、霊界での次元が違うのです。

    東京の深川富岡八幡宮の宮司家の姉弟で宮司の地位と金銭を巡って姉を殺して弟が自殺するがありましたが、どちらの霊も浮かばれることはないでしょう。富岡八幡宮に鎮座している神霊が誰かは知りませんが、監督不届きの神霊とも言えます。神霊の座にあぐらをかいていたのかです。

     

    大本教の出口王仁三郎聖師が、地獄を覗けば牧師や僧侶で一杯だと書き残しておられますが、【いったい貴方たちは生前に何を拝んでいたのか?。】なのです。

    スピリチュアル標榜の女性霊感者の中には、首や指に宝石をきらびやかに飾り魔除けなどと称しておられますが、自分自身が【魔界】の中に在る理解がまるで出来ていませんよなのです。

    この世では石には【魔除け】のパワーはありますが、この世の宝石はあの世には持って行けません。あの世に持って行くのは自分の磨かれた意思たる【魂】を持って行く以上、その魂が【宝玉】でなければならないのです。

     

    人は誰しも困った時には、外在神の【霊力】に頼ろうとします。それに頼って今の時は助けられても、死後に天国界には進めないとなります

     

    では、自分が過去から積んで来た罪(カルマ)は誰に支払えば有効かと言いますと、【世の為、人の為】に吐き出すのが一番有効なのです。だが、その金の出し方が解らないとなります、宗教団体よりも【社会福祉組織】に出すなのです。宗教団体に出す時はその宗教団体が【慈善事業】をしていないと意味をなしません。その宗教団体が自分の宗教の拡大の為にそうした資金を使う。教祖や宗教家が贅沢をする為では、【贖罪】として出された金が贖罪とは成らないのです。

    某宗教はその教祖様がイエスの再来で、信者達に教団に大金を出させて、その財は高価な骨董品等に使われていたがあります。無論、この教祖様はイエスの再来でも何でもありませんでした。要するに霊界のペテン師です。

    この教団ではニセ霊能者を使って、相談者に霊障が起きていると高価な壺や絵画や印鑑を売りつけていました。俗に言う【霊感商法】です。しかし、その霊能者達は全てニセ者達でした。そんな教祖が「イエスの再来」などあり得ないことなのです。そんなことすら解らなかった者達は、俺々【詐欺】に引っ掛かったのと同じ事で、出した金はトブ捨て金に等しいとはなります。

     

    しかしながら、自分の罪や先祖の罪を意識して財を吐き出したならば【贖罪】の理には適わってはいるのです。その宗教家は死後に地獄に落ちたでしょう。ただ、悪しき宗教家に欺されて吐き出した金と慈善として世の弱者に為に出された金とでは、贖罪の働きに大きな差異が生じます。

    そうした詐欺の宗教とは、大本教の出口王仁三郎聖師が【天国に案内すると言いながら地獄に案内する取次者(金儲けの宗教家やスピリチュアル的存在)】と残しておられるのは、そうしたことなのです。

    スピリチュアルでも最初は高い霊と交流していても、金儲けに入ると低い霊との交流になります。本人は気づいていないのですが、他から見ている霊能者には憑いている霊が代わった(変わった)ことが解ります。その霊能者は、やがて蛇霊憑きや野狐霊憑きと呼ばれるようになるのです。霊世界を自己の金儲けの手段にしてはいけないなのです。

    私が以前は大評価していた某霊能者も有名になった途端、以前の霊界よりも落ちておられます。金儲けに入ったからです。御本人は以前と変わらずに霊が見えているから気づかれないのですが、自分の魂の格を落としているなのです。最初は霊界に対する功績は大でしたが、今は霊界の罪人と化しておられるです。

     

    ですから、大金持ちが世の弱者に対して大金を出すのは有効なのです。

    常に、【世の為、人の為】の原理原則がある

     

    では、何の財産も無い者はどうすればいいのかとなりますが、そこにお釈迦様の教えの中にある【貧者の一灯】があるのです。大金持ちの大金の寄進よりも、何の財も無い者の【一灯】の方に価値があるなのです。私は大金持ちの天国行きは僅かしか見られないと言います。しかし、貧しい人達の中に天国行きは多数見られます。

     

    その貧者の一灯には金銭ではなくて、

    世の為人の為に働く【ボランティア的活動】がある

     

    それは大災害が起きた時などに、そこに手弁当で駆けつける表だったボランティア活動があります。だがそうした人達は若者や体力や時間が取れる人達です。老いた人や体力が無い人や時間が取れない人や病人は駆けつけたくても駆けつけることが出来ないなどがあります。そうした時には代替えとして弱者に対する【金銭的援助】が役立つなのです。

    また、そうした大災害時のみならず、日々地域のボランティアとか奉仕をされている方達。それは【世の為、人の為】にされているので、その魂に【悳(徳)】点が加味されて【天国界に向かう】となります。

     

    神様神様、御利益下さいと拝んでいる人よりも、世の為に人の為に(他の救いたる世根活動)と働いた人の方が、死後に遙かに高い霊界の次元界に進まれる。

    私が説いていることは【米】教と言いますが、【他(田)を救い(鋤くい)て世根(米)】と成れなのです。ですから私が説いている内容は【みろく(身禄)】の教えともなっているのです。

     

    仮に自分が神で有るとするならば、自分に大金を差し出す者は天国に案内するは悪神の論理で、世の為に人の為にと働く者や犠牲を払った【誠】の者は天国に案内するは正神の論理であると言えるかどうかです。

    どの神霊も【自分が悪神】とは言われないでしょう。しかし、神として自分がどちらの論理に立っているかなのです。

     

    自治会の組長などをしていますと、何年に一度か組長が当番で来ます。以前は日赤の赤い羽根とか暮れの歳末助け合い運動に自治会から強制的に割当金がありました。通常コーヒー一杯程度の金銭です。ところが、強制的に自治会がするのはおかしいと言う声が出て任意になると、もうその程度のお金も出さないで激変してしまいました。

    困っている人のことなど知ったことではないと言う。世知辛い世になったとは言えるでしょう。

     

    人は何故に、この世と呼ばれる世界に生まれ出たのか?

     

    何の意味も無く、目的も無く人類は誕生したのでは無い

     

     

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    何気ない日常にこそ幸せはある。何も無い田舎の様な風景の天国界。大都会の様な風景の地獄界

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      宗教の世界ではどの宗派でも【天国と地獄】論が語られますが、それらは【我が宗派の教えを信じる者は天国で、異教徒達は地獄に墜ちる。】式です。その地獄として説かれるのは鬼的(西洋では悪魔的)存在が居て自分を苦しめる世界です。そこにあるのは自分達の宗教の教えを優位に広める為であり、必ずしも天国や地獄の実態にそぐわないものとも言えます。

      何故ならば、現実の神霊世界を知るならば悪魔的存在や邪神的存在も堂々と闊歩しているからです。否、数から言えば圧倒的に邪神とされる存在が多いと言えます。悪魔や邪神達は地獄に行くのであれば、どうして堂々と霊界を闊歩しているのか?。まして自分が高い神霊だと名乗って出て来る。宗教の論理ではどうにも天国と地獄の違いの説明が出来ない現状があるのです。

       

      この世は魂の修行場ゆえに、正神も邪神も存在する

       

      しかも、そうした悪魔的邪神的存在の手先となっている霊能者の方達も存在してきます。浄霊等の相談料として何百万円。時には千万単位の法外な大金をむしり取るもあります。若い女性信者を自分(宗教家)の性の慰み者にするもあります。そうしたことが一部では公然と行われているなのです。そんな霊能者や宗教家が説く神とはいったい何?。

       

      そうした宗教家を犯罪者として捕まえることが出来るのは、この世の警察であり検察で神と呼ばれる存在ではありません。そして神ではなくて人たる裁判官が「刑」を決める。それは神霊世界そのものに【自浄】作用が見られないなのです。今の霊的世界とは【力の強い物が勝つの論理】で、私達が神に求める【正義とか公平】が支配しているではないのです。

      最近も西洋のカトリックでシスター(尼僧)達や子供達を性の奴隷にしている司祭達の存在が報道されましたが、日本でもオウム真理教の麻原彰晃のハーレムとか大阪のキリスト教の主管牧師が信徒の女性のみならずその子供達まで性奴隷にしたなど限りなく事件は起きています。そこにあるのは、自分に逆らえば【地獄に墜ちる】ぞなどの信者に対する恫喝と強迫観念の植え込みです。その宗教を信じる人達に、この人は神に仕えてるから絶対的な人だと思わせるです。

       

      宗教が教える天国・地獄論は、実態に合っていない

       

      私の最初の師匠は豊受姫のお代さんでしたが、私に【貴方に教えが出来る神等、日本国中のどこを探してもおられませんよ。】と告げられましたが、私は必ずしも何もかも知る者ではありません。ただ、宗教書などを読んでいると、この内容は事実とは違う等が自然と解るなのです。過去に自分がそうした天国と呼ばれる様な世界にいた頃の記憶を持っているからでしょう。

       

