贖罪と地獄の沙汰も金次第の同一性。罪を代償で払う祓いの償い。地獄の沙汰も償いしだい

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    キリスト教では【贖罪(しょくざい)】が説かれます。贖罪の本来の意味は自分が犯した罪に対して【償い(つぐない)】をするですが、その償いを「金銭」に置き換えて払う意味です。

    しかし、キリスト教では重大な過ちを犯してしまいました。この自分が犯した罪の償いたる「贖罪」の意味を間違えて、ナザレのイエスは「キリスト」で、イエス・キリストが十字架の上で犠牲になったことで人類の罪が贖罪(赦)されたです。

    それならば、全ての人類の罪はイエスによって赦されることになり地獄界など存在していないことになりますが、私達の目には見えないけれども地獄界は厳として存在しています。イエスが出て来たからと言って地獄界が消滅したなどはないのです。イエスを創造神の御子と仰ぐキリスト教徒は地獄に墜ちていないかとなりますと、いくらでも地獄界に墜ちています。

    一部の牧師は【贖罪】の言葉の意味をよく理解されていて、キリスト教会に金銭を寄進することが【贖罪】だと言われています。それならば「言葉」の意味合いとしては合っているのです。それは【償い】の必要性を理解しているからです。しかし、そこから先の理解が足りていないと言えます。

    償いを終えた人は【賞】される。償いを終えて天国へ
    誰かに罪の償いを被せて天国界行きはないのです。


    私は全ての地獄界の見聞までは行きませんでしたが、幾つかの地獄界と呼ばれる世界の存在は見ました。まさに奈落の底と呼ばれる暗闇で降りても降りても降り着かないで、見聞を諦めた世界もありました。それは無間地獄でなく【無限】地獄であったのかも知れません。

    そこにあるのは、ナザレのイエスをキリストを認める者は天国で、異教徒は地獄に墜ちるなどと言うキリスト教の論理などどこにもないのです。
    大本教の出口王仁三郎聖師は、【地獄を覗けば、牧師や僧侶で一杯だ】と記しておられますが、この【宗教家が神仏を説きながら地獄界に墜ちる】意味があまり理解されておりません。

    ネット教祖で知られる方が、そのブログで【日蓮さんは地獄界に墜ちている】と説かれておりますが、確かに地獄界を覗けば日蓮さんを見えるはあるでしょう。だが、日蓮さんの場合は地獄界に墜ちられたのではなくて、自分の教えを信じた宗派の僧侶達の救いの為に地獄界に赴きその身を置いておられるです。それは地獄にその姿を見られても墜ちておられるではないのです。
    それはナザレのイエスにしても同じなのです。イエスを「キリスト」だと信じて地獄界に墜ちているキリスト教牧師達の罪の償いの為に、自らが地獄界にあるなのです。


    元々、キリストとは【真理】の意味であり、【言葉(ロゴス)】を指しています。だが悲しいかな、大本教神諭が予告した「九つ花」を見るまでは、お釈迦様以外には誰も【真理】に到達されていなかったと言えます。「九つ花」と言う日本語の言葉(ロゴス)の仕組みでしか、真理は解明されずに消されていたと言えます。56億7千万の「みろく」です。

    また、一部の神智学・霊能者の間では【識界】が語られますが、お釈迦様は第七識界。イエスは第五識界。弘法大師さんは第四識界と言われており、【識界】的にはナザレのイエスが【キリスト】であった等がそもそも存在していないのです。
    大本教の出口王仁三郎聖師が、「自分はナザレのイエスに何一つ負けていないと」述べておられますが、識界レベルで言うとそうなるのでしょう。

    私の以前のブログに贖罪の【贖】の字の意味を出しましたが、財(貝)で売り買いするのが【贖】で、財で罪の売り買いをすることを【贖罪】と言うのです。その時と同じ絵を再度出します。



    この場合、その罪を金銭と一緒に受け取った宗教家は、その罪の【償い(カルマの消滅)】をしなければ自らが地獄界に行くことになります。ですから、大本教の出口王仁三郎聖師が言われる地獄界を覗けば牧師や僧侶で一杯だとなるのです。
    つまりは金銭を受ける代償として、その罪の【償い】をその宗教家がしたかどうかなのです。自分の私服を肥やすことだけをしていた宗教家達は、当然に地獄界行きなのです。
    いくら自分は神仏に仕えていたと言い訳しても、ではその【神仏】の姿を見よ!、と見させられた時、そこには蛇や狐や狸等が踊っているのです。それは天使と名乗っていても同様なのです。

     

    私の最初の師匠は豊受の神のお代(寄り代)で、その著書に「自分は神様は蛇や狐だと思っています」と書いていますが、今の神霊界の様が解っておられたのです。そして、豊受の神はその師匠に命じてその本を書かせたのです。それが何を語るかなのです。豊受の神その方が神霊の姿を「告発」されたのです。


    宗教団体を主宰して、お釈迦様の再来として君臨していた某教祖が金銭に絡む脱税事件で刑務所に入りましたが、私に見えた光景はその教祖は死後はマグマ(地獄)のお釜の中に放り込まれるでした。
    それはその教祖も自覚しており、自分は死後に信者を道連れにしてマグマ(地獄)のお釜の中に入ると言っておりましたが、どうぞお好きにとしか言いようがありません。ここの信者はもう完全に盲目の信者と化していたからです。

    この教祖の下には幾多のスピリチュアル霊感者がゴロゴロしていましたが、スピリチュアルだとこの教祖の【光】だけが見えていて、この方はお釈迦様の再来だ!。それ以上のものが見えていないのです。死後に地獄界に行って、臍をかむだけになってしまうでしょう。その信徒達が見る教祖の光とは、とても高次元の光ではありませんでした。
    道理で考えれば、お釈迦様の再来と思われる者ならば金銭絡みで刑務所に行くなど考えられないでしょう。そうした道理すら通じないのが霊感スピリチュアルで、低い「光」の存在に欺されて行くのです。


    カルマを残すほどの罪の償い=代償で罪の支払い

    神社でのお祓いとは、霊的なチリや汚れの類いの【祓い】であって、自分の未来に向かうカルマと成る様な罪の償いの【払い】は出来ないのです。

    自分の過去からの罪の償いの【払い】と、霊的なチリ汚れの【祓い】は別物なのです。


    その「贖罪」と同じ意味が日本では、【地獄の沙汰も金次第】となるのです

    日本ではこの【地獄の沙汰も金次第】を聞いて、閻魔大王様の裁判とは「賄賂」で転ぶのだと言っているような輩達がいますが、言葉の意味の理解不足と言えます。つまり罪の代償たる【償い】をしたことで、罪を減じるなのです。
    これを大衆レベルの知恵まで落として行くと、【貧しい人達に施す布施】となるのです。


    そうした布施として、公共のボランティア活動や世の為人の為にと働く、誰もが嫌がる自治会の活動や【社会福祉に寄進】や【貧しい人達に施す】を実践すると、自分の過去の罪は減じられて行くのです。これが本来の【地獄の沙汰も金次第】なのです。

     

     

    そこにはスピリチュアルの神の愛で何をしても赦されるなどはないので、そうした教えは【蛇教】とされるのです。


    米教が【世根】となれと説くのは、そこにあるのです

    誰しも金持ちになる為には「悪」に手を染めます。何の悪も無しに金持ちに成れたら問題はありません。しかし、悪で金持ちに成っても、その金を【世の為・人の為】に差し出せば、その罪を軽くすることが出来ます。金持ちほど出せる金額が多く、より多くの人を助けることが出来るからです。
    金持ちは【社会福祉や貧しい人達に布施をする】でその罪は減じられて軽くなりますが、その金を出せない【貧乏人】はどうなるかがあります。それこそ貧乏人は罪なのかです。そこにお釈迦様の【貧者の一灯】の教えがあります。

    決して貧乏は罪ではありませんが、酒・ギャンブル・贅沢で借金を踏み倒したなどでなった貧乏は罪人として行く先は地獄界で、貧乏そのものが原因ではなくて、遊興に溺れて【自己の魂を堕落させた】ことが罪として問われるのです。
    それは地獄界に墜ちた人には何の【覇気】が感じられないからです。【覇気】が無いから、酒・ギャンブルに溺れ、借金を踏み倒すことも何とも考えないなのです。前回のブログでも出したように、【真人間】として生きて来なかったことからです。

     

     

    金はなくても、【世の為・人の為】にと働いた人は天国が待っているのです(世根)

     

    そうした行動は「牛と羊の血の捧げ」で【犠牲】と言い、神の祭壇にと上がる

     

    犠牲は金では買えないので、金銭の償いよりも高価な働きなのです


    今日までの世は、世のシステムとして【貧乏人】を創りだして来ました。為に、悪をはびこらせるともなりました。

    この悪を生み出すシステムは一度破壊させて、新しいシステムに造りかえの創造をしなければなりません。しかし、それは既存の神々では無理なのです。

     

    一度、この世を破壊して、新しい世が創られる

     

    破壊から創造への道は【宇宙大王】による

    これまでの世は貧乏を生み出したが

     

    みろく世に貧乏はない


     

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    神の愛でなく【悔い改め】でないといけない理由。人は変わることが出来る。変わらないといけない

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      イエスは【悔い改めなさい】と説きましたが、スピリチュアルの世界では「愛」ばかりが言われます。神智学ではスピリチュアルの「愛」ばかりの教えは【蛇教】の論とされます。何故なのでしょうか?。

       

      よく、人は変わることが出来る。変えることが出来ると言います。確かに、現実にそれまで堕落的や悪的な生き方しか出来なかった人が、【心を入れ替えて真人間になった】等があります。


      心を入れ替える=真人間になる=辛抱(心棒)が出来る

      では、私達はその【心を入れ替える】。辛抱が出来るの意味を根本的に理解していたかと言えば、その意味を深く理解していなかったと言えます。
      心(魂)とは医学とか科学でその存在を物理的に証明するなど出来ません。心(魂)はレントゲン写真に写らなければ、体重計でも計れないからです。
      その私達の目には見えない心(魂)を入れ替えることが出来るのかとなりますと、入れ替えることは出来るのです。


      その意味を知るには、【霊媒者】の存在を知らなければなりません。単なるスピリチュアルの霊感では、それを知るまでには行かないでしょう。霊媒者は魂が肉体と同一体ではなくて、肉体とは別の存在であることを教えて来るからです。輪廻転生をしているのは肉体に非ず、魂だからです。

      私は前回のブログにおいて、偶像と人(霊止)の意味。人(霊止)は魂のお人形を書きました。だが、それをどれだけの人が理解しているかとなりますと、理解している方は少ないと思います。
      人はどうしても難しいことよりも安易な方向にと流れて、【真理】を知るよりも、スピで言う「グッズ」さえ大金で買えば幸せになれると勘違いします。スピリチュアルの世界では「カルマ」の怖さが希薄だからです。
      逆に私は「カルマ」の恐ろしさを見て来た者と言えます。神の愛で「カルマ」は消滅しないで、輪廻転生の各人生においてカルマの災いがその各人生にのしかかって起きているからです。カルマの解消が急がれるのです。

      神の愛で魂の【カルマ】は消滅しない。神の愛でカルマが消滅すると言う霊ならば邪神霊

      だから、そんな事を言う霊は元は人霊であっても蛇や狐や狸や猫の姿に身変えるのです。自分達がそうした姿になっている理由すらそれらの霊は判っていないのです。

      私は豊受の神の元で修業をさせてもらいましたが、豊受の神は一度も神は愛だと口に出されませんでした。聞かされたのは信仰することによって信仰者の因縁(カルマ)の糸の絡み合った糸を解きほぐして、解きほぐせた因縁(カルマ)の糸のみ切断するです。
      この世では因縁(カルマ)を持った者達が絡み合うので、因縁(カルマ)と因縁(カルマ)の糸はどうしても絡み合ってしまうのです。

      この世でいくら幸せを願っても、過去からの因縁(カルマ)の糸が自分に襲いかかる。その因縁(カルマ)の糸の切断なのです。絡み合っている者の糸を解きほぐすには正しき信仰が要るのです。

      それらは私が神霊界修行を積んでいる中で、優秀な霊媒者達と出会って来たから解る事柄です。その優秀な霊媒者とは、スピリチュアルレベルで自分には大天使等が語ると言う人を見ていても解ることではありません。
      霊能者の看板を上げている方でも、どなたも優秀な霊媒者を欲しておられます。単にスピリチュアルの霊感者ではなく、その霊媒師が勤まる方ともなれば極端に数が少ないのです。まして高級神霊を降ろせる方ともなればその数は限られて来ます。低い霊格の魂を持つ霊媒者に高級神霊を降ろすことが出来ないからです。

      霊媒に入った蛇霊や狐霊や狸霊が私は天照大御神ですと名乗るのを、ハハッーと土下座して頭を下げて、その言葉を聞いているわけには行かないのです。霊媒を勤めている人のお尻に霊的な大きな尻尾が出ている。そうしたことを私は見て来たからです。

      魂の霊格・神格が低い霊媒者に高級霊は懸かりませんし、無理に高級神霊を降ろすとその霊媒者は発狂したり精神異常に追い込まれてしまいます。精神病患者とスピリチュアルが紙一重なのはそこにあります。
      チャネリングと呼ばれるものは、本人は高級霊と自分は会話していると錯覚状態に陥ります。テレパシーで霊と語るなど、自己妄想でも出来る話なのです。

      私も修業時代は自己妄想と呼ばれる範疇で、自分は神霊と語り合っているのだと思っていた時がありました。途中で自己妄想に気づきました。自己妄想に気づくと今度は何も出て来ません。それは自己妄想の範囲だから誰でも出せたのです。当然にその会話は「テレパシー」となります。自己妄想による霊との会話は自己の知識の範疇のみで、それ以上の知識は自己妄想からは出ないのです。
       

       

      サニワの手法として、誰でも解ることは聞いてはダメなのです。その霊媒者の人の知識には存在しないであろう知識をその霊がどれだけ持っているかです。大本教開祖の出口なおさんは無学で知られていました。それに文盲でした。だからこそ、そこに出て来た内容は本人の知識ではなく、懸かった神霊の知識と言えるのです。
       

      学者筋は、神霊は無知無学の者に懸かって、自分達のような賢い者に霊が懸からないとはおかしいと言われますが、知識が豊富な賢者に霊が懸かったら、その霊が何者かを見破ることなど出来ません。誰がサニワが出来ると言うのでしょうか?。無論、賢者に低級霊など懸かりようもありません。低級霊に動かされていては賢者などに成れないからです。

      仮に賢者に霊が懸かったならば、その賢者を越える知識を持った者で無いとサニワは出来ないのです。自分の前世はお釈迦様だと名乗っている方は後を絶ちませんが、簡単に見破れます。その人にお釈迦様ほどの賢者のかけらもないからです。
       

       

      その霊媒者を「完全霊媒」型と「半完全霊媒」型に分けることが出来ます。完全霊媒者は、自分の肉体を霊に貸している間は本人の心(魂)はその肉体には居ません。その間は別の世界に行っているのです。それは自分の心(魂)が肉体から離れて、違う世界に行っているのと同じ事です。
      それに対して、「半完全」霊媒者は自分の肉体に留まっていて、自分の肉体の口を通じて他者の霊が語ることを横で聞くことが出来る為に、自己の主観を肉体が一緒に述べて来るが起きるのです。これはサニワ者(審神)泣かせで、サニワ(審神)をしていても霊媒者が同情心からその霊に都合の悪いことを言わないがあるのです。
       

