霊的世界の体験幽体離脱で学ぶ「人の子が雲に乗ってやって来る」

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    聖書を信仰する方から聞く言葉に、この世の終わりと新しき世に入る内容として【人の子が雲に乗ってやって来る】があります。聖書におけるそれらの内容は、黙示録やマルコ伝にあるわけです。

    新約聖書 マルコの福音書13章21から  イエス自身の言葉として、
    『見よ、ここにキリストがいる』『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起こって、しるしと奇跡を行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。だから気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。

    その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光をもって、【人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。そのとき、彼は御使いたちをつかわして、地の果てから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
    イエスはこの【雲に乗ってやって来る人の子】を、【彼】と呼びイエス自身のことだとは言っていなのです。それがどうしてイエスだと解釈されたのかが不思議な話ではあるのです。
    イエス自身は大予言者(大預言者)として、その弟子たちに言っているのです。


    ヨハネの黙示録14章の14から
    また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。
    すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時か来た」。
    雲の上に座している者は、そのかまを地にげ入れた。すると、地のものが刈り取られた。

    キリスト教徒は、この「人の子のような方」をイエスその方だと思っているわけです。だがイエス自身が雲に乗る人を「彼」と三人称で語ったように、それはイエス本人ではないのです。
    また、スピリチュアルで自分には天使長ミカエルとか大天使カブリエルが降りて来ると言っているような天使も、マルコの福音書に記載される「にせキリストやにせ預言者」と同様に、終わりの日の近づきには「にせ大天使」達も続出して現れるのです。今は面白いほどそうした「にせ大天使」達が出て来ています。それは単に【世の終わり】が近づいたことの現象に過ぎないのです。

    実際にそうした大天使と称する霊がスピリチュアルの方に告げた内容で、現実にその内容が予言として当たったなど、今日までどこにもないでしょう。いい加減に目を覚まさないといけないわけです。

    地の穀物の刈り取りそのものは、私は「米」教の「みろく」の仕組みで解説しましたが、それは日本語を知らない民族には解らない仕組みです。日本語を持たない西洋人には小麦の「パン」の教えだけなのです。
    大本教の出口王仁三郎聖師は日本人は「米」が主食で、西洋人の「麦」のパンの教えは副食だと説かれたように、小麦は副の二義的な意味の教えでしかありません。

    どちらにしても「実った米・麦」は新しい世(神の御国・みろくの世)に向かい、そうでなかったものは新しき世には向かわないなのです。
    だがその時とは、マルコの福音書にイエス自身の言葉にあるように、【その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる】。その到来日は天の御使いさえも知らないことであり、世に出ている神々もまた知らないことなのです。
    私は豊受の神や木花咲耶姫と名乗る御神霊から【世の大立替】が起きると聞きましたが、その時期は解らないでした。創造神でも無い神々にも時期など解る話ではないのです。

    この「人の子が雲に乗ってやって来る」に関して、世界教師(マイトレーヤ)の存在を説いている「ベンジャミン・クレーム」氏は西暦1945年にヒマヤラ神界で光合成で造られた人造人間で「飛行機」に乗ってやって来ると説きました。その人物が「マイトレーヤ」である為には、この【雲に乗ってやって来る】の言葉がどうしても外せなかったのでしょう。
    確かに、人の子が雲に乗って来るなど物理的には考えられません。飛行機に乗って来るの方が妥当性があります。しかし、飛行機に乗って来るでは、どこの誰だかさっぱり解らないとなります。

    私は大本教が「みろく(マイトレーヤ)」大神を世に大宣伝をし、大本教神諭予告「九つ花」を紐解いてその仕組みで五十六億七千万の「みろく(369)」を出せると解った時、万物の創造神たる神がなされた言葉の仕組みとは、人間の浅はかな知恵で創造神は語るようなものではないと気づかされました。
    私達人類や神々は【創造神に踊らされているのではないか?】。だから自分がみろく(マイトレーヤ)などと言ってしまうです。

    日本では天皇や徳川将軍(公方様)を【雲の上の人】と言いました。自分達の目には届かない人の存在です。普通ならば私の様な下々の者には「拝謁」出来ない存在のことです。


    私の神霊世界の修業見聞の中に【人の空中浮揚】が存在しました。万有引力に反していますので物理学では説明不可能です。それはオーム真理教の変則蛙跳びの様なものではありませんでした。だが、空中浮揚とされるものは、雲に乗るなどの高い所まで上がることは出来ません。雲の上とは完全に別なのです。