      そうした一点として、宗教書には【天国は金銀財宝で輝いている宮殿】があります。確かに霊界には「金銀財宝で輝く宮殿」そのものはありますが、その宮殿の中に入りますと、その金銀財宝で輝く宮殿の主は蛇神だったりします。古来より【蛇と財宝】と言われる関係です。

      で、天国は財宝だらけで、毎日毎日遊んで酒を飲んでいる世界だ!。そうした観念を持ってしまうと間違いなのです。霊界にそうした金銀財宝で輝いている宮殿そのものは存在しても、その宮殿の主となったならば、何時誰が自分の財宝を盗みに来るのかと【疑心暗鬼】になって、心が安まることがありません。

      そんな金銀財宝で輝く宮殿の門番を「蛇霊」がしています。その宮殿の財宝を盗もうとしたならば、蛇霊が威嚇して攻撃して来ます。だとすれば、そうした金銀財宝で輝いている宮殿がある世界とは、【真の天国界】では無いとなります。そうした事柄が仏教にある説話。金の亡者で【蛇に成った長者】です。金、金、金で蛇霊に成る。

       

      真の天国とは、金銀でなく【心に平安】がある世界

       

      私は天国とはどんな世界ですかと尋ねられたならば、何も無い【田園の農村】の様な風景の世界と言います。都会の様な華やかな世界ではないのです。パチンコ機もゲーム機もありません。天国の住人は遊ぶことで無く【働く】ことそのものに自己の幸せを感じているのです。天国には都会の様な歓楽街的処はどこにもありません。ショッピング街などもありません。まさに田舎の農村風景です。

      天国住人の気質は、住人は全て自分の友であり仲間達です。他の住人の悲しみを自分の悲しみとして受取り、他の住民の喜びは自分の喜びとする世界です。住民全体が一つの【家族】なのです。一つの物も皆で分かち合うです。 天国は遊んで暮らせるパラダイスではないのです。ただ、働くと言っても嫌々働くのではなく、自分が好きな仕事で働くことそのものに幸せを感じるなのです。

      例えば、一例として農産物で言うならば、金を得る為に、食べるが為の農作物を作る為に働くのではなくて、そこに作物を作って実らせると言う喜びなのです。そしてその作物を他の人達に食べて貰うです。誰もが自分が好きな仕事で働くなのです。それを売って生活の金を得て生活をするではないのです。 天国住人達は仲間達の為に働くなのです。そこで出来る物を集めて【皆で分かち合う】ことから【分かちの国】とも呼ばれるわけです。

       

      そこから真の天国は【分かちの国】と呼ばれます

       

      天国住人の間には紛争そのものがありません。何故ならば他人の財を盗もうとする様な人など一人もいないからです。宗教書では天国に行きたいのであれば【この世の財を捨てなさい】などがありますが、その捉え方が違っています。そもそも天国界に行くような人に【他人の財を盗む】という気がないのです。 他人の財を盗むのではなくて、そんな心がけでは天国界などいくら望んでも行けませんよなのです。天国住民の気質と合わないのです。

       

      では、天国は【宝石】で輝いているとされる意味は何か?

       

      これは天国住人の一人一人の魂が【宝玉】そのものなのです。天国はそうした【宝玉】魂を持った人達で輝いているなのです。 為にそうした魂は光輝いているので、天国界は【宝玉】の世界なのです。

      私は未だ大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を紐解く前、出雲大社教の教師から【瑠璃玉】の様な魂を持たれた方ですねと告げられて、人の魂とは【宝玉】かと驚いたことがあります。人の魂は磨かれると【宝玉】の様になるのです。だが、自己の魂を汚すと毛物(獣)状となり、悪臭を放って来るのです。だが、スピリチュアル等では【魂】を見ないので、魂磨きは辛いから止めましょうととんでもないことを言う方が多いのです。魂が腐ったり悪臭を放っなどを知らないのです。

       

      天国は住人の魂が【宝玉】と化した世界

       

      天国界は、住人の一人一人が仲間を称えて互いを【協賛】しているのです。天国の住人の世界では自分一人が【疎外】されるなどはありません。住民の皆が自分を守ってくれるし、自分も皆を守っているのです。そもそも人を疎外する様な意識を持った者は天国には一人もいないのです。為にその社会には紛争などは起きません。実に心に平安が得られるなのです。

       

      そこに在るのは、他の人の為に自分が在り

       

      自分が在るのは、他の人から必要とされるから

       

      天国住民の心は平安であることから、神の都のことを【平安の都】といいます。その「平安の都」と呼ばれる言葉の意味がイスラエルでは【エルサレム】なのですが、エルサレムの言葉そのものは紀元前は【カナン(神からの約束の地)】と呼ばれていました。

      しかし、今のイスラエル国のエルサレムに行っても何の平安も得られないでしょう。イスラエルという国に住んでも、平安では無くて日々【テロ】の恐怖に怯えなければならないのです。

      確かにイスラエルの【キブツ】の制度は【天国界の模写】です。個人の私有財産制度を否定して、生産・運営・教育等を共同で行う。そうした物の考え方の制度はこの日本でもある宗教組織で行われました。

      しかし日本おける失敗は、天国界はそこに住む住民達の意識が高いので可能ですが、物質欲にまみれたこの地上世界では、【個人の欲望】から脱却出来ない人達が大多数なのです。自分の外形を飾りたい人には、そうした共同生活社会は向かないのです。この世は【魂の修学場】であり、個々の魂がそこまで磨かれていないからです。

       

      一方、地獄界とは、【心に平安が得られない世界】

       

      地獄界とは、この世で「犯罪者」に成った者達だけが墜ちると言う意味の世界ではないのです。常に自分勝手で周囲の人達と争う。常に怒鳴ってばかりいる。自分より弱い物に対しては虐める。

      よく、騒音おばさんやゴミ屋敷的存在の主の報道がなされますが、地獄界とはそうした人達ばかりが集まっていて、一人一人がとげとげしていて隣人との紛争が常に絶えない世界なのです。為に、自分の心に平安が訪れないのです。

      地域の住民が全て自己勝手で、誰一人として善人と呼ばれる人が住んでいません。誰も自分を助けてくれない。そうした世界で自分が生きて行く為には、他人と協調をするのではなくて他人を【力で支配するしか】道が無くなるのです。

       

      地獄界とは【弱肉強食】の世界なのです

       

      地獄界は【力】こそが全てであり、自分が弱い物を虐げるでないと、今度は自分が他の力の強い物に食べらる。虐げられる。生きる為には自らが犯罪などに走らないと行けない。生きる為に必死なのです。それが、地獄界は【獣の世】と成るのです。

      しかし、霊界の天国世界に入には、自分だけが得をしょうとする意識の者はそぐわないので、天国を望んでも入れないのです。それは神が【差別】をしているのではなくて、個々の魂の意識がそうした状態に入らないと【仲間】として住めないなのです。そこにあるのは「差別」でなく「区別」なのです。

       

      地獄界とは必ずしも鬼が居てその人を苛む世界ではありません。霊界で一番楽しい世界は地獄の一丁目(第一地獄界)とも言われていますが、大都会のような光景の世界です。地獄の一丁目の感じが一番解りやすいのが新宿歌舞伎町の様な風景とも言われています。そこでは日々歓楽が味わえるのです。

      霊界を見て来たならば、非常に発展した大都会の風景という説は第一地獄界か中有界の下層界の光景の見聞です。通常、高級霊は自動車などの乗り物がなくても空間を移動します。時には宇宙の星にも飛ぶのです。但し、スピリチュアルでは宇宙のどこにも行けるのですと簡単に言われますが、実際には【宇宙ゲートと呼ばれる関所】が在って、勝手には他の世界には行けないなのです。

      また、本来の神とはUFO等の乗り物に乗るでもないのです。為に天国界には鉄道や自動車の様な乗り物はないとされますが、地獄界の住人はそうした自在が出来ないので、大都会の様な交通網が発展した世界と言う方もあるのです。確かに神々は鉄道や自動車で他に移動はしておられるではないなのです。

       

      昔、【天国好いとこ一度はおいで。酒は美味いし姉ちゃんは綺麗だ。】の歌謡曲が流行りました。それは違います。確かに天国の女性達は美人で綺麗ですが、お酒のお酌の相手などしてくれません。そんな楽しい世界は地獄界の一丁目と言われているのです。歓楽のみで言うならば地獄の一丁目が一番お薦めなのです。しかし、霊臭としては臭い匂いの世界で、魂が磨かれた人はその世界の臭さにとても自分は住めないと言うでしょう。

      地獄界の住人は全てが【自分の個人益】の為だけに走る世界で、その世界で困って助けを求める人が居ても他人を助ける人など居ません。皆、個人主義で知ったことではないなのです。困っている人を見ても知らぬ振りの顔の世界です。その世界で負けたならば、悲惨なことになります。全ての住人が自分の敵だともなるのです。

      全てに自分の御都合主義。俗に言う【自己中】ばかりが集まって、その世界は俺が俺がで争いが絶えない為に、【心の平安】が何一つ得られないのです。

       

      天国界住人と地獄界住人の根本的違いは

      天国界住人は他の住民の為に働いたり他を助ける

       

      地獄界住人は他の住民のことなど知ったことでない

       