       

      どの霊能者でも完全型霊媒者を欲するのは、その霊の言葉を純粋に聞きたいからです。霊が発する言葉はテレパシーとして受け止めることは出来ますが、テレパシーの言葉は完全でないからです。言葉の受け取り間違いも起きるからです。
      そこに言葉を文字にしたためるお筆先の意味もあるのです。お筆先ならば個人の主観が入らないからです。霊媒者を通す方が霊が話す詳細を確実に掴めるのです。その為には優秀な霊媒者が要るのです。テレパシーはある意味、信用はおけないのです。

      では、完全霊媒者は自分の肉体を他者の霊に貸して自己の肉体に帰れるのかとなりますと、人は【霊止】である以上、その肉体には守護神霊とかが留まってくれているので、その点に関しては心配はないのです。完全霊媒者はかなり神格とか霊格が高いので、その肉体を守護している霊の神格も霊格も高いからです。

      極端な話として、テレビ番組などで肉体の魂が入れ替わって、夫婦とか親子を演じるなどがありますが、それは不可能なのでなくて論理的にはあり得るなのです。それに似た症状として、他者の霊がその魂を食い破って成り済ますがあります。

      自己の魂が肉体を持って生き続けるとすれば、他者の魂を食い破ってその肉体の魂となり、その人に成りきるです。それ自体は空想論では無く、現実にあるのです。私の見聞にはそうしたものもあります。では、その人が持っていた固有の知識はどうするのかとなります、肉体の脳に知識は蓄積されていますので、その人に成りきれるのです。

      また、一度死んで蘇り(黄泉帰り)には、他者の魂ではなくて自己の魂の別の魂がその肉体に入るなどもあるのです。同じ魂の別魂が肉体に入った時は、それまで肉体に存在した魂と微妙な違いが起きます。それで人が変わったのではないかの疑念が起きるもあるのです。それらも各種の事例があります。

      霊的世界は自分の主観で語るのではなくて、より多くの事例に接して来ないと狭い範囲に住む霊達に欺されかねないのです。
      その為にも、非常に優秀な霊媒者はどの霊能者ものどから手が出るほど欲しいのです。そうした霊媒者を巡って霊能者間での争奪戦もあるのです。


      私の最初の師匠は当時、豊受の神の専属お代(寄り代)としては日本一とも言われておりましたが、その師匠の元にその師匠が自分と同格だと言わせる霊媒者が存在しておりました。気がつくと、その肉体に神霊がいつの間にか降りているで、その霊媒者を通していろいろと学ばさせて頂きました。こんな人が自分の側に居たら、霊的世界がどれだけ学べるか測り知れないところがありました。

      人が変わるとはその魂そのものが違う魂と入れ替わるのは珍しいのですが、人は「霊止」である以上、いろんな霊の守護や憑依によってその「意識」が形成されて行きます。
      その憑依している霊が剥がされて行くと、その人の「意識」は変化して行きます。そこに人が変わった。悪行をさせていた霊が去ることによって、元の魂が輝きを戻して【真人間】となるがあるのです。逆に悪い霊に憑依されて行くと、悪事に走るのです。

      イエスは【悔い改めよ】と説きました。自分が「悔い改める」ことによって、自分に憑依していたような霊は自分の元から去って行くからです。そして「悔い改めた人」は変わるのです。


      何故ならば、魂の【心棒】たる「杭」が改たまないからです

       

       

      良心の働きを失った腐ったような心棒(杭)は、

      杭新(悔い改)ためにしないと新しい良心神が出て来ない

      何故に真人間になれば、【辛抱】が出来るのか?
      それまでの【心棒】から、新しい【心棒】になっているからです
      魂の【心棒】は、各自の【良心神】の働きいかん
      最後の審判は、各自の良心(心棒)神が判定される


      確か大本教神諭には、【改心ほど素晴らしいものはない】式の記述があったかと思います。それはイエスが説いた【悔い改めなさい】と同じ事です。


      イエスの悔い改め=大本教神諭の改心

      同じ意味であったことを理解すべきです。

      大天使長ミカエルが自分にこう言ったではなくて、日本国中に溢れている【日本語の仕組み】を見れば、創造神の教えは解るのです。

      【身(み)変える】は、一人一人がする作業です

       


       

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      点と線を結ぶ偶像禁止の意味合い。人は「霊止」なるが故に諸々の霊の意識に支配される。人は霊の御人形

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        日本の神智学では「人」のことを【霊(ひ)止(と)】と言います。その人たる肉体に【霊(ヒ)】を【止めて】いる存在の意味です。すなわち人の霊止は【霊魂の容器】の意味なのです。肉体はその霊魂の【服】と言えます。


        一般的に節分の夜、多くの神社仏閣では【鬼は外、福は内】と唱えます。が、明治25年に発祥した大本教では【鬼は内、福は内】と説き、多くの人がそれを?、奇異に感じました。何故に「鬼が内」なのかです。

        大本教からウシトラ(牛虎)金神「国常立尊」が世に出された時、多くの知識人が大本教は綾部藩主であった九鬼神道の【宇志採羅(ウシトラ)根真】をパクったと見ました。この綾部藩九鬼家(紀州熊野本宮別当)で藩は【鬼は内、福は外】だったのです。鬼と云う魂は肉体の内であり、魂の服たる肉体は外とも言えます。


        この【霊止(ひと)】の言葉は大本教霊学から出されましたが、スピリチュアルだと西洋神智学ばかりに憧れて、日本語が持つ言葉の意味がまったく理解出来ていないとなります。ですから、創造神たる神の理解がなされていません。
        西洋の神智学では日本語と違って、言葉からそうしたことを基本として学べませんので、そんな論理すら出て来ないのです。

        私が霊界修行に入って間もない頃、就寝しようとして寝床に入ると、男の方の声で歌が聞こえて来ます。

        【私の人形はよい人形。見かけはどの神様の人形よりも悪くても、私の心を受け継ぐよい人形。私の人形はよい人形】と童謡の「人形」の様な節回しで歌って来たのです。
        そして私の目に見えたのは私が人形のようになった状態で、180度ぐるぐる回されている映像でした。私はその声の主の【人形】にしか過ぎないなのです。魂にとって「人の形」は肉体が死ねば終わりです。その後は本来の霊魂となるのです。

        だが、私がその声の主の【人形】であったとしても、その【人形】にも自我と呼ばれる存在があり悲しみも苦しみも喜びも味わうのです。魂の服にも自我たる心があるのです。
        これを仏教的に言いますと、物質的人間に存在するのは人形たる【自我】であり、その人形を動かしている存在が【本我】とか【真我】と呼ばれるのです。ですから自我を捨てないと、本我とか真我には至らないのです。これを理解していないと、いくら【神人合一】と叫んでも、違う霊魂の容器となりかねません。動物霊の容器と成り下がった人の姿の人間です。

        この理論は仏教が優れている面なのですが、日本の僧侶でそうしたことを説けた者が居るかとなると居なかったなのです。ですから小難しい仏教論を振り回すになってしまったとも言えます。


        新神道において【神人合一】が出て来ましたが、それも言うならば仏教の自我から去って、自分の本我、真我に至るのと同じ意味合いなのです。そこに出て来るのが自己の魂の本体たる正守護神、本守護神であり、単に守護神とする信仰神とは異にします。霊の存在を知る意味合いでは、新神道の方が理解しやすいがあります。
        スピリチュアルで天使だハイヤーセルフだと言っているでは、何も理解出来ていないなのです。

        私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、【そなたにはボロ服(外見が人より劣った肉体)を着させる。されど、そなたには私の心を授けた。そなたの価値を外見で判断する者はそれだけの者でしかない。外見のそなたではなく、そなたの心が解るような者でないと、この私を見ることが出来ない】と告げられたのです。


        それはイエスが説いた【私を見て父を見よ】ではないのです。イエスを見て、父たる神を知るなど不可能な論理です。どれだけ肉体に神力があろうとも、「父」と呼ばれる様な存在とは魂が月とスッポンほど違います。それでは魂の規模が解らないのです。肉体を見てその存在を見ることなど出来ないのです。不可能な論理なのです。
        ただ、その「心」は共通しているのです。イエスの私を見よでは、その外見を見させている為に神が実に小さき存在となってしまうのです。

        私は私の前に出て来たイエスの様な霊に対して、それが本物であったのかニセ者であったかは解りませんが、私はその霊に【あなたは道を間違えた】と告げました。

        私が霊界修行の中で、ある神霊から聞かされたのは【あなた様は天帝が使用出来る肉体として育成されている存在で、貴方の肉体を諸神が使うことは出来ないようになっています】と言われます。
        私が2番目の師匠のところに居た時、その師匠の為に働く霊媒者不足で、私に霊媒が出来ないかと私の肉体に霊の卸しを試みたのですが、ことごとく失敗しました。霊を私に懸けて口を切らせるが出来ないのです。諸神・諸霊の段階では私の肉体を支配出来ないなのです。
        私はその当時、その師匠から歩く【浄霊マシン】と名付けられましたが、私の肉体に懸かった霊達を浄化浄霊してしまうので、霊媒者の様に霊を懸けてその霊の意思を言葉として聞くことが根本的に勤まらないのです。要するに霊能者としては失格でした。

        私達の肉体とは、「一つの魂と多数の霊」との集合意識から成り立っています。一つの肉体に二つの魂が入っていると「精神分裂」ともなります。また複数の強烈な霊に肉体が支配されると「多重人格」も起こしかねません。それらは希なケースであり、大多数の人の肉体には一つの魂を持ちます。
        その魂以外に、その魂や肉体を守護している霊が存在して来ます。それらは守護霊とか先祖霊とか背後霊とか憑依霊とか各種の呼び方がなされていますが、外から来るので【外在神】となります。

        それに対して正守護神とか本守護神は自己の魂の元となりますので【内在神】とも成って来ます。

        そうした外から懸かって来る霊がどのくらいの数かとなりますと、神霊の取次をしている方や神霊的世界に関わっている方ともなれば万単位から数千体とか数百体ともされますが、そうした霊の関わりが少ない方だと6〜7体だの説もあります。だが、ゼロはあり得ないのです。ある方は霊感者からゼロだと言われたと言われましたが、そんな霊感者は霊能者ではないのです。

        人が霊を見るのは、自分に懸かっている霊を通して霊を見ているのです。だが、それが霊能者だからと言って、全ての霊が見えているではないのです。そんなものが全て見えていたら、人として暮らせるものではないのです。
        霊そのものは霊に憑依とされることから見るのであって、霊的な物が見えるだけでは憑依している存在が低いと、正しいものを見ているではないのです。


        実存の人に霊(0)を掛ければ、0(霊)の世界に入る

        こうした「言葉と数学」で説明が出来ることは幾度も述べて来ましたが、それすら無視続けるであれば、天からの救いの道は閉ざされます。自分では天国に案内されていると思っても地獄に御案内ともなりかねないのです。

         

        スピリチュアルで宇宙司令官から、宇宙連合とか宇宙評議会からのメッセージとされるものは各種出て来て予言されましたが、今日まで何一つ当たった試しもありません。その手のブログは1〜2年で大多数は消えてしまいます。デタラメのメッセージに気づく日が必ず訪れるからです。
        それらは宇宙司令官でもなければ宇宙連合評議会の議長でもないからです。霊の言葉に操られて自分が踊らされただけのことなのです。


        霊界からのデタラメのメッセージが許されているのは
        【嘘を叩いて誠の骨とする】天の仕組み上からです


        そうした霊の存在の証拠立てとして、多数の霊が憑依している為に精神不安定の方が居られます。そうした方に憑依している霊を一体一体を剥がして行くと、その人の本当の魂が出て来ます。
        精神分裂とか多重人格などの精神症状は、人が【霊止】であることから起きて来る問題でもあるからです。

        だが、それらを霊能者が解決できるかとなると出来ません。何故ならば、神霊と呼ばれる立場の存在であっても、その魂の【過去世の罪(因縁・カルマの業)】を取り除くことはかなり困難で時間がかかるからです。

        スピと呼ばれるセミナーなどにいくら参加しても何の解決にもなりません。カルマを消すのは本人の神に対する信仰心や罪の償いたる行動によってのみ解消されるからです。自己努力が要るのです。スピを催している御本人が外から来る霊の憑依だけで、霊学の無知から脱却出来ていないからです。





        人が悪業をするのは悪業を喜ぶ霊に憑依されているからであり、人の魂の本来の姿は【完全無欠】のものだと言う考え方が存在します。論理的にはそうなのですが、だからと言って自分が犯した罪は全てそうした悪業霊の仕業によってしたことであって、自分には何の罪も咎も無いとはなりません。自分の魂を磨いておけば、そうした悪業霊に憑依されなかったからです。また人の魂には「良心」神と呼ばれる存在が天から賦与されているからです。自己に良心神があれば、その罪を逃げようとはしないでしょう。

        人は自己の中に【良心神】を確立しておけば、常に悔い改めに入れるからです

        そこに、自分の魂を磨かなかった罪。悔い改めしょうとしなかった罪が発生するのです。仏教用語になりますが、良心を備えないと自己の魂の本我・真我に到達出来ないのです。
        つまり自分の本我・真我を出すには、人は【霊止】であるが故に、自己に憑依して来る霊を祓いに祓い、清めに清めて行かなければならないのです。神社に言って祓い串で祓ってもらえれば、微細なチリやホコリ的な存在の霊は祓えますが、カルマまで解消できるではないのです。前世の罪が消えるではないのです。

        祓いたまえ、清めたまえで、神主にお祓いしてもらえば全て解決はないのです

        自己に【良心神】が働いて来ると低級霊は懸からなくなります。またスピリチュアルと呼ばれる低級霊界との関わりからも遠ざかります。自分はスピリチュアルと言うバカげた事に惚けていたと解って来ます。それよりも真面目に働こうです。

        スピのセミナーに大金や時間をかけているよりも、実際の神社に参拝している方がまだ霊的チリやホコリの類いは祓えるので有意義なのです。
        さらに自己の魂が向上して行くと、もはや神社や仏閣に鎮座される神霊は絶対神でないことも理解出来て来ます。本我・真我の中に創造神の存在を実感して来るなのです。

        聖書の【神は、汝と共にあり】だからです

        聖書では【偶像信仰】を禁止しています。それは、偶像も人と同様に【霊止】であり、偶像には霊が宿っているからです。私達の肉体が魂の「人形」であるのと同様に、偶像も霊の宿り木・依り代の人形となるからです。
        実際に仏像を見ていて、そこに本当は何が宿っているのか解るような方は非常に優れた一部の霊能者の方ぐらいで、一般的なスピ霊感では自分が何を拝しているのか解らないのです。ですから、そこに偶像禁止が説かれて来たのです。

        人は偶像化出来ても、創造神は偶像化出来ず

        イエスは偶像禁止を言ったと思われますが、キリスト教牧師によって自分自身が偶像信仰対象にされてしまったと言えます。お釈迦様も同様なのです。
        人は誰でも霊が見えるではありません。普通の私達の目には見えない霊の存在を説く為には、人の目には見えた形の【偶像】も必要があったとは言えます。

        私は【言葉】とは何かと知った時、それまでの神観は「百八十」度吹っ飛んでしまいました。もはや神社仏閣ですら、私の信仰対象ではなくなりました。私の前では既存の神々も単なる霊でしかありません。そこにあったのは


        神は言葉なり(言葉によって命は芽生えた)

        信仰は、人は言を仰ぎ見よ

        辰蓮文斥奸砲如攫┐型修后杪減

         

        そこに出て来たのは【言葉の仕組み】と言えます


        日本神道は曲がりなりにも、言葉を霊の依り代とするお札を出します。それらの神名は言葉の働きの意味であって、個々の存在の霊を意味しているのではないのです。

        霊に「礼(れい)」を持って拝するは必要ですが、その霊とは別に創造神を意味するではないのです。

        聖書における偶像禁止。それが何故だったのかは【魂】論に入っていれば、それらの点は線として繋がっていたと解ることなのです。

         


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        誰でも解るチャネリングのいい加減さ。貴方はチャネリングの「お告げ」を「サニワ」できるか!