    私達は仏教画を見ると、観世音菩薩や如来達が雲に乗って来る絵を頻繁に見ます。また西遊記でおなじみの「孫悟空」は觔斗雲(きんとうん)に乗って空を飛ぶです。孫悟空は物語なのでフィクションと言えばフィクションです。
    その孫悟空は「須菩提祖師(すぼだいそし)」という仙人の弟子になり、孫悟空と言う名を与えられたとされます。この須菩提祖師(すぼだいそし)は釈迦の十大弟子の1人とされていますが、諸法皆空を悟った第一人者のことです。

    私は孫悟空という名を見た時、
    悟空は「空」を「悟った」物の意であることは簡単に理解しました。その「悟り」は「吾(わ)れ」の「心」です。自分(吾)の心を覚ることが「悟」です。「空」は般若心経の「色即是空・空即是色・受想行識」で理解出来ることです。座禅で坐ったから解るではないのです。
    私は何事も座れば解ると言う人は【座禅バカ】と言っています。単一の示(衣)しか頭の知恵が回っていないのです。同じ座るのであれば禅の開祖達磨大師の「壁面九年」の故事を知って、初めて「ダルマ(真理)」の意味が解るのです。「九」から学ぶのです。

     

    私は大本教神諭の「ダルマ(達磨)大師として現れた」を見た時、?と首を傾げました。ダルマとは「真理」のことであり、達磨(ダルマ)大師の壁面九年の事柄は壁を見つめて「九」で、壁でなく紙に「九×九」を示した意味かと勘づきました。禅は「単」を示す以上、そこから一つの事柄が見つけられるです。

     

    言葉の仕組みとは、皆さんの想像を絶するほどの仕組みで成り立っているのです。

    禅(禪)=単なる示し
    九つ花の上下左右とも「五番目の口」は「41」の位置に成り立ちます

    五番目の口で悟る心は、人に内在する良心神です

    この存在は私達の魂の内では天帝の分魂が坐る位置ですが、私達からする私達の魂の天帝の分魂は主の御子格ではなくて、主の「孫格」に当たるのです。で、「孫悟空」となるのです。

    大本教神諭が予告した「九つ花」とは、西遊記を読めば魔王が出した【九の数理盤】のことだと簡単に解るのです。

    その孫悟空の「猿」が意味することは奇魂の働きである【叡智】なのです。叡智をもっての「悟」りなのです。いくら「禅」で坐っても「単」の示(しめすへん)しにしか過ぎないのです。

    西遊記ではこの須菩提祖師(すぼだいそし)は「仙人」とされますが、この雲に乗るは仙人の術である「仙術」とされますので仙人ならば雲に乗るとなります。
    この日本で「雲に乗った仙人」として有名なのが【久米仙人】の話です。今昔物語集などではその話が語られています。仙人修行で仙術を得て雲に乗ったが、川で洗濯している女性のふくらはぎに見とれて雲から落ちてしまった。そしてその女性と結婚をして俗人となったが、その後に遷都に運ぶ木材を仙術で都に運んだことで有名になった話です。
    それはフィクションであるかどうかは解りませんが、昔話としてあっても、誰も現実に雲に乗った人など見たことはありません。しかし、霊体であれば観音菩薩や如来図で描かれるように可能な話なのです。


    よく自分が想った感じたことを全て「霊的」世界のことだとする方がありますが、それでは本当の霊界を見たとは言い切れません。間違いなく自分自身が霊界に入ったと解ることの一つに【幽体(霊体)離脱】があります。
    一部に【生き霊】を飛ばす方がいます。この【生き霊】とはその方の想念的なことであって、その生き霊の行為を全て本人が覚えているでないと本当の【幽体離脱】とは言えない面があるのです。
    幽体(霊体)離脱は自分の体から死後の世界に渡る【霊界仕様の肉体】と【魂たる意識】が完全に肉体から抜け出てしまって、地上界には殻の肉体のみが留まっている状態を指します。幽霊と同じような状態です。ただ、肉体から「霊体と魂」が抜け出ても【霊子線(西洋ではシルバー・コード)】が切断されていない限り自分の肉体に戻ることは出来ますので、そうした現象に出会っても別に心配はないのです。

    私が現在住む土地ではなくて「天之御中主」を祀る神社の側に居を構えていたある夜、ふと目覚めると布団には私が眠っています。その眠っている自分を上から私の意識が見守っているのです。よく臨死体験をされた方が語られる病院のベッドなどで自分の姿を見ている自分が居たという類いのものです。
    すると上半身から私の霊体が肉体の頭から抜け出ようとしています。俗に言う「脱皮」的要素です。私の意識は肉体に戻らないといけないと感じた時、私の耳の側ではゴーゴーと鳴る凄まじい風圧が起きていました。そのゴーゴー鳴るような風圧は、肉体から霊体が抜け出す為のものかと感じたのです。