      私達はそうした人間関係を都会と田舎の違いである程度は知ることが出来ます。ですから天国界は田舎の農村の様な風景の世界なのです。都会の人は他人のことは知ったことではない。隣の人が誰だかさえ知らない。だが、農村の人達は何かと世話してくれる。皆、顔見知りです。時にはお節介で煩わしいなのですが、そうした風景そのものではなくて、そうした世界に住む人達の【気質】を指すのです。

      そこに、最後の審判は創造神の【稲刈り】と言います。聖書では【小麦刈り】です。実った【米】達は刈り取って創造神の御国に連れて行く。それを説く教えが他を救いの【米(世根)】教なのです。

       

      米(世根)教に教祖はいません、仕組は創造神です

       

      ただ、その世話役として【誠】の者が世話をしている

      大本教神諭、「誠」の者でないと、「九つ花」のお世話が出来ない

       

       

      私が2番目の師匠の元で修行している頃、就寝しょうとすると地獄に墜ちた多くの霊達の言い訳に悩まされていました。その話をその師匠に言うと、【おまえは地獄界の天使だったから】と告げられて、確かに私は天国界のみならず地獄界にも降りられる特別の天使職にあったことを思い出したがあります。

      通常の天使は、霊界の階層からは抜けられません。第一天国界天使は第一天国界のみで活躍。第二天国界天使は第二天国界のみの活躍と限定されるからです。第一天国界も地獄界にも移動出来るのは、天使職と言えども【霊波動】の問題で地獄界には簡単には降りられないなのです。

      その【霊波動】を変えて地獄界にも降りられるのは、【閻魔大王】に仕え関わることが可能な天使職だけと言えます。キリスト教神学のように、【冥府の長官はサタン】だと言っている様では何も解っていないとなります。

      大本教神諭に、このウシトラ金神は「この世の閻魔大王」として現れるとありますが、スビリチュあるではおそらく【閻魔大王】が見えるなどはないでしょう。あまにりもその存在が恐ろしくて震え上がり、安易にスピリチュアルに走った自分を後悔しなければならないからです。

       

      大本教から出された【⦿(円真)】記号は米を計る

       

      スピリチュアル標榜者の【神の愛で救われますから、この世では何をしてもよいのです】。そうした言葉を真に受けていると、死後の行く先は【奈落の底】となります。私はそうしたスピリチュアル標榜者に言いたいことは、人は霊界の全てを知ることは不可能ですが、地獄界の一つでも見たことがあるのかの叱責です。

      神社に鎮まっておられる御神霊でも、地獄界を見たことも無い御神霊が多いと推察されます。地獄界の一つでも見てくれば、そんな安易な言葉は一つも出せないのです。私は幾つかの霊界の地獄を見て来た一人なのです。ですから忠告や警告をしているのです。

       

      人は何も起きない普通の日々に【幸せの時】を感じます

       

      今はその何も起きない普通の日々に感謝して欲しいなのです。お金があるから幸せではなく、美味しい物が食べられるから幸せではなく、何も起きない普通の日々がどれだけ幸せかを実感して欲しいなのです。

      何かが起きた時、その何も起きない普通の日々がどれだけ幸せだったかを気づく事が起きます。為に、今と言う時を大切しなければなりません。

      つまらない何も無い日々は退屈だから、大都会で遊びたいではないのです。その何も無いつまらない日々にこそ【幸せがある】と理解出来ないのであれば、農村の様な天国界などに住めたものではありません。大都会に憧れている間は、まだまだ地獄界の意識を持っているなのです。未だ魂に汚れが残っているなのです。

       

      人は何故に老いて来ると、農村に憧れるのか?

       

      それは自分の意識が天国界に戻ろうとしている

       

       

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      低級霊の憑依は犯罪を誘発し、高級霊の憑依はその人の性格の向上心につながる

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        大本教から【人は霊止(ヒト)】であると発表されたのですが、人の肉体とは魂の服と言われるように、魂の容器にしか過ぎません。現在、新日本神道系の多くでは【人は霊止(ひと)】であると言いますが、これは特筆すべき内容だったのです。何故ならば、こうした教えはキリスト教やイスラム教等の古来の教えには存在しないからです。

        人の肉体から魂が抜けますと、肉体そのものは生きてはいますが【腑抜け】と呼ばれる様な状態になります。【心ここに在らず】です。それは自分の肉体に【精神】が無いでもあるのですが、人の肉体と魂とは別物の証と言えます。

        仏教には人に死後の世界の存在を教える事柄として、魂の【輪廻転生】の教えはありますが、人の肉体は【魂の服】だという追求論までには行っていません。何故、魂は【肉体】と言う服を必要としたのか?。そこが解っていないと、人間以外の別の肉を持った存在に魂が【転生】する意味すら理解出来ないとなります。単に人から動物等に転生したら大変ですよ的なことで終わっています。

         

        魂が肉体を有するのは、魂の汚れを取る浄化の器官

         

        汚れたままの魂で永遠に行けるのか?。それが解っていないと何故に人の魂は他の肉体を持った動物にも【転生】しているのか?。何故に霊が人に【憑依】するのか?。意味そのものが解りません。

        人は肉体の命を終えれば魂の本来の世界である霊界へと旅立ちます。これが本籍は霊界で現住所はこの世と言われていることです。霊界とこの世はまったく別の世界なので、死後の世界をあの世(彼の世)と言い。向こうの世界に渡ることを仏教では【彼岸に渡る】と説いたのです。

        だが、彼の岸に渡ると言う意味は別に春分とか秋分の日とは直接には関係はないのです。何故ならば、年に2回の彼岸の日でないと霊は彼の岸に渡れないのかと言いますと、そんなことはないからです。

        しかしながら、彼の岸に渡れずにこの世にウロウロしている霊に人は憑依されたりします。そうした霊は低級霊とか不浄仏霊等と呼ばれているのです。そうした霊を供養をして【彼の岸】に渡らせる意味を知る為の【習慣】として、彼岸の供養日はあっていいとなります。自分の肉体の御先祖霊に対する供養を忘れてはいけないからです。

         

        彼の岸を渡った人は、この世のことは過去の彼方

         

        自分の夢の中に死んだ親が頻繁に出て来る様だと、これは未だその霊は【彼の岸】を渡れていないのです。自分が親が夢枕にさいさい出て来る様では、肉体の縁で家族として縁を結び。親と成ったことから肉体の子供が心配で心配で彼の岸に渡れていないのです。また霊界に渡る条件に関して問題があるなのです。

        そうしたどっちつかずの世界のことを【中有界】と呼んでいるのです。未だ天国とも地獄とも定まらずです。これが解っていないと仏教の【三途(天国・中有界・地獄)の川】の意味が解らず、人は死ねば天国だと言う誤った論理に入ります。ほとんどの魂は【輪廻転生】を煩雑に起こす【中有界】にあるとも言えるからです。

        今、スピリチュアル世界でも新興宗教でも【中有界】が消滅して行くと言われていますが、最後の審判と呼ばれれる事柄を持って「中有界」は消えて、天国界か地獄界かに別れるなのです。魂が消滅するのならば話は簡単ですが、永遠に地獄界等の苦しみの世界になってしまうのです。為に、心ある御神霊達は人を使って早くから【警告】を発し続けておられると言えます。

         

        人の肉体は遺伝子によって親子関係は成り立ちますが、魂の世界の親子関係ではないのです。肉体の親子は一時の親子関係なれども、魂の親子関係は永遠性を持ったものなのです。

         

        つまり肉体のルーツと魂のルーツは別物なのです

         

        魂のルーツとされる存在のことが新日本神道系で【正守護神・本守護神】と呼ばれていることなのです。こうしたことはスピリチュアルでは教えてくれません。せいぜい「ソウルメイト」の存在なのです。

        霊界では自分と同じ意識の者が集まり社会を形成します。その自分と同じ意識レベルの魂が住む世界の「友人達」がソウルメイトなのです。私は「ソウルメイト」に意識を持って行くと、この世に魂の修学に出た意味が解りません。霊界に戻っても同じ意識界で留まってしまうからです。私はソウルメイトを言っている段階は【ドングリの背比べ】と言っています。

         

        全ての人に【魂】と呼ばれる存在があります。その【魂は誰から】生まれたのか?。どこから生まれたのか?。ソウルメイトが自分の魂の親ではないことぐらい簡単に解ることなのです。

         

        ソウルメイトは魂の世界の友人・仲間達であっても

         

        自分の魂の親子関係では無い

         

        平たく言えば、ソウルメイトなどを打ち出している段階は魂の世界での【進級】が出来ていないということなのです。自己の魂が暮らしていた出身の元の世界に戻ろうとしているだけで、自己の魂のルーツで在る正守護神・本守護神に向かっていないなのです。それは神の高山とされる【合目】とか【次元】を知ってれば簡単に解ることなのです。

        ただ、霊界での高次元世界に進級の道を選ぶのか、停滞を選ぶのか、はたまた降級を選ぶのかはこの世に出ている個々の魂の判断と言えます。ソウルメイトを言っている間は、その段階で留まって停滞となるのです。

         