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          私の元に一通のメールが届きました。私はブログ上、自分のメールアドレスは開示しておりません。
          何故、メールアドレスを開示していないのかと言いますと、私は霊能者をしている者ではありません。霊界見聞の中で「言葉の仕組み」を解説しているだけです。ブログに記事を書いて霊能相談者としてセミナーを催す為に自分の売り込み宣伝しているわけではないからです。

          霊能者でもスピリチュアルでも「言霊神」の存在を理解しているかとなると、若干名しか存在しておられません。世に出ておられる神々ですら、どれだけ「言霊神」を理解しているのかなのです。
          その方が受けているチャネリングがどれだけ正しいかは別として、ある方がチャネリングの発信元の霊に「言霊神」とは何かと尋ねたら、自分たちは「言霊神」からすると遙かに下っ端の神だと言われたそうですが、それならば下っ端でも未だ脈がある神霊とも言えます。言霊神とは何かと尋ねられて「ポカン」としているような神霊ならば脈などないのです。

          言葉の仕組みをされた神とは、チャネリングで降りる神ではない


          だが、ここまで神霊世界のことを書ける方となれば、困り事の相談に乗ってもらえればと、困り事に関するメールが山ほど来ることは予想だに出来ます。
          霊能者に相談して、高額な料金を請求されたなどの被害は後を絶ちません。そうした中で無料相談しているとなると山の様に相談が来て、自分の仕事に差し障りが出来て結果的にその場を閉められた方達もあります。

          そうした霊的相談事の中には、さほど意味がない「オーブ」写真を撮って、これを鑑定して下さいなどもあります。霊的社会が存在しているので、「オーブ」が写るなどは特別なことでも何でもないのです。光のシャワーにしても同じです。だが、写真に写ったで仰天して相談するなのです。
          ほとんどの方が霊的世界のことに関してほぼ「無知」であることは、既存の宗教の宗教家が霊界に無知であったことにも起因します。例えばキリスト教等ではエクソシスト(悪魔祓い)が出来る牧師は、何も出来ない牧師より下位付けとなっています。ローマ法王や枢機卿と呼ばれる様な高い地位の牧師ですら、神は説いても霊に関しては無知の塊だからです。


          人は自分が困っていると、ワラを掴むで必死に来られます。しかし、私にはそれを解決してあげる霊能力が無い者です。現時点では、私は人助けの神霊をバックに動いている者ではありません。
          私は「閻魔大王」様と深い関係があり、神々をも裁く権限を持つ「監察官(判官)」的要素の者ですが、私と直接に関わった肉体を持たない霊を助けることはありますが、その霊が関われる肉体がある霊は、その関われる肉体に助けて貰うが大原則なのです。その手の困り事は霊能者の方に相談しなさいなのです。
          ただ、私が推薦できる霊能者をと尋ねられると、昔は優れた霊能者の方がたくさん居られましたが、今は解りませんなのです。

          私は「閻魔大王」様と関わりがありますが、非常に強い霊能力を持った行者系の方が、私が「閻魔大王」様の名を出した時、「閻魔大王」の名を口に出すようだとモウ、ダメジャと言われたので、そこまで言うのならば「私の背後の存在を両目を開けてしっかり見なさい」と告げたところ、「光に殺される。お許しください」と私に謝りのメールが来ました。他の方に「あんな恐ろしい存在を見たことがない」と言われたそうです。

          私の最初の師匠は、貴方を見て、「こんな恐ろしい存在を見たことがない」と言われれば、それは本物の霊能者の方です」と言っておりましたが、まさか「光に殺される」と言うような光だとは思ってもおりませんでした。
          私はこの行者さんが並の行者さんではない。凄い行者だと思ったから、私の背後を見なさいと言っただけなのです。そうでない方にはそうしたことは言いません。私を霊的に視る力そのものが備わっていないからです。


          だが、まったく私宛てメールが出来ないのかとなると、それなりの努力をしていただければメールは届くようになっています。
          そうした努力をされてメールをくださった方には、私が解る範囲内ではそれなりの返答はさせてもらっています。

          そうした努力を積んで私にメールをくださる方にはそれなりの「敬意」を払わせて貰いますが、そうした中には多様な神様からの「お告げ」のメールがあります。特に多いのは大本教の出口王仁三郎聖師が予言された【みのか尾張の国の中から誠の女子】が自分ですと言われるメールです。
          その根拠はと尋ねると、【神様】から自分がその女子だと告げられたが多いわけです。その数は一桁の騒ぎではありません。実に多いのです。だが、大変申し訳ないのですが、そうした名乗りをされた方で豊受様のお代(取次)をしていた私の最初の師匠を超えていた方は見られません。その師匠と比べると遙かに格下なのです。それでは大本教の出口王仁三郎聖師さんが予言された誠の女子には力不足としか言えません。


          こうした【神様】からのお告げとは、スピリチュアルで自分にマスターが降りる。マリアが降りる。大天使長ミカエルが降りる。大天使カブリエルが降りると、何等変わりはありません。
          私のところにその【お告げ】の内容を送る前に、どうして自分でそのお告げの中味を吟味しないのか?。吟味すればおかしいと気づく内容がほとんどなのです。

          私の元に送られて来たそうしたメールの一つで、そのメールの送り主さんのことは当然に伏せますが、私のブログの読者の方はこのメールを見て、即座に判断が出来るかどうかの問題として出しましょう。


          ある意味、お告げと呼ばれるチャネリングの危うさが解るからです。

          *********************************************************
          私の元に送られて来たメールの原文の写し。

          あまのみなかぬしの神からお話があります

          拝啓
           この度は神の言葉を発する者からメールしております。
           一度お目にするとよいが出来ればメールでもよい。
           この者は生まれつき神がついていよう
           神の神が言っておろう
           その言葉には神の名前が3つ出てきます。
           神からの言葉をリアルにお話出来よう
           普段も普通の会話を神々としていよう 。
           その者のから神が今メールしておろう
           そのくらいことはたいしたことはない
           すなわちこのメールをみることがなければ神はいないと思おう
           宮崎宏典という者でもあろう

           あまのみなかぬしのかみ
          *********************************************************

          無論、このメールは私から見ると即座に低級霊のお告げメールと解ります。私は子供の頃は旧約聖書の神と名乗る声が臨んでいました。
          だが、私が神霊世界の修行に入ると豊受の神が、この豊受の許可なき神霊が私に直接会話することを禁じるとの御触れを神界に発せられたと、豊受様のお代をしていた師匠から告げられました。
          大国主命様など私の元にその姿をよく見せられましたが、会話は一切無しです。つまり神々と常時会話はしていないのです。私が直に会話した御神霊の数は限られています。
          そうしたことから出雲神界からは出雲大社教の教師を通じて私に伝えられたり、宇佐八幡宮からは宇佐八幡の巫女と称する方から伝えられたり、伊勢の天照大御神からも、何人かの方から私への伝達として受けています。

          そうした中のある伝言メールは、原文の写し。
          最後に女性の天照大神様から、(私は数千年も日本の民のために、日本と民を守ってきました。そのことだけは神之公園様な伝えてください。)と言われております。今は男性の真性天照様がご登場になられますゆえ、お寂しくお思いのことと察しられます。忘れないうちに早めに、お伝えさせていただきました。

          このメールだと、この女性の天照大神様は私が誰だか解っておられることになります。私は私のことを知っておられる御神霊は、豊受様、豊川稲荷様、御劔大神、伊弉諾尊様、伊弉冉様、伊勢の天照大御神様、出雲の大国主命様等、数が限られていると言っております。当然にそれより上位の天之御中主様、国常立尊様、豊雲野尊様ならば私を知っておられます。


          私がいくら自分の本当の身分を伏せても、この段階の御神霊だと私が本当は誰かと解っておられるのです。


          だが、この題材として書いたメールの中味は、あまのみなかぬしのかみと名乗っている存在が、自らが【墓穴】を掘っています。凡ミスも大凡ミスを犯しています。おそらく、白狐と呼ばれる存在には遙かに遠い、かなりの低級霊です。野狐霊とか狸霊の類いと考えられます。稲荷神に仕えている白狐だとここまでバカではありません。
          だが、こうした霊に簡単に引っかかるのがスピリチュアルなのです。「あまのみなかぬしのかみ」の称号を名乗っていますが、これは古事記などの宇宙の初発の「天之御中主」のことで、天帝としての名乗りです。スピで自分には「マスター」が降りて来ると言っているのと同じ事です。


          世にはニセお告げが山ほど出回っておりますが、これなどは希に見るひどい内容のお告げで、ニセお告げとしても点数はゼロ(0)です。どこにも審神(サニワ)で頭を悩ます内容がないからです。正直、大笑いをさせていただきました。
          ニセ神示でも、時には重要な部分を秘めた神示が存在します。それは邪神界と言えども99%までは行けるとされるように、非常に高度の内容を秘めたモノが存在して来ます。ニセ神示でも決して役立たないではありません。学べるがあります。それは99%までは行けるからです。

          しかしスピリチュアル系のチャネリングはあまりにも程度が低いと言えます。マリアだとかミカエルだとか宇宙司令官だと言っていれば良いから一歩も抜けられていないからです。それが仮にニセ神示の「お告げ」であっても、もっと中味がある物を出せ!。なのです。それならば世の中に役に立つこともあるからです。

          私は4年間ほど稲荷講で修行させていただきましたが、行者系だとこの内容ならばまず引っかかりません。本当の神霊ならばあり得ないことが出ているからです、だがスピリチュアルのチャネリングだと簡単にやられてしまうのです。
          それはどこの部分かが、今回私が出す問題です。

          私は霊的なものが見える。霊的な声が聞こえるは危ないと言うのは、自分が学ばないで頭から信じ込んでしまうからです。


          何故創造神・言霊神は「言葉の仕組み」をなされたのか?。

          それは蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊がばっこしている中で、それらの霊では言葉を組み立てることが出来ないからです。霊が見える。霊の声が聞こえるで自分が欺されない為です。

          創造神・言霊神の存在証明だからです。

          実際に神霊と会話しているお代(取次者)をされる行者系だと、簡単にこれは低級霊とのチャネリングだと解る問題です。
          こんなチャネリングで降りて来る内容で「天之御中主」だと信じるでは、そのお里はたかが知れています。

          霊の声を聞きたいなどからとチャネリングなど絶対にしないことです。チャネリング出来たとしても、低級霊の名乗りに欺されるからです。



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          一期一会。魂には多生の人生があれど、人の今の人生とは一代限り。良き思い出だけを霊界への土産とする

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            よく【一期一会(いちごいちえ)】の言葉が好きで使われる方があります。その語源は茶道からですが、その生涯にただ一度まみえることで、この世での【縁】の大切さをも意味します。

            私達の魂は多生で「何度も何度も生まれ変わっています」。しかしながら、【人の今生】とはこの世にオギャーと生まれて死んで行く迄の「一代限り」と言えます。
            次にこの世に生まれた時は、必ず前世と同じ方を親とするわけではありませんし、同じ兄弟姉妹の組み合わせに成るとは限りません。また、友とする方やこの世で合間見られる方は同じ組み合わせではないのです。
            たまには過去世で縁が在ったと方と今世でもお出会いするはありますが、この世の全ての人が全て自分と同じ過去世ではありません。人が増えるににつれて、魂も分派して増加して来ます。今生の別れが永遠の別れとなる魂の方もあるのです。

            ましてその姿などは前世と同じではありません。顔も違えば背丈も違います。生まれ出る環境も時代によってはかなり変化して来ます。あまり変化が無かった江戸時代とすぐ変わる現代では違います。特に環境などは前世からの【カルマ】の要素によって、かなり違う形で生まれ出るのです。
            その人の一生とは、間違いなく肉体が【死ねば終わり】なのです。ただ、その魂たる心は未来(来世)へと引き継がれるなのです。

            今回、この世に生まれて出て来て人と人の出会いは【一期一会】と言えるのです。ですから【縁(えにし)】が意味を持つのです。

            今生で同じ家で肉親として生まれ出たのに、いがみあったり憎しみあったりばかりしている仲が悪いがある場合は、前世で敵対関係であったりする場合があります。それらはその前世における「カルマ」を解消させる為ともされます。敵対した関係を今生で同じ屋根の家族として仲良くしてカルマを解消させるなどです。

            私が子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声が臨んでいましたが、その声は「人は生まれて死んで、生まれて死んでを繰り返している。この世に出ると言うことは魂にとっては【修学旅行】に行ったようなものである。この世の人生は長いように思っても、魂の命からすると僅かな時間にしか過ぎない。その修学旅行先で、自分は何を学んで魂の故郷たる世界に帰って来るかが重要である。
            その「修学旅行」先での悪い思い出を持って帰ってはいけない。この世で出会った人達と次の世で出会えるとは限らない。だからこそ、この世で出会った人の魂と縁を結び、その縁を良き思い出として魂の故郷たる世界に帰って来ることである」。と告げられたわけです。

            この世に生まれ出て、人と人の出会いの中で良き思い出だけを土産話として持って帰って来るとは何を語っているかです。
            仏教で【この世の執着】から離れなさいと説かれて来ましたが、人のこの世の執着とは「悪い思い出」ばかりとなります。悪い思い出に引きずられるのです。
            仮にこの世で栄耀栄華で金銀財宝得たとしても、それは欲にまみれての悪い思い出ともなります。結果、執着の蛇を産みます。良い思い出は執着にはならないのです。

            例えば、自分周りの人達。学校ならば学校。会社や職場。自分が住む地域の人達。そこに居る人達は全て善人ではありません。学校でも会社でも他人を暴力や言葉で虐めたりする人達は存在します。それに負けると、自分が精神病を患ったり、時には自殺に追い込まれてしまいます。
            こうした他人を不幸に追い込む人達は、全てその「魂」は磨かれていません。魂そのものが捻れたり腐ったり汚れています。暴力的な方はその方が「小心」者故に自分を強い者だと見せる暴力威圧を起こします。俗に言う【弱い犬ほど、よく吠える】です。