    それらは幽体離脱をされた方の報告にあるゴーゴーと響く風圧、そして上空に引っ張り上げられる力です。そうした体験の方からはトンネルの中を通過するとありますが、その風圧の凄さがトンネルを上空に上がっている様な感触として受けただけかと想われます。
    私の肉体から抜け出た霊体はまだ横たわった状態で上昇に入ります。そこには天井があります。私がぶつかると思ったら屋根も通過します。幽霊が物質界を自在に抜けるのと同じです。霊には屋根とか壁とかの物質は関係がないのです。

    少し上空に上がったところで、当時私の世話をしてくれていた日蓮聖人さんのお弟子だった2体の僧侶霊が、私の両脇を支えるようにして上空に上がり、雲の上に私を乗せると、その雲を操縦しなさいと言います。
    イエスが亡くなった後に、イエスを支える霊達を見た報告がなされていますが、肉体から抜け出て日が浅い霊体だと上空に上昇は支えが必要なのかも知れません。

    私はどうやって雲を操縦するのかと思っていたら、なんとなく操縦法が解って、孫悟空になったような気分で面白くて面白くて飛んでいましたが、「もうこの程度でいいだろう。元の自分の元に戻れ」と言う声が響きます。
    すると、私の霊体は地上に向かって凄いスピードで頭から落下を始めます。このままでは地上に激突だと思ったところ、私の家の屋根の上で急ブレーキがかかり、私の霊体は横になると徐々に屋根を通過して布団に眠っている自分の肉体の中に入って行ったのです。
    全てが終われば、それはなんとも不思議な夢を見たなのです。だが、私の両脇を支えて上昇した日蓮聖人さんのお弟子であった2体の僧侶霊は、私の前に幾度もその姿を現した存在なので、単なる夢ではなかったと言えます。

    私は自分が霊体であっても「雲に乗る」の体験をしたので、私がその聖書に記載される該当者だと言うのではありません。それは仏教における観音菩薩や如来図に描かれるように神霊ならばどなたも「雲に乗る」の話であって、聖書にある「鎌を地に投げ入れて刈り取る者」だと言っているのではないのです。
    聖書に記載される雲の上の内容は、「霊体」ならばあり得るなのです。しかしながら、霊体で現れたならば、それを人々が見ることはほとんどないなのです。実際に大部分の人に幽霊など見えないからです。仮に肉体の人が雲に乗ったとしても、地上から見ればその人は豆粒に等しくて解らないでしょう。

    私が言いたいことは、【人の子が雲に乗ってやって来る】などは、まったくデタラメな話ではなくて、霊界に入れば如来・菩薩達が雲に乗っておられるように見る世界であって、霊界の現象で霊界が存在している証明論ではあるなのです。

     

     

     


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    【スメラミコト】って何?。私達人類は宇宙のどこからかやって来たのか?。

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      日本の神道系ではよく【スメラミコト】が言われます。それは日本の天皇を指しているとされます。しかし、漢字で言うと「皇(スメラ)尊(ミコト)」、あるいは皇(スメラ)命(ミコト)の意味であって、天皇という漢字に「スメラミコト」を当てると本質的な言葉の意味を失わせてしまいます。


      この【皇】の字は、本来は天帝たる神、万物の主宰者を意味したもので、絶対的な神に対する言葉であり、その天帝から降りた天子の意味も含めて中国で【皇帝】などに使われたのであり、日本でもそれに習って天皇家に「皇」の字を置いただけでしょう。
      そもそも【皇】の一字を「スメラ」と呼ぶことさえ、日本語の観点からするとよく意味が解らないはずなのです。中国語の字音で「皇」は「コウ・オウ」です。また皇帝の【帝】も万物を主宰する最高神の意味で、中国での字音は「テイ・タイ」となりますから皇帝と書いて中国語でコウ(皇)テイ(帝)で、私達はそのままの字音を使っています。なのにどうして「スメラ」かとなると、その源は中国からではないとなります。すると、その「スメラ」の言葉はどこから来たのかとなります。

      一部の行者・霊能者間で、この「スメラミコト」に「イエス」を当てるがあります。そこに隠された意味は「旧約聖書」に残される人類の終わりの日の前に、人類を救う為に旧約聖書の神は自分の御子を人類の上に遣わすがあります。まさに天から降り立つ創造神の御子です。その創造神の御子のことを【スメラミコト】と称する説です。それに該当したのがイエスだとの認識です。これは西洋では「キリスト」たる言葉の存在ともなるのです。