        霊界では同一の意識を持った存在が一つの社会を創って行きます。その魂の意識の状態で【天国界】とか【地獄界】と呼ばれる世界が形成されます。しかし、そこには三千世界と呼ばれる様に多様の世界があるなのです。

        この世は魂の【修学場】なので、いろんな意識の世界の魂が一つの場で生きます。しかし、霊界はそうではありません。お坊さんが葬式の時に御経を上げてくれたから、極楽に往生ではありません。葬式の意味合いは、この世から彼の岸に渡ったことをその魂に告げる意味合いと言えるのです。この世とのお別れを本人に自覚させる為と言えます。

        ですから、そうしたことをキチンと理解している方ならば、葬式などは不必要と言われるでしょう。坊さんや牧師が【天国】に送ってくれるではないからです。そこに死者には霊界からお迎えが来ると言われているのです。

         

        極楽(天国)に往生するかしないかは、この世の生き方次第なのです。

         

        そもそも霊界では同じ意識の魂(ソウルメイト)の集まりなので、違う意識の魂がその世界に紛れ込んで生きる事は難しいのです。ですから地獄に墜ちてしまうと、そこから脱却が難しくなります。そうした意味を知っての「ソウルメイト」の説明ならばいいのですが、スピリチュアルでは「ソウルメイト(魂の友達)」の言葉が、そうした言葉を出すことがまるで自分が特別の存在の様な者だ式に語られています。

        私個人の偏見ですが、私が見る限りスピリチュアルという言葉を連発する方で、【高次元界の魂】の持ち主だと思える方を見たことがありません。お釈迦様やイエスや弘法大師や大本教の出口王仁三郎聖師とはまるで違うのです。

         

        魂は【玉思惟】であり、思惟(意識)を持った玉 

        磨かれた魂(玉思惟)はその表面は磨かれて水晶球のように見えます。逆に汚れた玉思惟はその表面から毛物が出ています。

         

        これが人の顔をしていても、その魂は【獣(毛物)】

         

        その魂が腐った様な状態ならば、その魂は悪臭を放っています。魂の中味まで腐ろうとしているのです。この世を尖って生きている人の魂は丸くなくて、魂が角を持った尖り(トンガリ)だらけとなります。魂が【○】と成らないのです。こうした魂には魂の【核】たる存在が見受けられなくなり、すなわち天帝の直霊たる分魂(良心神)が見当たらないとなります。

        そうした魂の多くは優秀な霊能者達は魂が破砕されると言います。そうした破砕された魂は、次の世はミミズとか昆虫とか蟻とかボウフラの様な生命体に成るとされています。

        仏教では万物に霊性が宿ると説きますが、全ての物に【霊性】はあるのです。ただ、魂が在ると説くことと、生命には「霊性」が宿ると説くことは次元を異にするのです。蚊やゴキブリにも魂が在ると説いて、そこにどれだけの意味があるかです。

         

        人の魂とは、神に似せられた肉体を持つ最高の地位

        いくら蚊やゴキブリも命ある物と言っても、そこにはその命に月とスッポン様な差があるのです。一度、そうした世界に墜ちてしまうと、次に人として出て来るには一億年は掛かると言う説すらあるのです。人は人としての肉体を貰っている間に神に成る昇格をする必要があるのですこうしたことを大本教では【人は神の子・神の宮】と説きました。

         

        そうした魂が破砕された欠片も【霊】であり、魂は破砕されても【霊として意識】を持っている場合があります。人の数よりも霊の数の方が圧倒的に多いとされているのは、霊性はあらゆるに物にあるからです。

        そうした魂が破砕された霊の欠片は【埃(ちり)や塵(ゴミ)】の類いですが、霊性を宿していて人に付着憑依する存在でもあるのです。

         

        希に犯罪者の中に自分は霊に憑依されて犯罪を犯したと抗弁する犯罪者が見られます。日本の刑法では、【責任能力(事物の是非・善悪を判別し、それに従って行動する能力(=良心の働き)が存在しない状態を責任無能力(状態)と呼び、責任無能力として【心神喪失や心神耗弱(こうじゃく)】が言われるわけです。

        かって、この日本で幾人かの少女を誘拐して殺して死刑になった事件があります。本人は多重人格者(裁判の精神鑑定では精神分裂症と判定)で霊に憑依されていました。この犯人が申し立てていたことは、裁判では全て否定されましたが、裁判で霊等を言っても通りません。その裁判時の精神医の判定は「精神分裂症」で現在は「統合失調症」と言います。

        しかし、優れた霊能者サイドから見た時には全て霊の憑依が原因と解った事件でした。だが、弁護士が霊能者を精神鑑定人として裁判に呼ぶなどは、天地がひっくり返ってもないでしょう。そもそも裁判所も検察も霊能者を鑑定人としは認めません。

         

        私の最初の師匠は豊受姫のお代で、その豊受姫が言われた内容を「名誉毀損」と裁判所に訴えた方があり、戦後間もない豊岡の地方裁判所でのことでしたが、【神は存在するのか?。存在しないのか?。】となって、神の存在証明として裁判長の机に空のガラスコップを置いて、そのコップに水が満たされるかで神の存在証明とするで、その裁判長の机の空のガラスコップに満々と水が満たされたことから、その裁判は名誉毀損で訴えた方が自らの犯罪を認めて取り下げて結審となり、それはその地方の新聞ニュースで流れたと言われています。

        私は伏見稲荷山で修業をさせていただく過程で、数々の奇跡を見て来ています。学者など絶対に信じられない内容です。そうした中味はスピリチュアルの言葉では語れることではないのです。私は自分が「救世主」だと呼称する人達も見て来ましたが、そうした方が見せる奇跡にしても、本当に【行者】と呼ばれる方でしたら見ているなのです。とてもその人が救世主などとは言いません。

        物理の原則に外れる「奇跡」の数々は、霊界や神霊の存在証明にはつながりますが、【真理】を告げるではないのです。だいたい人には「魂」が存在し、希には一人の肉体に複数の魂が宿っているなど、医学界が認めることなど永遠に無いと言えます。

         

        自分は霊に憑依されたから罪を犯したと言って、その犯罪者を神が赦すとかとなったならば赦すはありません。何故ならば、本人が【心神(精神・魂)喪失】に入った時には、既にその肉体にあった本来の魂は喪失しているからです。こうしたことは、私の以前のブログに蛇霊による魂の食い破りを書きましたが、肉体を持たない霊は自分の汚れを浄化する為に肉体を欲しているなのです。

         

        ある霊能力者の方は前世が密教の行者で、その当時は大日如来の神力の元で多くの方を救っておられたようです。しかし、その救いとは現世御利益的な内容で信徒の魂を極楽(天国)に救うではなかったようです。現世においてもその当時の信徒の霊達がその後身の肉体にもすがっていて、その方の両足は救いを求める低い霊の懸かりで足先から冷たくなり、それが原因で足の骨まで変形していました。

        その方は今生では前世の様な行者とは成らずに在家として、神仏信仰の修業に努めながら汚れた土地の浄化にも尽くされたのです。すると不思議なことに、その方に前世の縁からすがっていた霊達も何時の間にか浄化され、変形していた足の骨が元の状態に戻ったのです。そして、その方の生活も良い方向へと向かったのです。

        私も低い霊の懸かりで曲がっていた足の骨が元の正常状態に戻ったことには驚きでしたが、汚れた土地の浄化をされたことが、神界に対する【功績】に繋がったと思われます。人が持つ【カルマ】とは容易には解決出来ないと思い知った出来事です。

         

        私も霊媒体質者であり、日本神道で言う【サニワ(審神)】の時には「霊媒者」のお世話になったのですが、霊能者霊感者は無数に居ても神霊を媒介出来る霊媒者ともなれば、極端に数が少ないのです。そうした霊媒者に低い霊が懸かると、その霊媒者の足先は冷たくなります。その時には、言霊でそうした低い霊の【除霊】をしていました。そして、私自身も大量の低い霊の懸かりで、足先が冷たくなるなどは日常茶飯事と言えました。

        私は言霊師の二番目の師匠の元に居た時、その師匠から「おまえは霊界の歩く浄霊マシン」と言われていましたが、その日々が浄霊に明け暮れていたと言えます。こうした足先に懸かって来る低い霊とは救う必要が無い霊と言えます。何故ならば、それらは魂そのものではなくて【思いをもった思念】たる霊だからです。思念たる霊をいくら消しても、それは魂を消すとは意味が違うからです。

        そうした【思念(死ねん)】の霊を消して行かないと、そうした【思念】に憑依された人達が罪を犯すことにもなるのです。 世に霊が見えるとか霊と会話出来るからと言って、スピリチュアル標榜をされる方達は多数在ります。しかしながら、そうした人達が霊界の掃除に尽力をされているのかです。

        最後の審判においては、霊能者やスビリチュアルだからと言って無条件で【みろく世】には渡れません。そうした霊能者は、どれだけ霊界の掃除に尽力したかが問われて来るのです。霊界の掃除をしても誰も一円のお金もくれません。無償で働く精神が要るのです。 創造神は、貴方はそうしたことに【無償】で働けますかと問うておられるなのです。

         

        一方、高い神霊が自分に懸かると肉体が火が燃えるように熱くなることは、優秀な霊能者達には知られています。そうした霊が自分に降りると、自分自身が変化して来ます。自分の魂が【内部】から変化を起こして来るのです。

        そうした時、自分の性格が顕著に変わることが解って来ます。昔の自分の意識がどこかに消えてしまうのです。それまでは悪い連中と連んでいたのに、そうした存在と自然に縁が切れるです。そして神仏信仰に目覚めるです。

         

        悪と連んでいる時はこの世は面白い

         

        何故、人は突然に苦しい神仏信仰に走るのか?