            私は某大手新聞社の記者から土下座を要求されたことがあります。こちらに特別の非があったのではありません。他の新聞社の記者ならば誰もそんなことは言わない事案です。そして私の職場のことを新聞に載せるなどと脅迫威圧です。そんなこと一地方記者に出来るはずもないことですが、ペンの暴力を言えば人は怯えると思っているのです。
            この記者は狂犬病に近い者で聞く耳は無いと感じたので、私は黙って土下座をして詫びをこいました。そんなこと痛くも痒くもないことです。私は子供の頃には虐められていましたので、別にどうのこうのはありません。そこで悔し涙を流す様であれは、まだ自分の魂は磨かれた状態ではないのです。青二才と言えます。逆にこの行為でその記者が神の罰を受けなければよいがと心配しました。

            その後、その記者の前世を神から見せられました。江戸時代には某藩の家老の息子で、傍若無人で街中の往来で馬を走らせて馬で通行人を蹴り殺しています。しかし、家老の息子でお咎め無し。その性分は今世でも直っていないなのです。
            私は霊能者をしている者ではありませんが、必要があれば神がその方の前世を見せるがあります。カルマの原因追及の為です。
            カルマの原因追及の為の前世透視ならばいいのですが、興味本位の有名人の前世など必ずしも当たっていません。その人の前世に「カルマ」の要因がなければ、その前世は残す必要が無い映像(意識)だから出て来ないのが本筋です。

            その時の私の職場の上司がその新聞社の支局長に新聞社の名の暴力に抗議の電話をしたところ、前の支局でも問題ばかり起こして、格下のこちらの支局に回された。支局でも困り果てていますが、新聞社の重役のコネ入社なのでどうにもなりませんとの返事だったそうです。どこの職場でも厄介者のたらい回しです。
            それから僅かして私の上司がその支局長から聞いたのは、その記者は某大手新聞社を自ら退職して行方不明、都会に行ってヤクザにでもなったのだろうとのことでした。新聞社では疫病神が居なくなったと喜んでいるでした。

            前世の過ちもあり、その性分を叩き直さないといけない今生で、またもや同じ様な過ちを繰り返しているわけです。実際に何度生まれ変わっても、その根性が直っていない人が見られます。


            皆さんは、天国に憧れておられます。誰でも最初から地獄行きを望んでおられるわけではありません。

            その天国とは、住民の内に一人として他人を虐めたり、罵ったり、恨む妬む、暴力を振るう様な方は存在しないのです。そうした人がどこにも存在しないから天国界が形成されるのです。
            それは宗教でその宗教を信じれば天国界ではないのです。宗教とは【宗(胸)】教で、人の胸(六根)の中の存在の教えをしないと、間違った信仰に入ります。その「胸(六根)」の教えとは【六根清浄】でもあり、スピの教えとはまるで違うのです。人の良心神とは魂の中核で人の「心臓」の部分に宿るのです。

            信仰しているからその魂は磨かれているとは限りません。宗教とかスピを金儲けとしている輩は多いのです。全ては人としてこの世を生きた「有様」の結果です。この世での自分の生き方が結果として「天国」界に進めるなのです。
            つまり、自分自身がそうした天人の様な人に成らないと、天国など餅に描いた絵に過ぎないのです。

            何度か書きましたが、【天国住人とは、住人の全員が自分の友や仲間であり、住人たる友や仲間の悲しみは自分の悲しみであり、その喜びは自分の喜びであり、皆が分かち合う精神】世界だから、【分かちの国(天国)】なのです。
            スピリチュアルで【愛だ!】と言葉の愛だけを言っているのは、全て蛇霊の教えだとされるのはそこにあるのです。神が説く愛とは【犠牲】を伴ったものであり、貴方は他人の為に死ねますか?。世の為、人の為に自らの命を捧げて死ねますか?。そこまで行くのです。自分が【義の人】であることが要求されるのです。

            一方、地獄とは天国とは【真逆】であり、【我れさえ好ければそれでよい】。弱い立場の者を面白半分に虐めたり言葉の威圧や暴力で従えようとしたり、他人の意見を遮り、俺の天下だ式になるので、そうした人ばかり集まって地獄界が形成されるのです。我れ好しの世界だから、住人同士の争いが絶えない心が安まらない世界なのです。
            その魂は磨かれておらず、捻れたり、どす黒く汚れていたり、腐っていたりするのです。ですから、古来より「魂を磨け」と言われているのです。
            だが現代スピは、まったく真逆の説き方をしているのです。自分の好き勝手をしてよろしいが題目となっているのです。

            天国・地獄は神が決めたのではなく、各自の心の持ち方で形成された世界

            閻魔とは【○(円)の真】であり、【○と・】です。そこに魂(○)の核(・)たる良心神があるから、私は各自の魂の良心神の点数で霊界の行く先が決まると説いているのです。

            この世で虐められたり理不尽な扱いにより自殺された方の霊は、ほぼさ迷っています。仏教の用語になりますが成仏出来ないのです。それはこの世で自分に苦しみを与えた出来事を忘れることが出来ないからです。自分にそんな仕打ちをした者達が赦せないのです。復讐に燃えるのです。
            スピリチュアルだと、【何をしても神の愛で赦されます】です。それだと、他人を虐めて自殺に追いやっても、神の愛で何事も赦されますとなります。そんな世界ならば、もはやそんな世界を存続させる必要などどこにもないのです。今、それが許されているのは【この世は魂の修行場】だからです。ですからこの世には【善も悪】も存在するのです。


            重要なことは、例え他人からそんな仕打ちを受けたとしても、それを赦すではなくて、悪い思い出は霊界に持って帰るな!。なのです。良い思い出だけを、魂の思い出とすることなのです。私はイエスの教えには数々の教えの間違いがあると言うのは、「ここを理解していなかったからです」。右の頬を叩く者があれば、左の頬を差し出せではないのです。

            仮に貴方が100の内99の悪い思い出の中に置かれていても、そこに一つの良い思い出があるならば、その一つの良い思い出だけを持ちなさい。悪い99の思い出はこの世を去る時には捨てなさいなのです。どんなに悪い環境の中にあっても、一つぐらい良い思い出はあるはずなのです。
            この世の他人から受けた恨みや辛みを心に刻むのではなくて、良い思い出、感謝感動出来たことだけを心に刻むなのです。

            それが仏教で説く【執着から離れなさい】の部分なのです。自分にひどい仕打ちをした者は自分が仕返しをせずとも、必然的にそれをした本人の魂が【カルマ】を背負います。だから裁きの「閻魔(円真)大王」なのです。

            その【カルマ】は神の愛で何をしても赦されるの論では消滅しないのです。それは後世にも引き継がれて行くのです。「何をしても神の愛で赦されます」などの論理はどこにも存在しないのです。
            神の愛で何をしても赦されますと言う方は【カルマ】の恐ろしさをまったく見ておられない方なのです。スピリチュアルで【カルマ】の恐ろしさを知らない解らないでは、その人が持つ霊能力とは動物霊と言われる低いものなのです。


            魂が捻れていれば、どうやってその捻れが取れますか?。汚れた魂は、どうやればその汚れが取れますか?。腐った魂はどうすれば元に戻りますか?。そうした魂のことを何一つ言わない。それではその人は「真理」に向かっていないと言えます。


            今の私達は他の人との【一期一会】。良い思い出だけを自分の思い出としてください

             

             

             


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            私は諸霊から悪神と言われて、その理由は解るのですが、逆に霊界で動きが出たとも言えます

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              私を直接に知る霊能力がある方から電話が来ました。その電話によると、その方の夢の中に「神野公園は悪神だから、あの者から離れなさい」。それが一度の夢のみならず、いろんな諸霊が同様の内容をその方に告げる夢が幾度も出たとのこと。
              一度ならば単なる夢で片付けもしますが、同じ内容が幾度も出て来るとなれば、さすがにこれは単なる夢ではないと思って、私に直接に電話して、自分はこれからどうしたらいいのでしょうかのお尋ねです。

              私は霊能者ではないのでその方に何が懸かっているのか霊的に見ることは出来ませんが、その電話を聞いた私は、多くの霊が私を悪神だと言って私から離れなさいと言うのであれは、そうした霊の言葉に従って私から離れてもいいのです。別に私から離れることを止めません。自分の意思に従えばいいのですと、返答しておきました。

              神霊世界はある意味、勝てば官軍。負ければ賊軍で、創造神とされる「国常立尊」様でも悪神の汚名を着せられて神界の表舞台から退かされて「艮」金神にされたとする世界ですから、別に諸霊からの悪神呼ばわりを気にする必要はないわけです。
              ただ、遙かなる昔に「国常立尊」様の部下的な立場に在った霊は、今は地に落ちたとしても主君であった「国常立尊」様に対する忠誠心が残っている為に、神の紐に結びついているので「国常立尊」様を慕うのです。

               

              以前、日本ブログ村の上位におられた方が「国常立尊」は悪神だと盛んに宣伝されていましたが、霊界では「国常立尊」を悪神とする勢力の方が多数派ではあるのです。本来の創造神を邪神呼ばわり、悪神呼ばわりは多数派である「反国常立尊派」の霊達のお家芸とも言えます。要は勝てば官軍、負ければ賊軍なのです。多数派の論理なのです。


              逆に私が諸霊から悪神だと霊能力がある人に懸かって言われるということは、私の存在が諸霊達の目にも触れて来たとなります。ありがたいことです。出来うれば多くの人に懸かっていただいて、「神之公園」は悪神だと吹聴していただければ、私が言っている内容がより多くの人の目に触れます。どちらの論が正しいかを考える切っ掛けともなります。その判断はその人まかせればいいことなのです。

              こうした霊は、自分はどこの誰兵衛とはまず名乗りません。元々この世に関わって出て来る霊の名乗りはほとんど信用置けません。そうしたことから、例え名乗ったとしてもサニワ(審神)せよと言われているわけです。サニワ(審神)すると、そのほとんどはその名乗りの神名とは違うニセ者の霊だったりします。
              私の2番目の師匠は神仙界修行をされた「言霊師」で、その背後の神霊の名乗りは「国常立尊」でしたが、本物たる存在ではありませんでした。ただ、並外れた霊力を持った御神霊でした。その師匠はそれが見破れずにおられたのです。ある意味道理より見せる奇跡の霊力に縛られたなのです。

               

              仮にも創造神とされる神名を名乗るニセ霊が数多くあるということは、本物の創造神が霊界でも見当たらないなのです。

              どなたでもそうなのですが、自分に力を与えた神霊を【ニセ者】だと疑う者はありません。奇跡力とか魔力に魅入られるからです。ニセ者同士でどちらが【本物】かのやりあいは、霊術合戦で決めようなのです。当然、霊力が強い方が本物の名を取り、負けた方は「ニセ者」の烙印です。
              この世を創造した神が他の神霊の力に負けたでは、そうした名乗りすら吹っ飛んでしまいます。あり得ない話になるからです。

              神霊のお代(取次)している方は、自分が仕える神霊が常時出て来られますが、その神霊の名乗りそのものも嘘だったりします。天照大御神と名乗っていても、その正体は龍神であったり狐霊であったり狸霊であったりもします。信徒何十万の某教団の天照大御神は霊能者サイドで赤龍であると言われています。龍神と呼ばれる段階でないと、何十万人もの信徒を持つほどにはなりません。
              だが、そうした諸霊でも「99%」までは行けるとされているように、ある程度のところまでは行けるのです。些細なことなら事前に当てることも出来るなのです。あの方は目を見張る霊力があるとなれば、人はそちらに流れます。

              そうしたことから、自分に例え神霊が臨んでいても自分でその判断をしてはいけませんし、一人の霊能者の判断のみを鵜呑みにしてもいけないのです。

              私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声が臨んでいましたが、昭和五十五年に私の身に起きた摩訶不思議な事件から、多くの霊能者を訪ねました。本当に子供の頃に私にそんな神が臨んでいたのかです。真偽の確認です。
              最初の師匠とした方は当時伏見稲荷大社講務本庁の信徒団体の婦人部長を勤めていて、稲荷講の中では癸韻領酣充圓箸靴討寮爾高かった方です。その実力はしかと見させていただきました。スピリチュアルを標榜している方の段階ではありませんでした。


              その師匠を通じて豊受の神から私の本守護神様は「国常立尊」様だと告げられたのですが、それ以外にも多くの霊能者の方に霊査を頼みましたところ、全員が全員ではありませんが、そうした霊能者の中の7〜8名の方から貴方の背後は「国常立尊」様ですよと指摘されたので、そうなのかと思っているだけです。

              旧約聖書の神とは、大本教が世に広めた「国常立尊」様となりますので、それからすると子供の頃の旧約聖書の神の名乗りは合っていたのかも知れません。ただ、大本教から出た出口なお開祖に懸かった国常立尊様とは、頂上神たる国常立尊様ではなかったとされています。未だ頂上神たる国常立尊様は世には出ておられないなのです。
              ですから、その頂上神とされる国常立尊(天では天之御中主と呼称)の神力は世に出ておられる神々の段階では解らないはずなのです。
              大本教神典に「君が臣となり、臣が君となる」とありますが、これが何を語っているか解らないでは、根本論から解っていない者となります。


              霊能者の看板を上げていても、実にひどい方などいくらでもおられます。あまりにも酷い状態なので、時間と金の浪費になるので私は今は霊能者頼りはしません。単に人を助けるだけの話ならば、別に蛇霊や狐霊や狸霊でもいいわけです。霊さえ懸かっていれば、その霊を通して霊界は見えるので蛇や狐や狸でもいいわけです。
              確かに一流の霊能者の方は存在しておられるようですが、それはテレビに出て来られる霊能者江原敬之さんの段階ではありません。御本人は素戔嗚尊の魂と言っておられると聞き及びますが、それではあまりにも弱すぎです。八岐の大蛇退治すら出来ません。
              前にも書きましたが、数十体の霊の憑依でのびるでは、もっと上の段階に入って行くと命など取られてしまいかねません。実際に多くの霊能者・行者の方が命を落としているのです。ある意味霊界は怖い世界でもあるのです。

              私は修業時代、黒龍神群団の攻撃を受けて逃げ回っておりましたが、数十体の憑依霊で伸びていたのでは霊界で通用などしません。単に霊が見えるだけなのです。またそうした黒龍神から見て、相手にするような存在でなければ攻撃もされません。力がなければ見逃してくれます。


              私のブログで書かせて貰った方の大蛇霊の配下霊は八千体に及ぶそうですが、私の最初の師匠は豊受様のお代で一万数千体の霊が従っていました。その数を見抜いたのは某霊場の管長さんですが、霊が見えたとか霊の声が聞こえたではなくて、どれだけ実力(配下霊)を持つかが重要なのです。
              霊感者にも白狐が一体ぐらいは見られますが、神のお代と呼ばれる段階の方だと白狐でも数百匹数千匹と従っていたりするのです。
              神霊世界における最終戦争は「龍神」の動員力となります。一体や二体などの数ではなくて、数百万、数千万、数億体などの龍神を従えての話になるはずなのです。


              私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、私に対して【そなたが本当は誰なのか、神々には解らないようにしておく。もしもそなたの本当の身分が解れば、神々が新しき世における自分の出世を願ってそなたの元に押し寄せて来る。そなたも自分が本当は誰なのか知らない方がいい。働くのは肉体のそなたではなくて、霊界のそなたの魂そのものであって、肉体のそなたは「馬鹿」を演じていればよい。遊んでいてもいい。
              そうであっても、そなたが誰であるか解らないような神であれば、その神は使えない。私はそなたに何の力も授けない。そなたに私の力を授けるのは最後の最後の時である】と告げられたのです。