      キリスト教はナザレの「イエス」をその旧約聖書の御子「救世主・メシヤ」に仕立て上げましたが、ユダヤ教はそれを認めていません。またイスラム教の開祖ムハンマド(マホメット)も、イエスは偉大な尊敬される大預言者とはしましたが、旧約聖書に記載される人類の終わりの日の前に現れる「救世主・メシヤ」たるキリストたる存在とは認めていません。

      一部で旧約聖書に記載される「救世主・メシヤ」は日本人だと唱える方達があります。それは日本語の「スメラミコト」がその意味を持つからです。そうした中で日本の皇室絶対主義の方の中には、今生天皇(平成天皇)がその「救世主・メシヤ」たる存在とか、現皇太子がそれに該当するとか、現皇太子ではなくて「愛子」さんが該当者だとか唱えておられるような方も見受けられます。

      私が神霊界修行として日本神道の世界から入って非常に驚いたのは、日本神道とは【旧約聖書】の世界なのか?。なのです。それはやがて解って来ました。日本神道とは【旧約聖書】の世界なのです。ただユダヤ教などでは厳密な一神教ですが日本は絶対的神が消されて多神教となっているので、主体は八百万の神達となります。それ自体は神界のピラミッド構成からすると、頂点は唯一の神であり底辺は八百万の神達となります。
      例え創造神の存在が消されている日本神道でも、その存在はあると見て行くと【日ユ同祖論】も起こるべくして起こったものと言えるでしょう。


      ただ、それは今の歴史を紐解いていくら論じても解りません。霊的世界を探っていると今の人類が知らない歴史があると言えます。その為には、聖書で言われる「水による大審判(ノアの箱舟)」が有ったのではないかという考え方は必要かも知れません。ノアの箱舟の洪水以前の中東に日本人の原点もあるなのです。

      私は今生天皇(平成天皇)は、非常にご立派な天皇だと思います。しかしながら、救世主・メシヤを意味する【スメラミコト】に該当するかとなった時、それは無理筋だと言わざるおえません。人間の天皇であって神ではあられない。それでは旧約聖書が記す万物の創造神の御子たる【スメラミコト】には該当しないであろうなのです。
      日本神道で語る「天照大御神」とは、仮に皇室の先祖霊だとしても旧約聖書に記される創造神とはまったく別物だからです。創造神に天照大御神を持って来ても意味が通じません。

      私が子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声は、【日本神話の神代の話は、私が世の立替の予告の為に創作させたものであって事実の話では無い】と言われます。また、私が神霊世界に飛び込んでお世話になった豊受の神からも、日本神話の神代の話は事実では無いと承りました。だが、それが絶対的正しいとは私も申せません。
      大本教の出口王仁三郎聖師から素戔嗚尊の【ス】の神論が展開されました。その【ス】の神はそれ以後の新日本神道系の中で【主(ス)神】論として大勢を占めています。しかしその素戔嗚尊とは、日本神話の中の伊弉諾尊の御子である素戔嗚尊ではないのです。宇宙創造神に対しての【ス】の神論なのです。


      大本教で展開された霊界物語で主神は一柱神であり、霊界の愛国では主神は霊界の太陽たる天照大御神と顕現し、霊国では主神は霊界の「月」たる素戔嗚尊として顕現するとあるのもそこにあります。
      つまり全宇宙を「○」として、その中に「核」を入れますと、その「⦿(目)」は昼は天照大御神であり、夜は素戔嗚尊とするわけです。そこに出て来るのは

       

      真性【天照大御神】も素戔嗚尊も同一神



      私は大本教神諭予告【九つ花】を紐解いて【ラ】神論となりました。これは日本神話に当てはめると天之御中主であり真性【天照大御神】ともなります。その大本教から言葉は【御言(ミコト)】であると出されました。ミコトには「命」の字がありますが、全ての命は【万物の創造神のミコト(御言)】にあったは、宇宙の初発の映像からすると間違いはないのです。その大本教から出されたのは【ス】のミコト(御言)なのです。
      聖書では、これを【始めに言葉は神と共に在った】としたのです。


      日本神話の素戔嗚尊とは伊弉諾尊から単独で生まれた三貴神とされていますが、大本教からは素戔嗚尊は月の母神である豊国姫(神界では豊雲野尊)の精霊体(御子)だと出されましたが、月の神なので「月夜見尊」でもあるのです。
      一部の霊能者の間で素戔嗚尊=月夜見尊とされておりますが、それを知るには神界の深層(真相)に入らないと解りません。