         

        そして更に進んでいくと、【あるがままの精神】に向かって行くなのです。一部のスピリチュアル標榜者は【あるがまま】の言葉を説いていますが、あるがままは言葉では理解出来ません。自己の魂が霊界でも高い霊と同調して行く過程で起きて来るなのです。

        何故に、日本の新神道系で【正守護神や本守護神】に向かって行きなさいと説いたのか?。それは霊が見えるとか霊と会話が出来るではないのです。自分の魂で高次元世界に居る自分の魂との同一化なのです。そうした魂の存在は「ソウルメイト」とは言いません。

         

        正守護神・本守護神はソウルメイトよりも

         

        遙かに高い次元に存在する自分の魂なのです

        高い次元界に居る自分とは、肉体の自分とはまるで違います。それこそ、光輝いている自分なのです。

         

         

         

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        日本神道の【大祓(天津祝詞)】は予言文ともされるが、読めば読むほど恐ろしい内容

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          私は以前のブログにも【大祓(天津祝詞)】に関しまして記事を出していますが、少し違うことも判明してきましたので、中味を改めて再記事を書かせてもらいます。

           

          私の神霊界修業は日本神道界でお世話になりました。その時、当然に日本神道で日常的に唱えている【大祓(天津祝詞)】を唱えるのですが、その文面を見ていて凄いことが書いてあるなとは思いましたが。しかし、そこに書かれている内容に対する実感が全く湧いて来ませんでした。

          日本神話の天の岩戸開けの部分や、大祓(天津祝詞)に関しましては、一部にはこれらは【予言文】であるとの指摘があります。

           

          私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する霊声は、日本の神話の【天の岩戸開け】の様な事実はどこにも存在していない。こうした日本の神話の部分は、この私が【最後の審判の時】の為に創作させたものである。そなたはそうした日本神話を学んで、この私が日本の神話に何を秘めたのか。その意味を読み解きなさいと告げられました。

          私からすれば読み解けではなくて、どうしてその意味を直接に教えてくれないのかとなります。しかし、これほど世にニセ神示と思われる物が出回っているでは、誰もが自分は直に国常立尊(艮金神)様の神示を受け取っていると思っているです。それは旧約聖書にも言えることなのですが、誰が本当に創造神の神示を受けたのか解らないところがあるのです。

           

          人に直接神示を降ろすのは危険なので、言葉の仕組がされたのかも知れません。

           

          私は朝鮮に残されていた予言に最後の審判前、人類を救済する為に最後の教えとして【米】一字の教えが起きる。その教えに従った者達は天罰を受けずに済むが、その【米】一字の教えに従わなかった者達の上には【天罰】が降りるという内容のものがありました。私はそれを見て首を捻っていました。誰が考えても【米】一字で教えが出来るはずが無いじゃないかです。さらに難解なのはその「米」一字の教えに従わなかった者達の上には天罰が降りるが、その天罰を受けている中で現れる【白十字】によって救われるです。

          残念ながら、私も未だこの【白十字】の意味は解りません。何故ならば、私はそうした天罰を受けない者達と一緒に新地球の「みろく世」に渡る仕事があり。天罰たる神罰を受けている存在に関わってはおられないからです。それは別の方の仕事と言えます。

          私は大本教神諭予告、【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】の仕組が【米】一字の仕組であると解って、そこから最後の審判で【救世】される教えを始めたなのです。これを【飯屋(メシヤ)】の教えと言います。

          しかし、自分は既存の御神霊達が見えるで、その「米」一字の教えをバカにされる方達は多数あります。そうした方達は、その「白十字」によって救われるか救われないかは私の知るところではありません。

           

          私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から、【私は最後の審判を実施するに当たって、人類を救済する為にそなたをこの世に遣わした。】と言うことは聞かされています。しかしそれは、【この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一の国で在り、そなたはその仕組を見て人々に告げなさい。】というものでした。まさか、それが【言葉の仕組】だとは思わなかったのです。

           

          私が初めて伏見稲荷山に上がった時、伏見稲荷大社の豊受姫はお代たる最初の師匠を通じて、私に対して【貴方は言葉の神と呼ばれる貴い御方で、貴方の言葉による教えは天帝の【詔】と同じで、貴方の言葉の教えに従えないと言う神は如何なる立場の神であっても、天帝に対する反逆罪で裁かれます。】と告げられたなのです。

          一部の霊能者の方は私を見て、貴方様は【救世主】様ですかと問いかけられるのですが、私はそれは違うと言っています。私が旧約世主の神と称する声から告げられたのは、【肉体のそなたはバカを演じていればよい。神界で働くのは肉体のそなたにはあらず。そなたの魂の方である。】と、告げられているからです。肉体の私には何の【権限】も存在していません。有していないなのです。

          ただ、私は言葉の仕組は紐解けるし、言葉を見ていると解るとか気づくがあるのです。

           

          私は神霊界修業に当たり、豊受姫のお代をされていた方を最初の師匠としたのですが、その豊受姫様からも日本神話の「天の岩戸開け」などの事実はどこにも存在していないと聞きました。何等かの目的の為に、誰かが日本神話を創作したです。

          この【天の岩戸】の「イワト」に関しましては、既に日月神示の岡本天明師により【一八十】の数字を意味する言葉であることは世に明らかにされました。イロハやヒフミの「四八音」で「ヨハネ」と読ませるのと同じことです。日本語と言う言葉は世界で唯一の神の言葉で創造神の教えが仕組まれているなのです。

           

          私は霊能者はしていませんが、地縛霊とか不浄仏霊には遭遇はしました。そうした時に多用するのは【般若心経】であり、そうした霊に【大祓(天津祝詞)】を使うなどはしませんでした。

          どの実践霊能者の方でも、【般若心経】と【大祓(天津祝詞)】の使い分けをなされているかと思います。霊に対する【効能】に違いがあるからです。仏教では、よく【真言】を多用される方があります。仏教の【真言】は短い言霊の並びで効率がよいがあるからです。

          しかし、私個人の体験からすると絶対的な霊パワー能力は【大祓(天津祝詞)】にあると感じられました。霊能者の方達は、特に旧大祓の方が威力があると言われます。地縛化した霊とか不浄仏霊に【大祓(天津祝詞)】はきついのです。ですからそうした霊に対しては【般若心経】が良いとなります。

          だが、霊媒体質者が【般若心経】を上げると、救いを求めているそうした地縛霊とか不浄仏霊に憑依されるがあります。私を助けてください。私を助けてくださいと懸かって来るのです。誰も死後の世界で自分がこんなことになるとは思ってもいなかったからです。ただ、こうしたことは霊媒体質者でないと解っていなかったと言えます。

          仏教で説かれるこの世で悪いことをすれば、閻魔さんに叱られると信じて悪いことをしなかった方は良かったと言えます。 誰しもまさか死後の世界で【閻魔大王】が居るなどとは、口では言っても本気で信じているではないからです。キリスト教神学においては、それどころか冥府の長官を【サタン(悪魔)】扱いにすらしているからです。

          閻魔大王とは、反対に見れば【創造神】であり、イエスがどうのこうのと言える立場ですらないなのです。

           

          霊媒体質者はそうした憑依(霊懸かり)に苦しむのですが、そうしたことを訴えても世間には解りません。まず信じて貰えません。まして医師などには原因が絶対に解りません。そこで神仏の世界に助けを求めて、運良く優秀な霊能者に出会えたならばその弟子となって神霊界修行を積む。その修行によって、そうした霊の憑依(霊懸かり)から脱却出来たり、霊障が緩和されるがあります。

          そうした霊の憑依(霊懸かり)を脱却する修業として、俗に【山の行】と言われる霊山を巡ったり、断食をしたり、瀧に打たれるがあります。何も知らない方からすると、どうして行者は霊山に登り、瀧に打たれたり、断食をするのかとなりますが、霊に憑依される苦しみとは何の憑依も受けたことがない人にとっては解らないものなのです。

          ただ、【山の行】は霊障とか霊憑依には効果があるのですが、自分の魂磨きは【里の行(田の土で実る米)】でないとダメなのです。ですからいくら霊力はあっても、人品卑しい行者が世に出るのです。人としての人格が実らずに霊力ばかりが強いです。そうした行者には【黒龍神】とか【黒蛇霊】ばかりがつきます。

           

          私の最初の師匠は豊受姫のお代で、多くの霊能者からあの先生ならば間違いが無いと言われるほどの実力を持った実践霊能者でしたが、それでも霊の憑依で倒れています。霊からの攻撃で命を落とした行者は数知れずなのです。