              私は豊受の神から貴方は「言葉の神」と呼ばれる者だと告げられて、いくらなんでも肉体の者が「神」などあまりにもおこがましいで、西洋に残されていた異国の人が異国の言葉で主を語る。その人はその異国では「言葉の君」と呼ばれている。「言葉の君」は自分は主を知らないというが、万軍の主は言葉の君のことを知っていて、万軍の主は全ての裁きを終えた後、言葉の君を召し出して万軍の主の全権を授ける。その日をもってユダヤ人は救われる】。とあったことを思い出して、その異国の言葉とは日本語でも出来るのだろうかと取り組んだだけのことなのです。


              私に臨んだ声の【そなたに力を与えるのは最後の最後の時である】と【万軍の主が裁きを終えた後】で似通ってはいます。だが、そんなものは捕らぬ狸の皮算用でしかないのです。私は主の全権など欲しくも無く、一介の素浪人が似通った愚者です。私は自分かってに【言葉の君】の名を拝借しただけです。それが罪だと言われれば、私は罪人かも知れません。悪神かも知れません。


              ある方が私が本当に「言葉の君」かと某大阿闍梨に霊査を依頼されたところ、この人は「言葉の君」ではなくて「言葉の神」と呼ばれる存在で、言葉の神とは創造神その方ではないが創造神の横に座すほどの存在だと、豊受の神が私に告げられたのと同じ事を言われています。だが、ほとんど「言葉の神(言霊神)」とは知られた存在ではないので、よく解りません。

              私が子供の頃に告げられたのは、神の世界で働くのはそなたの魂であって、肉体のそなたではないと告げられているからです。肉体は肉体で在って、魂は魂であり、必ずしも=ではないのです。ですから私は【そなたは神の人形】だと告げられています。ただ、動く「人形」には人形として【自我】が存在するなのです。そして動く人形には人形なりに「喜怒哀楽」があります。


              単に人形の私でも、もしも豊受の神が私に「言葉の神」などと言われておらなければ、私は大本教神諭予告【九つ花】ですら、何も考えずに通過していたでしょうなのです。
              また朝鮮の予言として残されていた【最後の審判前、救世の為に「米」一字の教えが起きる】に触れていなければ、「米」教も成り立ちませんでした。だが、それらは【聞く耳持たずであれば、ほとんど意味をなさないものなのです】。



              私は旧約聖書の神と名乗る声の存在から何の神力も授かっていないので、貴方は旧約聖書の神と名乗る声に欺されているだけではないかとの声もあります。

              普通に考えればそれが妥当かも知れません。何の力も授けられずに、霊的世界を歩くのは非常に困難だからです。

              人は見る「奇跡」は信じても、【言葉の仕組み】などには目を向けないからです。

              諸霊が私を悪神と言う論拠の一つには、私が「世の大立替」を説いていることもあるでしょう。

              私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、【この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国あり、そなたをそれを知って人々に告げなさい】と言われたことです。それは日本に満ちあふれている日本語という言葉で神の仕組みの解き明かしでした。それは現実に説けたわけです。
              その旧約聖書の神と名乗る声は、私に【私は一度のこの世の幕を降ろして、次に永遠に嬉し嬉の世を創る】と言われたことです。もしもこの言葉がなかったならば、私は【世の立替を世に言わなければ殺す】と言われても、頑として言うことを聞かなかったでしょう。その後に未来永劫の嬉し嬉しの世を言われたから言っているのです。

              問題は、その内容は大本教と呼ばれる宗教が大宣伝した【世の大立替】のことですが、その大立替だけでなく未来永劫の嬉し嬉しの世は、この地球と同型(瓜二つ)の【新地球】だと言われたことです。そこが根本的に大本教とは違って来るのです。


              この地球上だけの話であれば、新しきみろくの世、神の御国はスピリチュアルで盛んに説かれる【次元上昇】だけでこと足ります。だが、別の【新地球】ともなれば、それは天文学的にはあり得ない世界であり、私達は一度この肉体を脱がないと行けなくなるのです。聖書で示される第一の死と第二の死が起きるとなります。
              だがそうしたことに触れているのは、ヨハネの黙示録であったり、聖書の一部分となります。私に子供の頃に臨んだ声が「国常立尊」と名乗らずに「旧約聖書」の神と名乗られたのは、そこを私が見る為だったのかも知れません。


              はっきり言って、私もヨハネの黙示録にある「今日までの天地は消えて、私は新しい天地を見た」などは、途方もない内容だと思います。何故ならば、既存の神霊界にそんなことが出来るだけの神霊が見当たらないからです。
              伊勢神宮に鎮座されている天照大御神でも出雲大社に鎮座されている大国主命様でも、どう転んでもそうしたことを起こす力は無理な話なのです。


              もはや信じる信じないよりも、現実にそんなことが起きるはずがない「与太話」とも言えます。


              諸霊から私を見ると、何の神力も持たない者なのに、日本語の言葉の仕組みなどと「抜け作」同然の仕組みばかりを言って、世を惑わしている悪神だと言われたら、私は甘んじてその【悪神】の謗りを受けなければなりません。

              私は万に一つでも立替の可能性があるならば、それに対処する必要があると思っている者なので、それが嘘であろうと無かろうと今後も説きます。
              私は修業時代は黒龍神群団の攻撃に逃げ回っておりましたが、もう黒龍神も諸霊から束になって攻撃されても、それに負けるはありません。そうした攻撃を受けきれるだけの力はついて来ました。

              仮に創造神と呼ばれる神が存在するのであれば、その創造神が求めておられるのは烏合の衆である諸霊達ではなく、「正義と誠」を旗印として立ち上がれる「牢人」達なのです。牛(宇志)でなければ、天帝と呼ばれる神に仕えるなど出来ないことです。

              宇宙の牛=牢(私の魂は牛頭の人でしたが、今は若侍姿)

              私が東京で著名な霊能者に霊査を受けた時、その霊能者の方が貴方の背後には神界統一が出来るだけの霊がありながら、貴方を見殺しにしておられる。私にはこの霊の考えが解らないと告げられましたが、私には何の力も与えないで見殺し状態が神の仕組みであれば、それを受けざるにはおられないのです。どんな姿ですかと聞いたら【若侍】姿と告げられたのです。今は白馬に乗っています。


              イエスは【世の立替】を説きましたが、現実には何も起きませんでした。キリスト教徒はそれはイエスが犠牲になって救ってくれたと思ったことから「救世主」に祭り上げられましたが、【何をしても良いという身勝手な論理】がはびこると、あらゆるものを汚して地球も宇宙も成り立たなくなるのです。



              世に埋もれてしまっていたお釈迦様の悟り、【人に内在している良心神】は、既存の霊界の天国行きの切符でもあるので立替があろうがなかろうが説くべきものなのです。
              どうしてお釈迦様の悟りが【五十六億七千万】だったのか?、それを紐解けるの大本教神諭予告【九つ花】しかなく、それを【言葉の仕組み】で仕上げた神が存在していたことは揺るぎないことであり、諸霊の知恵の及ばざることなのです。

               

              諸霊達の上野公園は悪神だ!。私達の目には見えない霊界で動きがあったのでしょう。

               


               

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              霊的世界の体験幽体離脱で学ぶ「人の子が雲に乗ってやって来る」

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                聖書を信仰する方から聞く言葉に、この世の終わりと新しき世に入る内容として【人の子が雲に乗ってやって来る】があります。聖書におけるそれらの内容は、黙示録やマルコ伝にあるわけです。

                新約聖書 マルコの福音書13章21から  イエス自身の言葉として、
                『見よ、ここにキリストがいる』『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起こって、しるしと奇跡を行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。だから気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。

                その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光をもって、【人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。そのとき、彼は御使いたちをつかわして、地の果てから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
                イエスはこの【雲に乗ってやって来る人の子】を、【彼】と呼びイエス自身のことだとは言っていなのです。それがどうしてイエスだと解釈されたのかが不思議な話ではあるのです。
                イエス自身は大予言者(大預言者)として、その弟子たちに言っているのです。


                ヨハネの黙示録14章の14から
                また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。
                すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時か来た」。
                雲の上に座している者は、そのかまを地にげ入れた。すると、地のものが刈り取られた。

                キリスト教徒は、この「人の子のような方」をイエスその方だと思っているわけです。だがイエス自身が雲に乗る人を「彼」と三人称で語ったように、それはイエス本人ではないのです。
                また、スピリチュアルで自分には天使長ミカエルとか大天使カブリエルが降りて来ると言っているような天使も、マルコの福音書に記載される「にせキリストやにせ預言者」と同様に、終わりの日の近づきには「にせ大天使」達も続出して現れるのです。今は面白いほどそうした「にせ大天使」達が出て来ています。それは単に【世の終わり】が近づいたことの現象に過ぎないのです。

                実際にそうした大天使と称する霊がスピリチュアルの方に告げた内容で、現実にその内容が予言として当たったなど、今日までどこにもないでしょう。いい加減に目を覚まさないといけないわけです。

                地の穀物の刈り取りそのものは、私は「米」教の「みろく」の仕組みで解説しましたが、それは日本語を知らない民族には解らない仕組みです。日本語を持たない西洋人には小麦の「パン」の教えだけなのです。
                大本教の出口王仁三郎聖師は日本人は「米」が主食で、西洋人の「麦」のパンの教えは副食だと説かれたように、小麦は副の二義的な意味の教えでしかありません。

                どちらにしても「実った米・麦」は新しい世(神の御国・みろくの世)に向かい、そうでなかったものは新しき世には向かわないなのです。
                だがその時とは、マルコの福音書にイエス自身の言葉にあるように、【その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる】。その到来日は天の御使いさえも知らないことであり、世に出ている神々もまた知らないことなのです。
                私は豊受の神や木花咲耶姫と名乗る御神霊から【世の大立替】が起きると聞きましたが、その時期は解らないでした。創造神でも無い神々にも時期など解る話ではないのです。

                この「人の子が雲に乗ってやって来る」に関して、世界教師(マイトレーヤ)の存在を説いている「ベンジャミン・クレーム」氏は西暦1945年にヒマヤラ神界で光合成で造られた人造人間で「飛行機」に乗ってやって来ると説きました。その人物が「マイトレーヤ」である為には、この【雲に乗ってやって来る】の言葉がどうしても外せなかったのでしょう。
                確かに、人の子が雲に乗って来るなど物理的には考えられません。飛行機に乗って来るの方が妥当性があります。しかし、飛行機に乗って来るでは、どこの誰だかさっぱり解らないとなります。

                私は大本教が「みろく(マイトレーヤ)」大神を世に大宣伝をし、大本教神諭予告「九つ花」を紐解いてその仕組みで五十六億七千万の「みろく(369)」を出せると解った時、万物の創造神たる神がなされた言葉の仕組みとは、人間の浅はかな知恵で創造神は語るようなものではないと気づかされました。
                私達人類や神々は【創造神に踊らされているのではないか?】。だから自分がみろく(マイトレーヤ)などと言ってしまうです。

                日本では天皇や徳川将軍(公方様)を【雲の上の人】と言いました。自分達の目には届かない人の存在です。普通ならば私の様な下々の者には「拝謁」出来ない存在のことです。


                私の神霊世界の修業見聞の中に【人の空中浮揚】が存在しました。万有引力に反していますので物理学では説明不可能です。それはオーム真理教の変則蛙跳びの様なものではありませんでした。だが、空中浮揚とされるものは、雲に乗るなどの高い所まで上がることは出来ません。雲の上とは完全に別なのです。

                私達は仏教画を見ると、観世音菩薩や如来達が雲に乗って来る絵を頻繁に見ます。また西遊記でおなじみの「孫悟空」は觔斗雲(きんとうん)に乗って空を飛ぶです。孫悟空は物語なのでフィクションと言えばフィクションです。
                その孫悟空は「須菩提祖師(すぼだいそし)」という仙人の弟子になり、孫悟空と言う名を与えられたとされます。この須菩提祖師(すぼだいそし)は釈迦の十大弟子の1人とされていますが、諸法皆空を悟った第一人者のことです。

                私は孫悟空という名を見た時、
                悟空は「空」を「悟った」物の意であることは簡単に理解しました。その「悟り」は「吾(わ)れ」の「心」です。自分(吾)の心を覚ることが「悟」です。「空」は般若心経の「色即是空・空即是色・受想行識」で理解出来ることです。座禅で坐ったから解るではないのです。
                私は何事も座れば解ると言う人は【座禅バカ】と言っています。単一の示(衣)しか頭の知恵が回っていないのです。同じ座るのであれば禅の開祖達磨大師の「壁面九年」の故事を知って、初めて「ダルマ(真理)」の意味が解るのです。「九」から学ぶのです。

                 

                私は大本教神諭の「ダルマ(達磨)大師として現れた」を見た時、?と首を傾げました。ダルマとは「真理」のことであり、達磨(ダルマ)大師の壁面九年の事柄は壁を見つめて「九」で、壁でなく紙に「九×九」を示した意味かと勘づきました。禅は「単」を示す以上、そこから一つの事柄が見つけられるです。

                 

                言葉の仕組みとは、皆さんの想像を絶するほどの仕組みで成り立っているのです。

                禅(禪)=単なる示し
                九つ花の上下左右とも「五番目の口」は「41」の位置に成り立ちます

                五番目の口で悟る心は、人に内在する良心神です

                この存在は私達の魂の内では天帝の分魂が坐る位置ですが、私達からする私達の魂の天帝の分魂は主の御子格ではなくて、主の「孫格」に当たるのです。で、「孫悟空」となるのです。

                大本教神諭が予告した「九つ花」とは、西遊記を読めば魔王が出した【九の数理盤】のことだと簡単に解るのです。

                その孫悟空の「猿」が意味することは奇魂の働きである【叡智】なのです。叡智をもっての「悟」りなのです。いくら「禅」で坐っても「単」の示(しめすへん)しにしか過ぎないのです。

                西遊記ではこの須菩提祖師(すぼだいそし)は「仙人」とされますが、この雲に乗るは仙人の術である「仙術」とされますので仙人ならば雲に乗るとなります。
                この日本で「雲に乗った仙人」として有名なのが【久米仙人】の話です。今昔物語集などではその話が語られています。仙人修行で仙術を得て雲に乗ったが、川で洗濯している女性のふくらはぎに見とれて雲から落ちてしまった。そしてその女性と結婚をして俗人となったが、その後に遷都に運ぶ木材を仙術で都に運んだことで有名になった話です。
                それはフィクションであるかどうかは解りませんが、昔話としてあっても、誰も現実に雲に乗った人など見たことはありません。しかし、霊体であれば観音菩薩や如来図で描かれるように可能な話なのです。