      そうなりますと、神の両目として「素戔嗚尊(月夜見尊)」の「ス神」論と真性「天照大御神」の「ラ神」論が成り立ちます。この二つの目(メ)は「ス」と「ラ」の御言(ミコト)です。だが本質的には「目は一つ」なのです。
      大本教神諭に「一つの魂を二つに割って、東西で御用させてある」とありますが、これはその⦿(目)の半分は「素戔嗚尊」の神格で、半分が真性「天照大御神」の神格を保有している⦿(魂)という意味なのです。魂の半分は「瑞霊魂」であり、半分は「厳霊魂」になっているなのです。


      皇の字は白(百引く−)の王で、九九理(ククリ)であることはスピリチュアルでも盛んに言われていることです。ただそれが「白山ククリ秘め」ばかりに向かっているので、御言(ミコト)の仕組みであることに気づかないわけです。

      皇のミコト(御言)は、九九理(九つ花)秘めで解ける

      スとラの目(メ)

      私が大本教神諭予告「九つ花」から導き出したのは「米」の教えで、メシヤ(飯屋)の教えであり、「ス神の目にラ神」を置く「御言(ミコト)」と言えなくはないのです。
      そこに、この「ス」の神と「ラ」の神で出させる「ミコト(御言)」は、「救世主・メシヤ」の意味すら出るのです。九つ花は「米」型で飯屋(メシヤ)であり九九理の「九制主」ともなるからです。


      この日本で自分がその【スメラミコト(創造神の御子)】と称しておられる方はあります。だがそれはどこまでも御本人の自称であって、本当にその方がその該当者だと言う証拠はどこにも上がっていないと言えます。


      一部の方の俗説に、霊的世界など絶対に認めない唯物主義の学者の間では誇大妄想と揶揄される論に、このスメラの言葉は【Sumer】であって、その言葉のルーツはメソポタミア文化のシュメール(Sumeru)からだとする説があります。
      「SumerとSumeru」の違いです。
      こうした論を頭ごなしに否定するは、霊的世界の存在を絶対に認めない唯物主義の学者の考え方なのです。自分自身が霊的世界に関わって神々と呼ばれる霊的存在を見て、私は日本語とシュメールの間には何らかの関わりがあると感じたのです。それは日本神界が旧約聖書の世界かと思わせることと、旧約聖書の原典を追求して行くと「シュメール神話」にぶつかるからです。
      学者と言う方は言葉の発音記号が少し違うと別物だの一点張りになってしまい、視野が非常に狭いがあるからです。言葉はなまれば発音は違って来ますし、日本語となったポルトガルから来た言葉でも現地ポルトガルとは発音が違うのは当たり前だからです。

      日本の皇室で使われる【十六弁菊花紋】はシュメールの遺物に太陽の徴として見られるわけですが、私が霊的に見せられたのは、この十六弁とは「菊」の意味ではなくて「光」の象徴を指していました。私が霊的に見せられたものからすると、日本の十六弁菊花紋は「天照大御神」を意味する神紋ではなくて「伊弉諾尊」の方でした。
      私達日本人は日本神話の内容に飼い慣らされているので、どうしても天照大御神は女神だと決めつけに走ってしまいがちですが、大本教霊界物語という限定されたものにはなりますが、大本教霊界物語では「国常立尊」様が「伊弉諾尊」様を「日の神界」の主宰神と定められたとあります。その日の大神たる神紋が「十六弁菊花紋」です。

       

      十六と書いて「イザ」

       

      十六夜(いざよい)と言いますが、私は何故十六と書いて「イザ」と読むのか意味が長く解りませんでした。だが伊弉諾尊の十六弁の徴の教えで気がついたのです。そのイザの語源はよく解りませんが、イザヤ書のイザヤでは無いようなのです。

      更に旧約聖書の原典を探って行きますと、シュメール神話へと入って行きます。しかし、古代エジプト文明とかメソポタミア文化とかシュメール文化などと論じる必要はあまりないのです。それらはたかだか数千年前の人類の歴史の話でしかないからです。

      私達の魂は宇宙のどこからこの地球と呼ばれる星にやって来たのか?。こちらの方がより重要なことだからです。


      大本教霊界物語に主の神【35万年前に御引退】とありますが、今の人類が知る歴史とは遙かに後の話だからです。神々の因縁とは、もっと古いことなのです。
      ただ、今の神界は大本教神諭にある後発の神(枝葉の神)が盛んなので、根元の神の存在が忘れられてしまっていると言えます。創造神と呼ばれる様な存在の神が、貴方の現世御利益に関係しないということなのです。それらの後発の神(枝葉の神)は古代のことは何も知らないで、何を聞いても解らないなのです。
      そうしたことはいくら考古学的な発掘をしても、古文書を研究しても明らかにするのは難しいのです。それは三次元物質界ではないから解らないなのです。