          今日迄、霊の世界の存在はほとんど説かれていません。為に、そうしたことを知らない人は、自分が苦しかったら【神頼み】という安易な道を選ばれます。あまりにも霊界の実相に蓋がなされているからです。さりとて、その霊界の実相を知るには大変な作業となります。私にしても、何で多これほど多額の金銭を使って一銭の儲けにもならないことをしているのだろうと思うことが多々ありますが、自分も何かに憑かれてしているとしか言えません。

          スピリチュアルでは金儲け主義の方が多く見られますが、この世で大金を得ても霊界での【徳(悳)】を積んでいなければ、死後の世界はあにはからんやで蛇霊界に墜ちたりします。

           

          私の最初の師匠は豊受姫のお代さんでしたが、私に【信徒さんや多くの相談者から先生、先生と言われていますが、こんな仕事はしたくはなかった。出来れば普通の人として生きたかった。】と語っていましたが、本当の霊能者と言える方は大変な苦労をなされています。そうした苦労を積んで来なければ、他人の悲しみや苦しみを体験として【共有】出来ないからです。

          霊能者と称して、積まれた大金次第で何事も受ける方もあれば、金銭的なことではなく、その人が気の毒だからと金銭抜きで働かれる方もあります。それは自分が苦しんだ体験の【共有】からだと言えるでしょう。だが、気の毒だ!。だけで走っていると金銭的にも体力的にも自分に掛かる負担が大変なことになります。

          そもそもそうした霊障の原因の多くは、その人の過去世のカルマが原因していることが多く、安易に助けてもその人に【自己反省】が見られません。神霊ならばタダで見てくれるのが当たり前式の方がかなり多いのです。

          それは神社に行けば10円20円程度の賽銭で聞き届けて貰っているなのです。そんな10円や20円程度のお賽銭で、その人の過去からのカルマが原因で来ているような事柄を解決してくださる御神霊などは世に一体とて存在しません。もし、助けて貰えたら他の要因です。過去世からのその方と神仏との御縁からと言えます。

           

          私の最初の師匠がこの世を去る少し前、私に【自分は自分の信徒さん達に現世御利益信仰で神信仰をさせるのではなく、人としての「心の在り方」を説いていくべきでした。】と反省されていました。私からすれば、それでも死ぬ前に間違っていたことに【気づいてくださればそれで良し。】です。生前に自分は間違っていたと認識しないと、死後では間に合わないからです。

          そうした内容は私が初めて伏見稲荷山に上がった時、師匠の信徒さんの信仰態度を見ていて、その師匠から自分の信徒達の信仰態度に関して、どうですかと聞かれたので、【どの信徒さんも信仰熱心です。しかしその信仰は神様から何かをして貰おう信仰です。そうではなくて、神様達に対して何をして差し上げるか。神霊世界に対して功績を挙げれば、世に出ておられる神様達よりも上の世界に行けますよ。】と言ったことに対してです。

          するとその師匠は、私に【神様達よりも上の世界に行けるのですかと】と尋ねられたので、【その信仰如何で、神社に祭られている御神霊達よりも高い世界に行けますよ。】と答えた経緯があります。 何故、その時にその師匠は弟子にした私に聞いたかと言いますと、豊受姫から私が【言葉の神】と呼ばれる存在で、【天帝】の遣いたる存在だと告げられていたからです。

          それは私は子供の頃に旧約聖書の神と称する声から、【人の心の在り方】と【自己の魂を磨く】ことを幾度も幾度も教えられていたからです。

           

          現世御利益は、神の存在に目覚めさせる【手段】

          そこからの【踏み出し】が大切なのです。そして、【人は神の子・神の宮】です。

           

          インターネットの時代となり、インターネット上で無料の霊相談されていた霊能力がある方達が、次々とインターネット上から撤退されました。まるで無料が当たり前で相談を持ち込んでくる人達に嫌気がされたのでしょう。自分の【好意が仇】になっている。ことからです。自分の置かれた現状に文句ばかり言って、自己の向上心がどこにも見られないからです。

          優秀な霊能者の方達は、自分が死後に行く霊界の次元をほぼ把握されているがあります。だからと言って、相談者本人に魂の向上心が無いと、その人を霊界での次元を上げてはやれないなのです。それは大金を積まれたからと言って出来ないのです。本人に気づきの覚りが要るからです。誰かを拝めば霊界での次元を上げて貰えるではないのです。

           

          私の最初の師匠は、ある相談者があちらの神社こちらの神社と参り、何の御利益も無いとなるとその神社のお札をポイ捨て。どこかの神社の御祭神の怒りを買って、その息子さんは失明にいたりました。

          それを気の毒と思ったその師匠は、伏見稲荷山の【眼力大神】の元に行き、その人の目を開けてやってくださいと24時間も土下座平伏して眼力大神の前で祈り続けて、少しは目が見えるようになったがあります。神をも拝倒すと言われるものです。何神かの怒りを買っている者を助けるは、その怒っている神との悶着も考えなければならないので簡単に引き受けなどできないのです。

          無論、それはナザレのイエスが盲目者の目を一瞬に開かせたと言う話とは比較にはなりませんが、それを一銭の礼金も貰わずにしたがあります。自分の中に金銭ではなく必死になれる感情が湧かないと出来ないのです。

          そうした奇跡の数々は、その祈る人の魂の段階に応じて違います。お釈迦様やイエスや弘法大師や大本教の出口王仁三郎聖師は非常に魂の世界で位が高い方であったから、不思議なことも出来たとも言えます。

           

          私も修業の初めの頃は、相談者に頼まれてどうしても断ることが出来なくて渋々お祈りをして、大国主命様でしたが、御神霊がここまで聞き届けをしてくださるのかを体験しましたが、助けた人が私から神様に御礼をしてくださいと言っておいても何の御礼もされない。誰かに頼めば神様が何とかしてくださると言う安易な人達。そうした体験をして、私は肉体を持った人の為には基本的には祈らないと決めたと言えます。

          私が助けているのは自分がすがる為の肉体を持たない霊に対してだけです。肉体がある方が自分が困って助けて欲しいのであれば、自分で神霊に直接に祈りなさいと言うだけです。その人の祈りが神をも動かすはあるのです。

           

          大本教霊界物語には【言霊合戦】が出て来ます。日本神道で使用されている天津祝詞(大祓)は強力であり、相手が神霊であっても祝詞で倒すほどのものです。

           

          その大祓を見ますと、

          【我が皇御孫命は 豊葦原瑞穂國を安國と平らけく知ろし食せと 事依さし奉りき 此く依さし奉りし 國中に荒振る神等をば神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし磐根樹根立草の片葉をも語止めて】があります。

          この【皇御孫命】とは、天照大御神の孫、瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) のこととされていますが、これもまた実際にはどうなのかとなります。予言書と見る向きもあるにはあるのです。

          問題は【語問ひし磐根樹根立 草の片葉をも語止めて】にあります。それは磐(いわ)や樹木や立草すら会話する言葉を失うほどのものだと言うことなのです。

          そして、祝詞の後半に罪と言う罪は在じと出て来る物は、【科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧夕の御霧を朝風夕風の吹き払ふ事の如く 大津辺に居る大船を舳解き放ち艫解き放ちて大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を】とありますが、それは祝詞で宣っていても理解出来ないことなのです。

           

          それは実に恐ろしい光景を宣っているのです

          それは誰も体験したことがないような、あらりあらゆる物を吹き飛ばす暴風雨のようなことです。人の魂の罪(過去世からのカルマ)を祓い清めるとは、神社の神主が祓い串を振っているような事柄ではないのです。

           

          私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声が臨んでいましたが、豊受姫を初めとして幾多の霊能者から貴方の本守護神は【国常立尊】様との指摘を受けました。その【国常立尊】様は日本神話の天の岩戸開けを含む神話の部分は、全て最後の審判の時の為の自分の創作だと告げられました。

          日本の記紀神話は【奈良時代】に編纂されたものであり、1300年ほど前に編纂されたもので、シュメールとかメソポタミア、エジプトやインドや中国に残る文化や文献には太刀打ちが出来ません。どうしてこの様な内容が日本の神話や祝詞になっているか?。です。 日本神話には何が秘められているのか?。日本の土地は神的にどのような場所なのか?。日本列島は世界の大陸の【雛形】と呼ばれる様な不思議な型を持っています。そうしたことに気づきを持たないと、これから来る大嵐(祓い)に対処出来ないことにもなります。

           

          げに恐ろしきは日本神道の大祓(天津祝詞)の内容

           

          だが、全ての人の魂に【祓い】が出来れば、そこに居る人類とは魂に汚れが無く【光輝く】存在ともなるのです。

          人類の神あがりです

           

          それだけ強烈な【祓い】が来るとも言えます。世の大立替と呼ばれるものは私が豊受姫から【大嵐】と告げられたような事象であって、心に【備え】を持つべきなのです。

           

          私はブログにも書いていますが、黒海黒龍神の浄霊の時、私の腹は妊婦腹となって、目を閉じて額(第三の目)を太陽に向けて天照大御神様と唱えながら天津祝詞を奏上すると、トイレに走って下痢をするをしました。その後も、大量の霊に憑依された時には目を瞑って自分の額の場所に太陽光線が来る様にして天津祝詞を上げます。すると、ほとんど霊の憑依による体力の衰えは解消します。