                よく自分が想った感じたことを全て「霊的」世界のことだとする方がありますが、それでは本当の霊界を見たとは言い切れません。間違いなく自分自身が霊界に入ったと解ることの一つに【幽体(霊体)離脱】があります。
                一部に【生き霊】を飛ばす方がいます。この【生き霊】とはその方の想念的なことであって、その生き霊の行為を全て本人が覚えているでないと本当の【幽体離脱】とは言えない面があるのです。
                幽体(霊体)離脱は自分の体から死後の世界に渡る【霊界仕様の肉体】と【魂たる意識】が完全に肉体から抜け出てしまって、地上界には殻の肉体のみが留まっている状態を指します。幽霊と同じような状態です。ただ、肉体から「霊体と魂」が抜け出ても【霊子線(西洋ではシルバー・コード)】が切断されていない限り自分の肉体に戻ることは出来ますので、そうした現象に出会っても別に心配はないのです。

                私が現在住む土地ではなくて「天之御中主」を祀る神社の側に居を構えていたある夜、ふと目覚めると布団には私が眠っています。その眠っている自分を上から私の意識が見守っているのです。よく臨死体験をされた方が語られる病院のベッドなどで自分の姿を見ている自分が居たという類いのものです。
                すると上半身から私の霊体が肉体の頭から抜け出ようとしています。俗に言う「脱皮」的要素です。私の意識は肉体に戻らないといけないと感じた時、私の耳の側ではゴーゴーと鳴る凄まじい風圧が起きていました。そのゴーゴー鳴るような風圧は、肉体から霊体が抜け出す為のものかと感じたのです。

                それらは幽体離脱をされた方の報告にあるゴーゴーと響く風圧、そして上空に引っ張り上げられる力です。そうした体験の方からはトンネルの中を通過するとありますが、その風圧の凄さがトンネルを上空に上がっている様な感触として受けただけかと想われます。
                私の肉体から抜け出た霊体はまだ横たわった状態で上昇に入ります。そこには天井があります。私がぶつかると思ったら屋根も通過します。幽霊が物質界を自在に抜けるのと同じです。霊には屋根とか壁とかの物質は関係がないのです。

                少し上空に上がったところで、当時私の世話をしてくれていた日蓮聖人さんのお弟子だった2体の僧侶霊が、私の両脇を支えるようにして上空に上がり、雲の上に私を乗せると、その雲を操縦しなさいと言います。
                イエスが亡くなった後に、イエスを支える霊達を見た報告がなされていますが、肉体から抜け出て日が浅い霊体だと上空に上昇は支えが必要なのかも知れません。

                私はどうやって雲を操縦するのかと思っていたら、なんとなく操縦法が解って、孫悟空になったような気分で面白くて面白くて飛んでいましたが、「もうこの程度でいいだろう。元の自分の元に戻れ」と言う声が響きます。
                すると、私の霊体は地上に向かって凄いスピードで頭から落下を始めます。このままでは地上に激突だと思ったところ、私の家の屋根の上で急ブレーキがかかり、私の霊体は横になると徐々に屋根を通過して布団に眠っている自分の肉体の中に入って行ったのです。
                全てが終われば、それはなんとも不思議な夢を見たなのです。だが、私の両脇を支えて上昇した日蓮聖人さんのお弟子であった2体の僧侶霊は、私の前に幾度もその姿を現した存在なので、単なる夢ではなかったと言えます。

                私は自分が霊体であっても「雲に乗る」の体験をしたので、私がその聖書に記載される該当者だと言うのではありません。それは仏教における観音菩薩や如来図に描かれるように神霊ならばどなたも「雲に乗る」の話であって、聖書にある「鎌を地に投げ入れて刈り取る者」だと言っているのではないのです。
                聖書に記載される雲の上の内容は、「霊体」ならばあり得るなのです。しかしながら、霊体で現れたならば、それを人々が見ることはほとんどないなのです。実際に大部分の人に幽霊など見えないからです。仮に肉体の人が雲に乗ったとしても、地上から見ればその人は豆粒に等しくて解らないでしょう。

                私が言いたいことは、【人の子が雲に乗ってやって来る】などは、まったくデタラメな話ではなくて、霊界に入れば如来・菩薩達が雲に乗っておられるように見る世界であって、霊界の現象で霊界が存在している証明論ではあるなのです。

                 

                 

                 


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                【スメラミコト】って何?。私達人類は宇宙のどこからかやって来たのか?。

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                  日本の神道系ではよく【スメラミコト】が言われます。それは日本の天皇を指しているとされます。しかし、漢字で言うと「皇(スメラ)尊(ミコト)」、あるいは皇(スメラ)命(ミコト)の意味であって、天皇という漢字に「スメラミコト」を当てると本質的な言葉の意味を失わせてしまいます。


                  この【皇】の字は、本来は天帝たる神、万物の主宰者を意味したもので、絶対的な神に対する言葉であり、その天帝から降りた天子の意味も含めて中国で【皇帝】などに使われたのであり、日本でもそれに習って天皇家に「皇」の字を置いただけでしょう。
                  そもそも【皇】の一字を「スメラ」と呼ぶことさえ、日本語の観点からするとよく意味が解らないはずなのです。中国語の字音で「皇」は「コウ・オウ」です。また皇帝の【帝】も万物を主宰する最高神の意味で、中国での字音は「テイ・タイ」となりますから皇帝と書いて中国語でコウ(皇)テイ(帝)で、私達はそのままの字音を使っています。なのにどうして「スメラ」かとなると、その源は中国からではないとなります。すると、その「スメラ」の言葉はどこから来たのかとなります。

                  一部の行者・霊能者間で、この「スメラミコト」に「イエス」を当てるがあります。そこに隠された意味は「旧約聖書」に残される人類の終わりの日の前に、人類を救う為に旧約聖書の神は自分の御子を人類の上に遣わすがあります。まさに天から降り立つ創造神の御子です。その創造神の御子のことを【スメラミコト】と称する説です。それに該当したのがイエスだとの認識です。これは西洋では「キリスト」たる言葉の存在ともなるのです。


                  キリスト教はナザレの「イエス」をその旧約聖書の御子「救世主・メシヤ」に仕立て上げましたが、ユダヤ教はそれを認めていません。またイスラム教の開祖ムハンマド(マホメット)も、イエスは偉大な尊敬される大預言者とはしましたが、旧約聖書に記載される人類の終わりの日の前に現れる「救世主・メシヤ」たるキリストたる存在とは認めていません。

                  一部で旧約聖書に記載される「救世主・メシヤ」は日本人だと唱える方達があります。それは日本語の「スメラミコト」がその意味を持つからです。そうした中で日本の皇室絶対主義の方の中には、今生天皇(平成天皇)がその「救世主・メシヤ」たる存在とか、現皇太子がそれに該当するとか、現皇太子ではなくて「愛子」さんが該当者だとか唱えておられるような方も見受けられます。

                  私が神霊界修行として日本神道の世界から入って非常に驚いたのは、日本神道とは【旧約聖書】の世界なのか?。なのです。それはやがて解って来ました。日本神道とは【旧約聖書】の世界なのです。ただユダヤ教などでは厳密な一神教ですが日本は絶対的神が消されて多神教となっているので、主体は八百万の神達となります。それ自体は神界のピラミッド構成からすると、頂点は唯一の神であり底辺は八百万の神達となります。
                  例え創造神の存在が消されている日本神道でも、その存在はあると見て行くと【日ユ同祖論】も起こるべくして起こったものと言えるでしょう。


                  ただ、それは今の歴史を紐解いていくら論じても解りません。霊的世界を探っていると今の人類が知らない歴史があると言えます。その為には、聖書で言われる「水による大審判(ノアの箱舟)」が有ったのではないかという考え方は必要かも知れません。ノアの箱舟の洪水以前の中東に日本人の原点もあるなのです。

                  私は今生天皇(平成天皇)は、非常にご立派な天皇だと思います。しかしながら、救世主・メシヤを意味する【スメラミコト】に該当するかとなった時、それは無理筋だと言わざるおえません。人間の天皇であって神ではあられない。それでは旧約聖書が記す万物の創造神の御子たる【スメラミコト】には該当しないであろうなのです。
                  日本神道で語る「天照大御神」とは、仮に皇室の先祖霊だとしても旧約聖書に記される創造神とはまったく別物だからです。創造神に天照大御神を持って来ても意味が通じません。

                  私が子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声は、【日本神話の神代の話は、私が世の立替の予告の為に創作させたものであって事実の話では無い】と言われます。また、私が神霊世界に飛び込んでお世話になった豊受の神からも、日本神話の神代の話は事実では無いと承りました。だが、それが絶対的正しいとは私も申せません。
                  大本教の出口王仁三郎聖師から素戔嗚尊の【ス】の神論が展開されました。その【ス】の神はそれ以後の新日本神道系の中で【主(ス)神】論として大勢を占めています。しかしその素戔嗚尊とは、日本神話の中の伊弉諾尊の御子である素戔嗚尊ではないのです。宇宙創造神に対しての【ス】の神論なのです。


                  大本教で展開された霊界物語で主神は一柱神であり、霊界の愛国では主神は霊界の太陽たる天照大御神と顕現し、霊国では主神は霊界の「月」たる素戔嗚尊として顕現するとあるのもそこにあります。
                  つまり全宇宙を「○」として、その中に「核」を入れますと、その「⦿(目)」は昼は天照大御神であり、夜は素戔嗚尊とするわけです。そこに出て来るのは

                   

                  真性【天照大御神】も素戔嗚尊も同一神



                  私は大本教神諭予告【九つ花】を紐解いて【ラ】神論となりました。これは日本神話に当てはめると天之御中主であり真性【天照大御神】ともなります。その大本教から言葉は【御言(ミコト)】であると出されました。ミコトには「命」の字がありますが、全ての命は【万物の創造神のミコト(御言)】にあったは、宇宙の初発の映像からすると間違いはないのです。その大本教から出されたのは【ス】のミコト(御言)なのです。
                  聖書では、これを【始めに言葉は神と共に在った】としたのです。


                  日本神話の素戔嗚尊とは伊弉諾尊から単独で生まれた三貴神とされていますが、大本教からは素戔嗚尊は月の母神である豊国姫(神界では豊雲野尊)の精霊体(御子)だと出されましたが、月の神なので「月夜見尊」でもあるのです。
                  一部の霊能者の間で素戔嗚尊=月夜見尊とされておりますが、それを知るには神界の深層(真相)に入らないと解りません。


                  そうなりますと、神の両目として「素戔嗚尊(月夜見尊)」の「ス神」論と真性「天照大御神」の「ラ神」論が成り立ちます。この二つの目(メ)は「ス」と「ラ」の御言(ミコト)です。だが本質的には「目は一つ」なのです。
                  大本教神諭に「一つの魂を二つに割って、東西で御用させてある」とありますが、これはその⦿(目)の半分は「素戔嗚尊」の神格で、半分が真性「天照大御神」の神格を保有している⦿(魂)という意味なのです。魂の半分は「瑞霊魂」であり、半分は「厳霊魂」になっているなのです。


                  皇の字は白(百引く−)の王で、九九理(ククリ)であることはスピリチュアルでも盛んに言われていることです。ただそれが「白山ククリ秘め」ばかりに向かっているので、御言(ミコト)の仕組みであることに気づかないわけです。

                  皇のミコト(御言)は、九九理(九つ花)秘めで解ける

                  スとラの目(メ)

                  私が大本教神諭予告「九つ花」から導き出したのは「米」の教えで、メシヤ(飯屋)の教えであり、「ス神の目にラ神」を置く「御言(ミコト)」と言えなくはないのです。
                  そこに、この「ス」の神と「ラ」の神で出させる「ミコト(御言)」は、「救世主・メシヤ」の意味すら出るのです。九つ花は「米」型で飯屋(メシヤ)であり九九理の「九制主」ともなるからです。


                  この日本で自分がその【スメラミコト(創造神の御子)】と称しておられる方はあります。だがそれはどこまでも御本人の自称であって、本当にその方がその該当者だと言う証拠はどこにも上がっていないと言えます。


                  一部の方の俗説に、霊的世界など絶対に認めない唯物主義の学者の間では誇大妄想と揶揄される論に、このスメラの言葉は【Sumer】であって、その言葉のルーツはメソポタミア文化のシュメール(Sumeru)からだとする説があります。
                  「SumerとSumeru」の違いです。
                  こうした論を頭ごなしに否定するは、霊的世界の存在を絶対に認めない唯物主義の学者の考え方なのです。自分自身が霊的世界に関わって神々と呼ばれる霊的存在を見て、私は日本語とシュメールの間には何らかの関わりがあると感じたのです。それは日本神界が旧約聖書の世界かと思わせることと、旧約聖書の原典を追求して行くと「シュメール神話」にぶつかるからです。
                  学者と言う方は言葉の発音記号が少し違うと別物だの一点張りになってしまい、視野が非常に狭いがあるからです。言葉はなまれば発音は違って来ますし、日本語となったポルトガルから来た言葉でも現地ポルトガルとは発音が違うのは当たり前だからです。

                  日本の皇室で使われる【十六弁菊花紋】はシュメールの遺物に太陽の徴として見られるわけですが、私が霊的に見せられたのは、この十六弁とは「菊」の意味ではなくて「光」の象徴を指していました。私が霊的に見せられたものからすると、日本の十六弁菊花紋は「天照大御神」を意味する神紋ではなくて「伊弉諾尊」の方でした。
                  私達日本人は日本神話の内容に飼い慣らされているので、どうしても天照大御神は女神だと決めつけに走ってしまいがちですが、大本教霊界物語という限定されたものにはなりますが、大本教霊界物語では「国常立尊」様が「伊弉諾尊」様を「日の神界」の主宰神と定められたとあります。その日の大神たる神紋が「十六弁菊花紋」です。

                   

                  十六と書いて「イザ」

                   

                  十六夜(いざよい)と言いますが、私は何故十六と書いて「イザ」と読むのか意味が長く解りませんでした。だが伊弉諾尊の十六弁の徴の教えで気がついたのです。そのイザの語源はよく解りませんが、イザヤ書のイザヤでは無いようなのです。

                  更に旧約聖書の原典を探って行きますと、シュメール神話へと入って行きます。しかし、古代エジプト文明とかメソポタミア文化とかシュメール文化などと論じる必要はあまりないのです。それらはたかだか数千年前の人類の歴史の話でしかないからです。

                  私達の魂は宇宙のどこからこの地球と呼ばれる星にやって来たのか?。こちらの方がより重要なことだからです。


                  大本教霊界物語に主の神【35万年前に御引退】とありますが、今の人類が知る歴史とは遙かに後の話だからです。神々の因縁とは、もっと古いことなのです。
                  ただ、今の神界は大本教神諭にある後発の神(枝葉の神)が盛んなので、根元の神の存在が忘れられてしまっていると言えます。創造神と呼ばれる様な存在の神が、貴方の現世御利益に関係しないということなのです。それらの後発の神(枝葉の神)は古代のことは何も知らないで、何を聞いても解らないなのです。
                  そうしたことはいくら考古学的な発掘をしても、古文書を研究しても明らかにするのは難しいのです。それは三次元物質界ではないから解らないなのです。

                  私は子供の頃、夜空を見上げて自分の故郷である星に帰りたいと泣いていました。その時に旧約聖書の神と名乗る声が私に臨んで、【そなたはこの世に降りた使命を果たさないのであれば、故郷の星に帰って来る必要が無い。地球と呼ばれる星で永遠に「輪廻転生」をしていなさい」と申し渡されたのです。