      私は子供の頃、夜空を見上げて自分の故郷である星に帰りたいと泣いていました。その時に旧約聖書の神と名乗る声が私に臨んで、【そなたはこの世に降りた使命を果たさないのであれば、故郷の星に帰って来る必要が無い。地球と呼ばれる星で永遠に「輪廻転生」をしていなさい」と申し渡されたのです。


      それよりも幼い頃から、自分は宇宙の星から人間界に「密命」を帯びて降ろされたと何故か知っていました。だがその「密命」が何であったかが今日迄も思い出せないのです。ですからその霊の言葉を疑問視することなく聞くことが出来たのです。
      私は長い間自分が出た星を探しておりましたが、宇佐八幡宮の使いと称する方から「貴方はプレアデス星(スバル星)出身です。」との連絡があり、日本神道で使われている神々の名はプレアデス星のものと告げられて、日本語という言葉はプレアデス星から来ているのかも知れないと感じたのです。


      私達人類は宇宙のどこの星から地球にやって来たのかとなりますと、プレアデスとかシリウスとかオリオンだったりしても別に不思議ではないのです。ただ、元の星に帰れなくなって地球で輪廻転生をしているなのです。

      私達の魂の「輪廻転生」とは何もこの地球上だけの話ではなくて、宇宙の星にも転生しているのです

      元の星の世界に帰る話が「かぐや姫」物語となるのです。世の大立替と呼ばれている一環には、自分の魂が生まれた星に帰るも含まれて来るのです。その「かぐや姫」の迎えを現代風に語ると【UFO】ともなるのです。

       

      各自の魂は、その魂が分派した段階を遡って行きますと、自分の魂の本体たる【正守護神・本守護神】にと遡って行き、自分が過去世には宇宙に在ったと解って来ることなのです。

       


       

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      本当の霊界、仮的な霊界。この世に出ている神とこの世には出ていない神

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        このブログの見出しに「本当の霊界、仮的な霊界」と書きました。無論、本当の霊界も仮的な霊界も無い。人は死んだら終わりだと言われも方は多いわけです。死後の世界がある等、科学的証明等は困難を極めるだけです。それ自体が神の存在証明も困難であるということになります。

        霊的世界に少しばかり関わって、私の個人的な論理をまとめますと
        /世梁減澆覆匹鰐気ぁよって、人に死後の世界(霊界)などは存在しない。人は死ねば終わりというものの考え方。輪廻転生論は起きる余地すらありません。
        そうした中には仏(如来・菩薩・明王)は存在するが、人は死ねば終わりとする仏教団体も存在して来ます。では、その仏教団体は何を拝んでいるのか?。お釈迦様は人ではなかったのかと首を傾げたくなるような仏教の宗派もあります。論理的に言えば矛盾だらけの宗教も多数あります。

        ⊇ゞ気梁減澆ら死後の世界があるとは思っているが、一部の霊能者・霊感者の霊が見えるとか、霊の言葉を聞くなどは信じられないとする懐疑派が多いように思われます。ほとんどの人には霊が見えないことから、霊が見える霊の声が聞こえることそのものを否定するに入ります。そこにあるのは真実ではなくて多数派の論理です。
        これが万人に霊的世界が見えるであれば、霊的世界の存在は誰でも理解出来たことなのです。

        自分が霊的体験を積んだことにより、霊的世界の存在を信じるし認めもする。ただ、霊が見える。霊声が聞こえるであっても、霊界の論理がほとんど説かれていないことから、霊界の構造も知らず霊界の怖さもまったく理解していないがあります。

        △硫疑派の方達の中には、自分には霊的な存在が見えない。霊の声も聞いたことがないことから、霊能者と呼ばれる人達はうんくさい者(関西での方言。怪しい得たいが知れない者の意)とかインチキだという意見があります。
        確かに霊能者として看板上げていても明らかにインチキ霊能者は存在します。金儲けだけの為の存在です。有名な某宗教団体はインチキ霊能者を先生に仕立て上げて、相談者から大金を巻き上げて裁判で次々と敗訴をしておられます。宗教の世界が詐欺を行っているなのです。