          スピリチュアルでも神社で祝詞を上げると、自分の額に【光】が入る。そうしたことは語っておられます。確かに、神社で祭壇に向かって祝詞を上げれば微力な【光】は来ます。しかし、それは太陽から受ける光線とはまるで違うのです。

           

          最近、ようやく解って来たのですが、天津祝詞はあまりにも長いので、後半の【かく宣(の)らば】から祝詞の後半の部分を、太陽に向かって目を閉じないと太陽光線で目を焼いて失明する危険性がありますので、必ず目を瞑って額(第三の目の部分)を向けて祝詞を唱えると、単なる太陽光線では説明が出来ないことが起きると以前から解ってはいたのですが、更に光を増しています。

          それは伊勢神宮の神霊からの光ではなくて、

           

          現ナマの【太陽神】の光を身に受けるなのです

           

          それは、自分に憑依している霊を大祓いする

          それは単に太陽の元での「日光浴」ではなく、太陽に向かって【天津祝詞】を「奏上」することに意味があったなのです。人の【額】の部分は【客】の字がありますが、【客神】は第三の目から来ることは知られています。

           

          私は以前にもそうしたことは書いていて、私のブログの読者の方達の中には以前からそれを実行されている方達はありましたが、単に霊の憑依の時から逃れる為の手段ではなく、これから来るであろう【大祓】に対しての道でもあるなのです。

          単に太陽から受ける光と祝詞を上げながら受ける太陽の光とでは、霊に憑依されていなくても違うと解るのではないでしょうか。

           

          私の驚きは、

          創造神の「計画」は、そこまで含んでいるのか!

           

          もう神社に鎮座する御神霊にすがる段階では無いと言えます。

           

           

           

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          創造神に善悪は無いと言う神示に?。悪は主を墓(亞)に葬った者の心の意味

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            巷には大本教神諭以後、大本教神諭に似せた神示が雨後の竹の子の様に出て来ました。そうした神示を読んでいると、?。この神示は本物だろうかという言うような内容が見られます。どれも大本教神諭のウシトラ金神の言葉のように、【何々であるぞよ。】式に書かれてはおりますが、あまりにも内容がお粗末であり、何でこんな内容が神示として世に降りているのか理解に苦しむものが多々見受けられます。それらが本として売られているです。

            その著本を出している方は、自分に神示を降ろしている霊は「艮金神国常立尊」様であると思ってのことであり、それを責めることは誰も出来ないのです。それらの神示を読んでいると、個々の人の知識でとうてい書かれたものではないことぐらい解ります。それは反面、人を欺すことなど霊的世界の実力者にとっては簡単なのです。

             

            大本教神諭以後に出たそれらの雨後の神示を見ると、ある特徴があります。それは創造神から見れば【善悪】等は無いと書いてあることです。ある意味、【悪の擁護論】が多いことが目につきます。

            そこから、世にある勘違いが生じていることが解ります。特にスピリチュアルで見られる【何をしても神の愛で赦されるのです。】で、悔い改めるとか改心とか反省する記述が見事に抜け落ちているなのです。

             

            確かに、悪が無ければ【善】が何かとは解らない

             

            悪は【善】を知る為の反面教師役として存在する

             

            今の地球神霊界で【悪】が許されていることそのものは間違いがありません。それはこの地球神霊界は善神(正神)のみならず悪神(邪神)も闊歩しているからです。悪神も創造神の許しの下に活動しているという説は、現状的に言えばその通りなのです。

            そこに、この世は【魂の刑務所(宇宙の犯罪者たる魂の収容場)】。大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた【天人の苗床】説もあります。

            私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声からは、【この地球は魂の修学の場。修学を終えれば元の世界にと戻る。】と伝えられました。但し、その修学の場で自分の【魂を汚す】と元の世界には戻れなくなるです。

             

            それは【阿(ア)】から【羅(ラ)】を修める【阿修羅】道

             

            個々の魂は戦いに明け暮れて、私も前世は武将で戦死です

             

            多くの人の魂の元(源)は宇宙にあります。皆が元は宇宙的存在ではあったのです。しかしながらこの地球と言う星に降りたって、【自己の魂に堕落を起こして元の世界に戻れなくなり。】輪廻転生のシステムから逃げられなくなったなのです。

            私が言うことは、一部のスピリチュアル標榜者の方達が説く【この世は楽しくおかしく遊ぶ場所】だという説とは正反対に位置します。

             

            優秀な超能力者や能力者ならば、【最後の審判は各自の魂の良心神の点数】で決まると言うように、お釈迦様の本当の悟りであった【人には良心と呼ばれる神が内在する。】の存在で決まります。

             

            しかし、世の人々はお釈迦様の悟りを忘れているので、五六億七千万という摩訶不思議な数字と「みろく」と呼ばれる組み合わせが、如何なる神の仕業かは解りかねますが日本の言葉として組み立てられて創られていたなのです。

            しかもそれが、最後の審判を終えた後の神の御国に【五次元・六次元・七次元】で【みろく】と呼ばせる世界に人々を導く為の仕組などとは誰も思わなかったし、世に出ておられる神々ですら解らなかったなのです。

            私はとんでもない仕組だと感嘆しましたが、世の人々にはほとんど理解して貰えないなのです。

             

            スピリチュアルの【何をしても神の愛で赦されます。】等の言葉を真に受けていると、その審判の時に大泣きをすることになりかねません。だが、その時には【後悔先に立たず(事が終わった後で悔いても、取り返しがつかない)】となります。

             

            それは何故かと言った時

            誰もスピリチュアル標榜者から創造神のことを聞かない

             

            それは【輪廻転生】下では悪にも存在価値があり。悪の存在が許されていたのであり、輪廻転生が終わる以上、もう悪の存在そのものの必要が無いことを何一つ理解していないなのです。

            私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【悪役も神の舞台の演技者。その舞台(今の世)が終われば悪役の化粧を落とさないと行けない。しかし、悪役の化粧(魂の汚れ)を落とそうとしないのであれば、私はそうした役者は次の舞台(みろくの世)には上げない。】と告げられたしだいです

             

            悪の特質は【自分の霊魂に汚れを付着】させるです

             

            日本神道で言う【汚れ】とは、この世での悪しき行為のことです。スピリチュアル標榜者の【何をしても神の愛で赦されるのです】などの教えを聞いた時、これはおかしいぞと思わなかった人はおかしいのです。

            黒龍神と呼ばれる龍神のほとんどは、その霊体に付着した汚れから色が黒く見える存在で、その汚れを落とすと他の色の龍神ともなります。しかし、その黒龍神が自分の汚れを落として浄化浄霊をするかと言ったならば、自らに【悔い改める意志】が無いと出来ないとなります。

            私は今の神霊世界の修業過程で、黒龍神界でも大物中の大物とされる黒海黒龍神の浄化浄霊で死ぬほどの苦しみを味わいました。あまりの浄霊のきつさに浄霊を失敗したのですが、黒龍神などを浄化浄霊しようとすると、それをする人の肉体はその汚れで命を失うと言われるほどきついものです。黒海黒龍神は大物黒龍神ですが、通常の黒龍神の浄霊でも、龍神浄霊は肉体の魂によほどの力量が無いと難しいのです。

            その黒海黒龍神の浄霊の時、私自身の腹は妊婦の様に膨れ上がり、太陽に向かって天照大御神様と唱えて、天津祝詞を上げてトイレに入ると激しい下痢。トイレから出て来ると、またもや私の腹は妊婦腹。また太陽に向かって天照大御神様と唱えて天津祝詞の奏上。するとまたもやトイレに入って激しい下痢。その繰り返しでした。いったいこの腹が膨れて来る現象は何だ!。です。

             

            悪は、腹が膨るる術と言われる現象です。 

            黒龍神の汚れ(悪)で私の腹は妊婦の様に膨らんだ

             

            私はあまりの下痢の回数の激しさに自分の体力が奪われてしまいました。それ以前から汚れた霊魂の浄化浄霊に幾度も下痢は体験していましたが、もうそんな浄化浄霊の段階ではないのです。尋常ではあり得ない下痢です。

            それを救ってくれたのは、龍神をコントロールするだけの力を持っていた言霊師で当時の2番目の師匠でした。私の胎内から黒海黒龍神を出してくれたのです。もし、その師匠が龍神をコントロールするだけの霊力を持たない霊能者であったならば、私の最初の師匠が後に私に【黒龍神の浄霊だけは絶対にしてはいけません。そんなことをすれば命を失います。よくても病院送りです。】で言ったことになっていたわけです。

            いったいどこから自分の腹にそうした便と成る汚物が入って来るのかが謎となりますが、それらは霊的世界から肉体に入って来る汚物です。霊界からこの世への汚れた物質移動です。こうしたことは本当に霊能者と言える方達は霊的には知っておられます。人の目には見えない霊界の汚れを、この世の肉体がある者が始末をするなのです。

             

            そこに、人の肉体は霊魂の汚れを取る器官(期間)があるのです。肉体が死ぬ迄です。

            人は魂浄化に、人(霊止)としてこの世に生まれ出る

             