                  それよりも幼い頃から、自分は宇宙の星から人間界に「密命」を帯びて降ろされたと何故か知っていました。だがその「密命」が何であったかが今日迄も思い出せないのです。ですからその霊の言葉を疑問視することなく聞くことが出来たのです。
                  私は長い間自分が出た星を探しておりましたが、宇佐八幡宮の使いと称する方から「貴方はプレアデス星(スバル星)出身です。」との連絡があり、日本神道で使われている神々の名はプレアデス星のものと告げられて、日本語という言葉はプレアデス星から来ているのかも知れないと感じたのです。


                  私達人類は宇宙のどこの星から地球にやって来たのかとなりますと、プレアデスとかシリウスとかオリオンだったりしても別に不思議ではないのです。ただ、元の星に帰れなくなって地球で輪廻転生をしているなのです。

                  私達の魂の「輪廻転生」とは何もこの地球上だけの話ではなくて、宇宙の星にも転生しているのです

                  元の星の世界に帰る話が「かぐや姫」物語となるのです。世の大立替と呼ばれている一環には、自分の魂が生まれた星に帰るも含まれて来るのです。その「かぐや姫」の迎えを現代風に語ると【UFO】ともなるのです。

                   

                  各自の魂は、その魂が分派した段階を遡って行きますと、自分の魂の本体たる【正守護神・本守護神】にと遡って行き、自分が過去世には宇宙に在ったと解って来ることなのです。

                   


                   

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                  本当の霊界、仮的な霊界。この世に出ている神とこの世には出ていない神

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                    このブログの見出しに「本当の霊界、仮的な霊界」と書きました。無論、本当の霊界も仮的な霊界も無い。人は死んだら終わりだと言われも方は多いわけです。死後の世界がある等、科学的証明等は困難を極めるだけです。それ自体が神の存在証明も困難であるということになります。

                    霊的世界に少しばかり関わって、私の個人的な論理をまとめますと
                    /世梁減澆覆匹鰐気ぁよって、人に死後の世界(霊界)などは存在しない。人は死ねば終わりというものの考え方。輪廻転生論は起きる余地すらありません。
                    そうした中には仏(如来・菩薩・明王)は存在するが、人は死ねば終わりとする仏教団体も存在して来ます。では、その仏教団体は何を拝んでいるのか?。お釈迦様は人ではなかったのかと首を傾げたくなるような仏教の宗派もあります。論理的に言えば矛盾だらけの宗教も多数あります。

                    ⊇ゞ気梁減澆ら死後の世界があるとは思っているが、一部の霊能者・霊感者の霊が見えるとか、霊の言葉を聞くなどは信じられないとする懐疑派が多いように思われます。ほとんどの人には霊が見えないことから、霊が見える霊の声が聞こえることそのものを否定するに入ります。そこにあるのは真実ではなくて多数派の論理です。
                    これが万人に霊的世界が見えるであれば、霊的世界の存在は誰でも理解出来たことなのです。

                    自分が霊的体験を積んだことにより、霊的世界の存在を信じるし認めもする。ただ、霊が見える。霊声が聞こえるであっても、霊界の論理がほとんど説かれていないことから、霊界の構造も知らず霊界の怖さもまったく理解していないがあります。

                    △硫疑派の方達の中には、自分には霊的な存在が見えない。霊の声も聞いたことがないことから、霊能者と呼ばれる人達はうんくさい者(関西での方言。怪しい得たいが知れない者の意)とかインチキだという意見があります。
                    確かに霊能者として看板上げていても明らかにインチキ霊能者は存在します。金儲けだけの為の存在です。有名な某宗教団体はインチキ霊能者を先生に仕立て上げて、相談者から大金を巻き上げて裁判で次々と敗訴をしておられます。宗教の世界が詐欺を行っているなのです。

                    だが、その教団の教祖をイエスの再来だと信じている信徒達は、これだけ事実が世に明らかにされてもいっこうに目を覚まそうとされません。その教団によって洗脳された人達だからと言えます。宗教は精神世界に関わりますので、そこには洗脳もあります。信じこませてしまえば後はどのようにも料理出来るです。
                    その教団は多くの信徒を引っかけている詐欺集団と言えますが、霊界は見えない世界なので嘘やインチキが大手を振って通ります。

                    霊的世界では自分の前世は釈尊であったとか、イエスであったとか弘法大師であった等と証拠も無しに言いたい人が多数出るわけです。自分の前世を釈迦としたオーム真理教の麻原教祖などもそうした一人にしか過ぎないのです。


                    だが、霊的世界に関われる者が、そうした事象に対して関心がまったくないと言えます。そうした者は蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊に欺されているだけだで、自分だけが本物だの意識から一歩も抜け出ておられません。

                    で問題になるのは、多少なりとも霊的体験をして霊を見たり霊の声は聞いたことがある体験派です。その多くは幽霊に遭遇したり、心霊スポットなどで知られる場でカメラにオーブ等が写るで、浮遊霊とか不浄仏霊とか未成仏霊と呼ばれる霊が集まっている場所での霊との遭遇です。
                    そうした人達が見る霊的世界とは、本当の意味での霊的世界であったのかどうかなのです。そうした霊との遭遇は霊的世界が存在することを知らしめますが、それが本当の意味の霊界なのかです。広義の霊界であっても狭義の霊界ではないなのです。

                    前に何度か書きましたが、俗説として仏の声が聞こえる者は千人に一人は出て、神の声は万人に一人は聞くことが出来るとされています。そうした者が千人万人修行を積んでも、本物と呼ばれるものはたった一人しか出て来ないと言われていることなのです。霊感レベルでは霊に欺されてしまうなのです。

                    私自身もそうした霊界の欺しの中で欺されに欺されて、何が真実なのかを突き止めようとして来ました。

                    霊的世界が見える方は、確かに、その霊能力で霊を見ているし霊の声を聞いてはおられるのです。そこまでは疑いようがないわけです。問題はその先なのです。そうした人が千人万人修行しても本物と呼ばれる者は一人しか出ないとされる霊的世界で、その見る霊的世界とは如何なる世界かと言うことなのです。
                    私はこの部分を指して「仮の霊界(広義の霊界)」。「本当の霊界」とを区別する必要があるのではないかとの認識に立ったしだいなのです。怪奇現象等で知られる霊場の霊とは仮の霊界。それが私の個人的定義なのです。

                    私は少しですが「霊界見聞」をして来て、霊界は非常に嘘が多い。嘘を告げる霊が多いという事実に突き当たりました。
                    巷で自分の前世はお釈迦様であったとかイエスであったと名乗りを上げている方が多数おられますが、そうした方の背後に居る霊と、一般的に「未成仏霊」とか「不浄仏霊」などと呼ばれている欺しの霊と、それがどれだけ違うのかです。

                    もしも霊界が現実界に居る私達と深く関わっている世界ならば、私達は必要に応じて亡き父母と日常的に霊媒者を通してでも自由に会話が出来るはずです。ところが現実にはほとんどの霊との会話は出来ないのです。会話が可能な霊とは、本当の意味の霊界に旅立っていない霊浮かばれていない霊達との会話になったりするからです。


                    私の霊的修行の中で私の亡き父だと名乗って出て来た霊もありましたが、サニワをすると真っ赤なニセ者霊。私に見破られると今度は違う人の前でその方の父親霊だと名乗ったりする愉快犯霊でした。そうした霊がこの世に関わる霊界にウロウロ居るわけです。こうした霊を霊媒者が見破るではないのです。
                    霊との会話とは、この世に出て来ている御神霊とその眷属たる動物霊達や、本当の意味の霊界に渡っていない愉快犯霊とか未成仏霊とか不浄仏霊と呼ばれる浮かばれない霊とであって、天国界に渡った霊等を呼び出すは難しい話なのです。


                    実際に多くの人が見るテレビ番組での霊とは、この世を恨んでいる怨霊とか、浮かばれていない霊が集まる霊場での心霊現象です。これらの霊はこの世に生きている私達にかなりの災いを起こして来ますので、その解決は霊能者に頼るより方法はありません。どうしてもそうした霊界が番組となります。ポルター・ガイスト現象もそうしたものの一つです。その霊が本当の霊界に渡ればポルター・ガイスト現象は鎮まります。

                    もうその家は私が買収して更地にしましたが、私の家の前の家の住人の方は問題が多い方で、その方の魂を神から見せて貰ったらところ腐っていました。腐った魂など死後に助ける必要などありません。念のためにその方の魂を2番目の師匠に見て貰ったところ、「この者はミミズ」ではないかです、次の世では「ミミズ」になるとは腐った魂だからです。
                    その方が亡くなって一年後にその奥さんも亡くなられましたが、似た者夫婦だったので人としての来世は無いだろうとみていました。行くとすれば「ミミズ」の様な世界に転出です。ミミズは腐ったようなところに涌きます。

                    それから更に2年後。私の前にその夫婦霊が並んで立ち。深々と私に頭を下げて、本当にありがとうございました。あなた様のおかげをもちまして私達夫婦はこのほど【本当の霊界】に渡ることが出来ることになりましたと感謝を述べます。
                    それを聞いた私は【本当の霊界】に?と首を傾げましたが、【本当の霊界】とは次の世にも人としてまたもや生まれ出してもらえる「霊界」のことです。言うなれば、その日から本当の三途川を渡る霊界へと旅立ちなのです。


                    魂が腐っていたので、普通ならば人としての来世は無いはずです。しかし、私の背後の神霊がその腐った魂を次の世に渡る魂迄戻して、本当の霊界へと送られたわけです。その期間が3年間もかかったなのです。一度腐った魂等は神霊と言えども、簡単には元には戻しようがないのです。

                    私の本守護神は豊受の神や7〜8名の霊能者達から「国常立尊」様であると聞き及びます。その国常立尊様とは「閻魔大王」様とも言われておりますが、鬼と云う「牛虎(ウシトラ)」神としても語られるように、「魂」そのものを復活させるとか再生させる力を持った神です。その点が神社や仏閣に鎮まっている御神霊とは、まったく神界での格が違う神となるのです。


                    新聞の私が住む地方版に「幽霊が出る列車騒ぎで、警察が出動」が報道されて、私がたまたまその列車に乗車して、私が座る車窓に添って火の玉が飛んでいました。その火の玉と40分ほど付き合って、ある理由で鉄道自殺をした可哀想な女性霊と解って、本当の霊界へと送ったことがあります。それは私の背後にあると告げられる国常立尊様とは、別名閻魔大王とも言われている存在の神だから、私にもそれが出来たなのです。

                    幽霊が出て来るような霊界(この世と関わる霊界)と、本当の霊界(次の世をいただける霊界)は別の霊界なのです。私が言う本当の霊界とは、その世界に入ればもうこの世のことは思い出しません。この世の肉体の子孫が霊媒者を通じて呼び出そうしても簡単には出来ないのです。
                    その本当の霊界に入った霊がこの世の霊界に出て来る時とは、神社などの神霊としてこの世の霊界に赴任して来る時などに限られて来るのです。それがこの世に出ている神霊です。

                    大本教神諭に、「この世に出ている神々の心の持ち方が悪かったから」とあります。それは神とはこの世に出ている神だけが神ではなくて、この世に出ていない神と呼ばれる存在もあるのです。どちらかと言いますと、この世に出ていない神の方が神界での位が高い神が揃っているのです。

                    例えば、自他共に日本一だと認められる様な霊能者の方がありましても、その方が言われる神示の内容に100%の確率は存在していません。部分的には外されているはずです。
                    某有名霊能者の方でも、その方の神霊のお告げが外れている話はチョコチョコ聞きますし、テレビなどの行方不明捜査でも失敗されています。神は何でもお見通しならば、行方不明の人の透視を外してしまうでは神霊らしくありません。その霊能者の当たる確率は75%などの話も囁かれていますが、その数字そのものは神霊のお告げの確率としては非常に優秀ではあるのです。


                    神霊のお告げとは易学ではありませんので、当たるも八卦。当たらないも八卦ではないのです。より困難な分野を見て行くからです。
                    大本教の出口王仁三郎聖師が広島や長崎に新型爆弾が落ちて火の海になると予言されて的中しましたが、それは易学で言える話ではありません。易学ではどんなにやっても新型爆弾で広島や長崎が火の海になるなどが予測すら出来ないわけです。

                    しかし、日本一の御神霊であっても、その御神示に100%の確率がないという事実に突き当たるならば、霊界にはそれ以上の御神霊が存在するなのです。もしもその予言の確率が100%であれば、それはとんでもない神なのです。
                    会社でワンマン社長になれば会社内では自分の意思が通せるかも知れません。しかしそれは自分の会社のみであって、社会全体の中で自分の意思が通せるではありません。いくら神霊でも他の神霊も多数おられる中で、自分の意思だけが通るではないのです。

                    ですから神にお願いすれば何でも叶うではありません。その神霊の持つ力の範囲内に限られたことだけが叶うとなるのです。

                    私の霊界修行をお世話してくださった豊受の神の私に対する神示はことごとく外れました。さすがに不思議に思った豊受の神のお代をしていた師匠に対して、豊受の神が言われたのは、【この者の背後には、この神をもってして見通せない霊界の壁の向こうに神界が存在しており、この者はその見えない神界の力にコントロールされている為に、この神でも遺憾ともしがたし」と答えられました。

                    巷には自分は創造神だとか、自分には創造神が降りて来る式の方が多数おられますが、大予言者として知られた大本教の出口王仁三郎聖師は、正神界180段。邪神界も180段。御神霊には180段もの階級があると説かれました。
                    さすがに180段というのは階級として分かり難いもありまして、行者の世界では神の高山の合目になぞらえて神霊の高さを10合で見るがあります。その中で、この世に関わっている御神霊は最高位で8合目とされていて、まだ人類は九合目の神とか十合目の神は見ていないともされているわけです。それは私達人類が未だ知らない位の高い神々が霊界には存在するということなのです。



                    人類が知らない位の高い神=世に出ておられない神

                    大本教神諭に、【神が解っていると言う者は本当は神が解っておらず、神など解らないという者は神が解っている】があります。スピリチュアルで自分に創造神(マスター)が降りて来ると言う方が多数居られますが、これらの方は実は神が解っていない部類の方なのです。
                    神が何たるかが解っていないから、自分は創造神(マスター)と名乗る霊に簡単に引っかかるのです。自分は神が解らないからと、その霊に質問攻めにしてやればいいのです。だが、その為にはこちらもある程度の勉強はしなければなりません。人間である私が知ることが、神である貴方に解らないのですかと切り返してごらんなさい。まず黙ります。


                    世の大立替論は神界上位の神霊からは出て来ますが、下位の神霊からは一切出て来ません。それは立替論そのものが神々ですら解らない段階の神霊界から降りて来たものだからです。そこにあるのは

                    神々ですら理解出来ていない神霊の存在がある

                    私はその存在証明を日本語だけかも知れませんが【言葉の仕組み】に見たなのです。

                     


                    一部の行者間で【神霊の階級章】が言われます。それは神霊の○○大神なるぞの名乗りではなくて、その神霊の階級章が何であるかです。大本教の出口王仁三郎聖師が告げられた百八十階級でも神の高山で語る十の合目の神霊比較であっても、その階級が高いほど神霊世界では実質的に階級が上の神であることなのです。