        だが、その教団の教祖をイエスの再来だと信じている信徒達は、これだけ事実が世に明らかにされてもいっこうに目を覚まそうとされません。その教団によって洗脳された人達だからと言えます。宗教は精神世界に関わりますので、そこには洗脳もあります。信じこませてしまえば後はどのようにも料理出来るです。
        その教団は多くの信徒を引っかけている詐欺集団と言えますが、霊界は見えない世界なので嘘やインチキが大手を振って通ります。

        霊的世界では自分の前世は釈尊であったとか、イエスであったとか弘法大師であった等と証拠も無しに言いたい人が多数出るわけです。自分の前世を釈迦としたオーム真理教の麻原教祖などもそうした一人にしか過ぎないのです。


        だが、霊的世界に関われる者が、そうした事象に対して関心がまったくないと言えます。そうした者は蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊に欺されているだけだで、自分だけが本物だの意識から一歩も抜け出ておられません。

        で問題になるのは、多少なりとも霊的体験をして霊を見たり霊の声は聞いたことがある体験派です。その多くは幽霊に遭遇したり、心霊スポットなどで知られる場でカメラにオーブ等が写るで、浮遊霊とか不浄仏霊とか未成仏霊と呼ばれる霊が集まっている場所での霊との遭遇です。
        そうした人達が見る霊的世界とは、本当の意味での霊的世界であったのかどうかなのです。そうした霊との遭遇は霊的世界が存在することを知らしめますが、それが本当の意味の霊界なのかです。広義の霊界であっても狭義の霊界ではないなのです。

        前に何度か書きましたが、俗説として仏の声が聞こえる者は千人に一人は出て、神の声は万人に一人は聞くことが出来るとされています。そうした者が千人万人修行を積んでも、本物と呼ばれるものはたった一人しか出て来ないと言われていることなのです。霊感レベルでは霊に欺されてしまうなのです。

        私自身もそうした霊界の欺しの中で欺されに欺されて、何が真実なのかを突き止めようとして来ました。

        霊的世界が見える方は、確かに、その霊能力で霊を見ているし霊の声を聞いてはおられるのです。そこまでは疑いようがないわけです。問題はその先なのです。そうした人が千人万人修行しても本物と呼ばれる者は一人しか出ないとされる霊的世界で、その見る霊的世界とは如何なる世界かと言うことなのです。
        私はこの部分を指して「仮の霊界(広義の霊界)」。「本当の霊界」とを区別する必要があるのではないかとの認識に立ったしだいなのです。怪奇現象等で知られる霊場の霊とは仮の霊界。それが私の個人的定義なのです。

        私は少しですが「霊界見聞」をして来て、霊界は非常に嘘が多い。嘘を告げる霊が多いという事実に突き当たりました。
        巷で自分の前世はお釈迦様であったとかイエスであったと名乗りを上げている方が多数おられますが、そうした方の背後に居る霊と、一般的に「未成仏霊」とか「不浄仏霊」などと呼ばれている欺しの霊と、それがどれだけ違うのかです。

        もしも霊界が現実界に居る私達と深く関わっている世界ならば、私達は必要に応じて亡き父母と日常的に霊媒者を通してでも自由に会話が出来るはずです。ところが現実にはほとんどの霊との会話は出来ないのです。会話が可能な霊とは、本当の意味の霊界に旅立っていない霊浮かばれていない霊達との会話になったりするからです。


        私の霊的修行の中で私の亡き父だと名乗って出て来た霊もありましたが、サニワをすると真っ赤なニセ者霊。私に見破られると今度は違う人の前でその方の父親霊だと名乗ったりする愉快犯霊でした。そうした霊がこの世に関わる霊界にウロウロ居るわけです。こうした霊を霊媒者が見破るではないのです。
        霊との会話とは、この世に出て来ている御神霊とその眷属たる動物霊達や、本当の意味の霊界に渡っていない愉快犯霊とか未成仏霊とか不浄仏霊と呼ばれる浮かばれない霊とであって、天国界に渡った霊等を呼び出すは難しい話なのです。


        実際に多くの人が見るテレビ番組での霊とは、この世を恨んでいる怨霊とか、浮かばれていない霊が集まる霊場での心霊現象です。これらの霊はこの世に生きている私達にかなりの災いを起こして来ますので、その解決は霊能者に頼るより方法はありません。どうしてもそうした霊界が番組となります。ポルター・ガイスト現象もそうしたものの一つです。その霊が本当の霊界に渡ればポルター・ガイスト現象は鎮まります。