            魂を汚した人の魂を浄霊する時、その浄霊対象者がトイレに入られると大量の下痢をされますが、だいたいバケツに半杯もの便が出るとされます。医学的にはそんな大量の便がその人の体内のどこにあったのかとなりますが、それはその人の魂が霊的世界での汚れを肉体に運んでいるからなのです。

            自分が霊媒体質だと知らない間は、どうして自分はこんなに下痢をするのかが解らないがあります。しかし、貴方は霊媒体質ですよと誰かから指摘されたならば、自分が誰かと遭遇した時、その人から霊的な汚れを移されたことが解って来ます。

            トイレの夢をよく見る方は、それは自分が霊界の浄化浄霊に関わっているからなのです。その時、美しいトイレの夢は数が少なく、そのほとんどはおぞましいほど汚いトイレを見ているでしょう。その汚いトイレとは、この世が汚れていることを夢に見るのです。今の世がどれほど霊的に汚れているのか、知る方は数少ないと言えます。

             

            霊界からこの世に物質として送る時、それを運ぶ力を【龍神(流神)】と言いますが、汚れた龍神(黒龍神等)の浄霊は困難を極めるのです。魂が肉体を持つ意味は【霊的汚れを浄化させる】ことが目的なのです。私達の魂は、【この世で遊ぶ為】に生まれ出ているのではないのです。

             

            みろくの世において、人の魂は【五次元界以上】に進むとされますが、その時には各自の魂に対して【大祓】と呼ばれる浄霊が実施されます。その大祓の実施以前は魂の浄化として【便による下痢】とか【口から汚物を吐く】等があるのです。霊媒体質者が霊的に汚れた肉体の人に遭遇すると、吐き気を催すのはその為なのです。

            こうした浄霊で下痢をすることは霊媒体質者であるならば誰しも経験をしているはずなのです。ただ、どうして自分は下痢をするのだろうと不思議に思う程度で終わっているのです。それはそうしたことを説明している宗教そのものが存在しないからです。ほとんどの宗教の開祖には霊能力があっても、その後を継いだ後継宗教者は霊界の実相に疎く霊的世界のメカニズムを知らないからと言えます。

             

            それが、【便所】は【人の魂の更生】場の言葉に繋がる

             

            霊媒体質者が他者の魂の汚れを受けると、トイレに走って下痢になることは、本当に霊的世界に関わっている者ならば知っています。本来はその魂の服である本人の肉体がしなければならないのに、その肉体は自分がすると苦しいので霊媒体質者に憑依してその肉体を借りて、自己の魂の汚れを浄化するなのです。寄生虫的やり方ですが、霊界では魂の浄化をしないと、その魂自身が汚れから苦しむなのです。

            私自身は、そうした自分の魂の汚れを他人に押しつけて平気な顔をしている方を多数見て来ました。その肉体は表面的には善人に見えていても、裏たるその人の魂は自分の肉体で汚れ(悪)を浄化せずに霊媒体質者に押しつけるなのです。為に、私は表面善人などは一切認めていません。と言うよりも、各自の魂には点数が出ますので、表面的にはいくら善人面をしていても逃げ隠れなど出来ないのです。

             

            何故に霊は人(霊媒体質者)に憑依するのか?

             

            魂の世界で自己の魂の汚れで苦しむからです

             

            最後の審判は、何故に【火の審判】と呼ばれているのか?。それは魂の汚れを【業火】で焼き尽くすにあるのです。火をもって、魂の汚れを焼く。その【業火】のことを【天の岩戸開け】と呼んでいるのです。天の岩戸から【天照大御神】様が出て来るという話ではないのです。

            私は最後の審判の実行者ではありませんので、私自身もその光(火借り)の業火に焼かれてしまう者かも知れません。だが、私は自分の過去の罪から逃げる気はありませんので、最後の審判時はどの様な処分を天から受けても厭わないと覚悟はしています。

             

            全ては主(創造神)のご御心のままにです

             

            悪の亞は、主の神を【墓】に葬った者の心の意で

            創造神から見ると善悪は無いと言う論調は間違い

            創造神を認める者が善で、創造神を認めない者が悪

             

            一部の方のブログには世の大立替時に黒龍神が活動する等と書かれていますが、確かに、大本教の出口王仁三郎聖師が活動された頃は黒龍神が軍神として活動していた戦争の時代であり、黒龍神の力を必要としていた時期でもあります。それは出口王仁三郎聖師が統管となって組織された【昭和神聖会】の副頭管に内田良平(黒龍会主幹)を置いたことからも解ります。しかし、本番の時は、悔い改めない汚れの黒龍神は全て天の神軍による【成敗対象】で、みろく世に進める黒龍神等は汚れの黒龍神から脱却しない限り、一体とてみろくの世等には入れないのです。

            ただ、汚れた黒龍神で無い本物の美しい黒色の黒龍神は存在しますが、非常に次元が高い存在なので汚れの六次元黒龍神を仰いでいる段階では、その高次元の黒龍神の存在を見ることは無いなのです。

            ですから先見の目がある汚れの黒龍神達は、地底王国の建設に躍起なのです。私はこうしたことを特定の神から教えられたではありません。自分が神霊世界に関わっていて、幾多の霊能者と呼ばれる人達から得た来た情報なのです。

             

            大本教からは国常立尊(艮金神)は悪神達からその座を追われたと出されました。その座を追ったのは汚れの黒龍神等に憑依された時の神々です。艮(ウシトラ)金神の意味は、自分は強制的に悪神から退かされたの「艮」の意味です。

            その艮金神からの降りたと云う神示文に、善も悪も無いなどの内容があれば、その神示はおかしいと気づく必要があります。ほぼ、艮金神とは何の関係も無い神霊が似せた書いた文だと解って来るのです。悪(惡)の漢字を見れば、そこに本当のことが書いてあるからです。悪の亞は、主の墓を意味しているからです。そうしたことが言葉の仕組なのです。

             

            私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、私に【私はこの神だけを唯一の神とする者達は永遠の神の世に救おう。永遠の嬉し嬉しの世に渡す。だが、この私を唯一なる神と認めない者達とは、永遠の別れとなる。】と告げられたのです。

            その唯一なる神の教えは、大本教神諭に【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】として、誠の者が紐解くと予告されて来たなのです。その九つ花を紐解くならば、そこにその【唯一】の意味が出て来ます。それに従えない者達とは永遠の別れなのです。

             

            悪の【亞】は主を墓に葬った者の心の意味で、何をしても神の愛で赦されますと説いているような者は一人として【みろく世】には進めないのです。

            みろく世に向かう立替とは、今の世に出ておられる神々の神力に頼るではないのです。ただ、国常立尊様に自分を使ってくださいと頼み込んで来る神霊だけは使ってもいいなのです。そうした神達だけには神界の御用をさせるなのです。

            私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、全神々が束になってもこの私の神力には勝てないと告げられたのですが。それが事実であれば、どこどこの神様がと言う話ではないのです。

             

            私が初めて伏見稲荷山に上がった時、豊受姫の神は【貴方は言葉の神と呼ばれる貴きお方で、貴方の言葉の教えは天帝の【詔】と同じであり、如何なる立場の神であっても貴方の言葉による教えなど聞けぬと言われるのであれば、天帝により反逆罪として処罰されると告げられたのですが、大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を紐解くならば、そうしたことも考えられると言えるでしょう。私はある意味、天下の【印籠】を見せているのです。

             

            人の魂の【核】には天帝の「直霊」が宿ります。その働きは【人の良心】を司っているとは言われていましたが、その核の火の働きを閉めてあることを【天の岩戸閉め】と言っているのであり、大本教と呼ばれる宗教が起きて来なかったならば、私を含めて何人も意味を紐解けなかったなのです。

             

            最後の審判で、主の神は【墓】を暴くとも言いますが

            各自の魂の核の中に【創造神の分魂】は宿り、主は墓から目覚める

             

            惡は主の存在を墓に葬っている間の心

            主には善悪が無いではなく、主の存在が理解出来て来ると各自の良心神に従って善悪が別れる

             

            その時に主を見る者は、永遠の神の御国へと向かう

             

            その時節は刻々と近づいて来ているとは云えるのです。私に俺の守護神も見えない様な段階で偉そうなことを言うなと方達もありますが、私はそうした霊達が誰かと見る立場の者ではありません。私は創造神と呼ばれる神だけを神としている者なのです。自分の金儲けや人気とりの為にブログ記事を書いているのではありません。一人でも早く世の立替が起きる可能性に気がついて、神の御国行きの準備をしていただきたいだけです。

             

            新しい世に向かうことに気づく人が少ないから、創造神は立替を先に先に延ばされるではありません。人々の気づきを待っていたならば何時まで経っても世の立替などは実施出来ないでしょう。永遠に不可能とも言えます。それでは時間的に地球と言う星が持ち堪えられないからとなります。この地球にそんなに時間の余裕などないことぐらい、解る者であれば身に染みて感じているはずなのです。

            そこに万物の創造神は、新しい地球に人類は移行すると告げられたのです。

             

             

             

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