                    例えばその神霊が天照大御神と名乗っておられても五合目の神で、方や素戔嗚尊と名乗っている御神霊が六合目であれば、六合目の素戔嗚尊と名乗る神霊の方が上位なのです。
                    私はそうしたことから、自分の前に○○大神とか天使と名乗る霊が出て来ても、その階級がどれほどの階級か解らなければ意味が無いと言います。


                    私も最初は豊受の神のお代をしていた師匠にお世話になりましたが、その師匠は同じ豊受神という名であっても、そこには順位がありますと告げられました。だが、そうしことはスピリチュアル標榜であれば、ほとんど理解がされていないのです。優秀な霊能者はそうしたことをご存じなのです。


                    そこにあるのは、自分は死後に


                    恨み霊や不浄霊や迷える霊として、この世に付随する霊界に留まるのか

                    次の人生が約束される本当の霊界に渡るのか

                    があります。

                    霊が見えたとか霊の声が聞こえたから本当の霊界に行けるではないのです。それは、多くの行者霊や霊能者霊がこの世の霊界で迷っている事実からも言えるのです。

                    私が霊的に見て来た内容は特別の内容ではありません。優秀な霊能者の方ならばご存じの事象です。ただ、私はそうした事象から論理的に導き出して来たなのです。そうした事象がありながら、誰もそこから論理を導こうとしなかったことに問題があったと言えます。

                    私が体験したのはヴェダー典にある【人の中に眠るコブラ(眼鏡蛇)が目覚めて走り上がる時、その人は「真理」に目覚める】なのです

                     

                    コブラが目覚めて走り上がって坐るのは、アラーの神の頭上とされます

                     

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                    悪も時には潤滑油で、許される悪と許されざる悪。自己本位や弱者を虐げるは赦さざれる悪

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                      悪の字は「亞」の心であり、「亞」の字には王(主の神)や司令官を亡き者として墓に葬った意味があります。主の神とは唯一神のことではありますが、私は大本教神諭が予告した「九つ花」を紐説いて出した、お釈迦様の悟りであった人に内在する「良心」神をも意味します。
                      私達は自己の魂の中に存在する「良心神(主の分魂)」を墓に葬ってしまうと、どうして「悪」の中に入り込みます。ですから、自己の良心神を失う行為を【悪】と言うのです。悪は「愛」を失うではないのです。愛だけを神の概念とすると、まるで道理すら解っていない者となってしまうのです。

                      しかしながら、私達はこの世を生きて行く為には良心神の働きである「善」のみで生きていけないことを学びます。時には自分の良心を捨てなければ生きていけないなのです。
                      生きて行くのに必死であれば、人は時には創造たる神の存在も忘れ、良心を失ってしまうこともあります。それは決して責められるものではないのです。この世に生を受けたならば、この世で生きることが第一義だからです。
                      人はこの世の苦しみに負けて「自殺」することは罪であることは、どの霊能者も語るのはそれは第一の「義」に入るからです。

                      もしも善だけを主張すれば、他の命ある物を食して生きる行為そのものまで否定されなければなりません。
                      西洋人が唱える愛とは非常に奇妙で、牛や羊の肉は喰らっても鯨の肉は喰うな。鯨が哺乳類であるのが理由ならば、牛や羊だって哺乳類なのです。事の道理を考えない間違った愛を言う人が世には多いのです。西洋人の場合はそこには白人優越主義等が見られますが、白人世界が考えた主義が正しい神の論理ではないのです。

                      ですから平気で黒人を人間と見ずに奴隷化し、また肌の色が黒いと差別します。その黒人奴隷商人の先兵となったのが一部のキリスト教の宣教師達でした。神の名を語る人の顔をした獣達の行為です。それは歴史が証明しています。
                      大本教の出口王仁三郎聖師は「地獄を覗けば牧師や僧侶で一杯だ」と書き残されましたが、神や仏の名を語った者達の卑劣な行為は地獄にしか行けないのです。神を説く者が必ずしも善人とは言えないのです。

                      日本ではキリスト教を国教として入れさせない為に鎖国制度が実施されましたが、鎖国制度以前に日本人も日本に来た西洋人の宣教師によって奴隷としてブラジルで売られていた記録がブラジルの裁判所で見つかりました。西洋人宣教師に欺されて異国に連れて行かれて売られたのでしょう。
                      もしも日本にキリスト教を入れていれば、日本も西洋の植民地化されたかも知れないのです。中国におけるアヘン戦争もその一端でした、これは「不義の戦争」と呼ばれています。英国に「義」など無かったからです。これも歴史の証明です。
                      このアヘン戦争が日本でも知られて「吉田松陰や佐久間象山」等の志士により国体を江戸幕府体制から明治維新への変革の一翼となったわけです。

                      人が人を奴隷化する。それは良心を失った者達の行為です。

                      旧約聖書にユダヤ人だけが神の選民で、他の諸国民を奴隷化するような記述がありますが、それらは自分に神が降りた式の預言者の言葉であり、その預言者に本当に神が降りていたのかどうか実は疑わしいのです。それは後の預言者が前の預言者の言葉を疑わしいと述べていることからも解ります。
                      巷には、自分には天使長ミカエルがガブリエルが降りて来る式の霊感女子が後を立たずに花盛りですが、霊界を見聞すれば蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊だらけの中で、それが本物だと言う証拠はどこにもないのです。

                      幸いこの日本では蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊も神霊として祀られますので、そうした存在があることは理解しやすいのです。しかしながら一神教の世界では、蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊の存在が説かれていない為に、霊感者に何が降りているのかの吟味がまるでされておらず、そんな存在の言葉すら預言者によって創造神からの言葉式になったきらいがあるのです。

                      基本的にどこかの民族が神の選民だとしても、それ以外の民を奴隷化するなどは本当の創造神の言葉でないことぐらい自分に「良心」神があれば解ることなのです。


                      そうした間違った預言者達による行為を正当化させているのがイスラエルと言う国家です。もしもユダヤ人に神は「良心だ!」の意識が少しでもあれば、どうしてあれだけパレスチナの人に無茶な行為が出来るでしょうか?。同じ神を抱くのであれば仲良く出来るのが本当だからです。

                      【人は言葉や肌の色は違っても、胸(宗)を開けば皆同じ】
                       宗教の宣伝使達は、その宗(胸)の教えを間違えているのです


                      私が2番目の師匠の元に居た時、私の元に立派な羊の姿をしたものが幾体かやって来ました。その名乗りは3000年ほど前のユダヤ民族の族長であったヤコブとかヨハネと名乗る羊の姿をした者達でした。
                      彼らは霊界に渡って、霊界からイエスの登場を見たとも言います。だがイエスの登場でユダヤ民族は救われなかった。事実です。それから二千年。初めて目にする「緑光」を放つ魂に、もしかしてこの人は旧約聖書に預言されている方ではないかと思い、皆で揃って私を訪ねて来たと言います。
                      これまでにも緑色の光を放つ魂の人は何人か出て来られたが、それらの方の緑光とは違っており、イエスが出していた魂の光ともまるで違う。イエスが出していた光と同じ方はこれまで幾人かおられた。貴方は初めて見る緑色の光を放つ魂の持ち主だったからと言うことでした。

                      私は子供の頃に私に臨んだ声から「私は旧約聖書」の神との名乗りを受けておりますが、旧約聖書は暗号書の様なもので表面通り読むとその意味を間違えると聞かされているので、本気で読んでいなかったのです。
                      その旧約聖書の神と名乗る声は、「そなたが本当は何者なのかは、それは神々に解らないようにしてある。そなたも自分が誰だかを知らない。されど、そうであってもそなたが誰か解らぬ神であれば、その神は使い物にはならない」と告げられたのです。
                      自分が持つ魂の色とは隠しようがないものです。しかし、誰でもその魂の色が見えるではないのです。逆に自分の魂の色を見せびらかしていると、強い力を持った邪悪な霊に取り込まれてしまうにもなるのです。

                      私はその「羊の姿」に注目したのです。当然、それは蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊などとは意味が違うのです。

                      羊の言とは「譱(善)」です

                      それは善(譱)だけでは天国には行けないなのです。世の中にはくそ真面目だけが取り柄のような善人がおられます。そうした人は「悪」を何一つされようとしません。しかし、その反面非常に小心なのです。それは神の罰が怖いから悪事をしないなのです。それでは魂に成長が見られません。

                      私は常々言っています。

                      泥水をすすったことがない「エンジェル」など使い物にならないです。私は私の前にエンジェルなど出て来ても可愛い可愛いなどはしません。私はそんなエンジェルならば泥池の中に叩き込んでやります。糞まみれ、泥まみれになって来いです。エンジェルから脱皮しろです。


                      人の苦しみ、悲しみ、涙などは自分が体験して来ないと解らないからです


                      私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、「そなたは社会の底辺を便所のウジ虫のごとく這ってでも【人の心の在り方】に関して学べ」と命じられました。

                      ですから、言葉の道として社会の底辺を「這」ったのです。

                      私は根っからの悪党ではありません。だが、「悪」をしたことなど一度も無いとは言いません。軽い法律違反の行為もしています。だが、今生では自分がした悪と善とを天秤にかければ善が遙かに上回っています。時に悪もしたけれども、それ以上の善もしたなのです。
                      私は自分が悪的なこともした人間なので、悪人だからと言ってそれを強烈に批判するだけの資質は持ちません。どうして他の人を批判出来るかです。



                      巷ではいろんな事件が起きます。そうした時、些細な事件であってもそれが有名人であればすぐに「バッシング」にいく人達が後を絶ちません。その「バッシング」する人達は、貴方に人を「バッシング」するだけの善行があるのかです。そんな人ほどその魂は汚れていたりするのです。まず、起きた出来事を学びとして自分を反省せよなのです。他の人の悪が自分を育てくれるのです。
                      だからと言って、私は悪を無条件で赦すなどの考えも持ちません。自分が犯した罪分だけは、キチンとその償いをする。支払いをするです。


                      ですから「悔い改めなさい」を説くのです。悔い改めて、自分の罪の償いをする。神の愛で何をしても赦されると説くのは、その言葉を信じた者達を地獄に叩き落とすことにしかならないからです。

                      悪には殺人や強盗や強姦などの凶悪があります。こうした悪は誰しも許されざる悪と心得るでしょう。

                      キリスト教で言われる十戒とは、カトリックとプロテスタントとで少し違いがありますが。

                      ー腓里澆鰺0譴凌世任△襪版Г瓩襪海函
                      偶像を造って拝してはいけない
                      神の名をみだりに唱えてはいけない(口に出して神の名を言うではない)
                      ぐ詑日を守りなさい(働くだけでなく休むことも大切)
                      ド稱譴魴匹い覆気
                      人を殺してはいけない
                      Т淫をしてはいけない(姦淫は不倫を含む)
                      盗んではいけない(強盗・泥棒をするな)
                      偽証してはいけない(正直者でありなさい)
                      隣人の財を欲してはいけない(他の人の幸福を妬んではいけない)

                      カトリックの場合は、姦淫してはいけないと隣人の妻を欲してはいけないと2つに別れてありますが、【不倫は文化】などの論理は唯一神には一切通じません。
                      △鉢に関して言えば、貴方の魂の中にある天帝の分魂である良心神に対して、貴方はそれを偶像として拝みますか?。また自分の良心神に対して、みだりにその名を口に出して言いますか?。なのです。
                      神名を唱えるだけでは【お題目主義】から抜けきれないのです。

                      自分の口に出してみだりに神名を言わなくても、主の神は私達人の魂の良心神として【汝と共にあり】なのです。人が自己の良心に従って進むのであれば、【人は神の子・神の宮】なのです。

                      ただ、こうした【戒律】を守っただけでは【天国門】は開かないなのです。何故ならばそこにある「十戒」などは、人としては当たり前のことだからです。

                      聖書と違い「仏教」では【五戒】が説かれます。
                      ”垰生(ふせっしょう)戒 人を殺すなだけでなく、命ある物を殺すな
                      不妄語(ふもうご)戒 嘘をついていけない
                      I墅盗(ふちゅうとう)戒 他の人の物を盗むな・泥棒をするな
                      ど埃抂(ふじゃいん)戒 聖書では姦淫。性を乱すな。不倫はするな
                      ド坩酒(ふおんじゅ)戒 酒を飲んではならない

                      不倫は他の人の物(妻・夫)を盗むと不邪淫が重なってしまいます。また人は生きて行く為に他の命ある魚とか鶏肉とか食べることまで禁じられていません。また、酒を飲んでもいけないはないのです。現実に僧侶達はお酒を【般若湯】と称して飲んでいます。酒は飲み過ぎなければ【百薬の長】でもあるのです。
                      つまりお釈迦様が本当にそんなことを説かれたかどうかは別として、宗教はもっと【道理】に沿って物事を見ることが要求されるのです。古い文章に書かれているからと、後生大事にしても意味はないのです。



                      【水清ければ魚棲まず】のことわざがあります

                      水道水は一見すると綺麗に見えます。だがその水をコップに汲んで電解すれば、コップの上にはオラオラが大量に出て来ます。それらは不純物であっても「ミネラル」なのです。もしそのミネラルが無ければ水を飲んでも人はやがて死滅します。魚もそこには棲めない水だからです。
                      そうした不純物を取り除いた水は「純水」と呼ばれていますが、人の飲料には適しません。工業用の精密機械の洗浄などに使われるわけです。純水で洗うとは機械を動かす「潤滑油」の部分まで洗い落としてしまうのです。

                      悪も人の魂を育てる「ミネラル」の要素であり

                      時には人の間をギスギスさせない潤滑油なのです

                      自分は過去世で罪を犯しました。それを恥じて「悔い改める」ならば、その悪はその魂を育てる栄養素でもあったのです。

                      悪は切り払うよりも、自己の魂に取り入れて良心で魂の栄養素にした方ほど魂は大きく成長したのです。


                      私は小心の善よりも、悪の大悟が勝ると言うのはそこにあります。

                      人は誰しも創造神は【正義の権化】だと思いたいし、そうだと信じたいのです。だが、この世のどこに正義があるのだ。悪ばかりが栄えていると憤る方もあるでしょう。
                      石川五右衛門の句とされるのは、「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」ですが、悪の種は尽きることなどはないのです。
                      ですが、悪が栄えているから【創造神】が存在しないではないのです。悪に魂を育てさせるです。



                      悪には悔い改めれば即座に赦される悪と、償いをしなければ赦されない悪が存在して来ます。その悪によって、被害者をどれほど苦しめたかです。ですから、殺人罪などは大きな罪となります。
                      また、弱者を虐めて自殺に追いやったなどは、この世では罪に問われなくても霊的世界では罪人と見なされます。
                      自己本位とか我れよしの者などは、神の裁き以前に自分で自分の魂を破砕する方向に向かって行くのです。それを救うとすれば、本人がどれほど神に対しての信仰心や感謝心を持っていたかになるのです。

                      自分は目には見えないが大宇宙・大自然を支配する万物の創造神によって生かされている。その存在に対しての感謝。自分を生かしてくれている命ある存在に感謝。自分1人では何も出来ない造れない。他の人達の協力があって生きていられる。それらに対すして感謝するであれば、貴方自身が変わっていけるのです。


                       

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