        もうその家は私が買収して更地にしましたが、私の家の前の家の住人の方は問題が多い方で、その方の魂を神から見せて貰ったらところ腐っていました。腐った魂など死後に助ける必要などありません。念のためにその方の魂を2番目の師匠に見て貰ったところ、「この者はミミズ」ではないかです、次の世では「ミミズ」になるとは腐った魂だからです。
        その方が亡くなって一年後にその奥さんも亡くなられましたが、似た者夫婦だったので人としての来世は無いだろうとみていました。行くとすれば「ミミズ」の様な世界に転出です。ミミズは腐ったようなところに涌きます。

        それから更に2年後。私の前にその夫婦霊が並んで立ち。深々と私に頭を下げて、本当にありがとうございました。あなた様のおかげをもちまして私達夫婦はこのほど【本当の霊界】に渡ることが出来ることになりましたと感謝を述べます。
        それを聞いた私は【本当の霊界】に?と首を傾げましたが、【本当の霊界】とは次の世にも人としてまたもや生まれ出してもらえる「霊界」のことです。言うなれば、その日から本当の三途川を渡る霊界へと旅立ちなのです。


        魂が腐っていたので、普通ならば人としての来世は無いはずです。しかし、私の背後の神霊がその腐った魂を次の世に渡る魂迄戻して、本当の霊界へと送られたわけです。その期間が3年間もかかったなのです。一度腐った魂等は神霊と言えども、簡単には元には戻しようがないのです。

        私の本守護神は豊受の神や7〜8名の霊能者達から「国常立尊」様であると聞き及びます。その国常立尊様とは「閻魔大王」様とも言われておりますが、鬼と云う「牛虎(ウシトラ)」神としても語られるように、「魂」そのものを復活させるとか再生させる力を持った神です。その点が神社や仏閣に鎮まっている御神霊とは、まったく神界での格が違う神となるのです。


        新聞の私が住む地方版に「幽霊が出る列車騒ぎで、警察が出動」が報道されて、私がたまたまその列車に乗車して、私が座る車窓に添って火の玉が飛んでいました。その火の玉と40分ほど付き合って、ある理由で鉄道自殺をした可哀想な女性霊と解って、本当の霊界へと送ったことがあります。それは私の背後にあると告げられる国常立尊様とは、別名閻魔大王とも言われている存在の神だから、私にもそれが出来たなのです。

        幽霊が出て来るような霊界(この世と関わる霊界)と、本当の霊界(次の世をいただける霊界)は別の霊界なのです。私が言う本当の霊界とは、その世界に入ればもうこの世のことは思い出しません。この世の肉体の子孫が霊媒者を通じて呼び出そうしても簡単には出来ないのです。
        その本当の霊界に入った霊がこの世の霊界に出て来る時とは、神社などの神霊としてこの世の霊界に赴任して来る時などに限られて来るのです。それがこの世に出ている神霊です。

        大本教神諭に、「この世に出ている神々の心の持ち方が悪かったから」とあります。それは神とはこの世に出ている神だけが神ではなくて、この世に出ていない神と呼ばれる存在もあるのです。どちらかと言いますと、この世に出ていない神の方が神界での位が高い神が揃っているのです。

        例えば、自他共に日本一だと認められる様な霊能者の方がありましても、その方が言われる神示の内容に100%の確率は存在していません。部分的には外されているはずです。
        某有名霊能者の方でも、その方の神霊のお告げが外れている話はチョコチョコ聞きますし、テレビなどの行方不明捜査でも失敗されています。神は何でもお見通しならば、行方不明の人の透視を外してしまうでは神霊らしくありません。その霊能者の当たる確率は75%などの話も囁かれていますが、その数字そのものは神霊のお告げの確率としては非常に優秀ではあるのです。


        神霊のお告げとは易学ではありませんので、当たるも八卦。当たらないも八卦ではないのです。より困難な分野を見て行くからです。
        大本教の出口王仁三郎聖師が広島や長崎に新型爆弾が落ちて火の海になると予言されて的中しましたが、それは易学で言える話ではありません。易学ではどんなにやっても新型爆弾で広島や長崎が火の海になるなどが予測すら出来ないわけです。

        しかし、日本一の御神霊であっても、その御神示に100%の確率がないという事実に突き当たるならば、霊界にはそれ以上の御神霊が存在するなのです。もしもその予言の確率が100%であれば、それはとんでもない神なのです。
        会社でワンマン社長になれば会社内では自分の意思が通せるかも知れません。しかしそれは自分の会社のみであって、社会全体の中で自分の意思が通せるではありません。いくら神霊でも他の神霊も多数おられる中で、自分の意思だけが通るではないのです。

        ですから神にお願いすれば何でも叶うではありません。その神霊の持つ力の範囲内に限られたことだけが叶うとなるのです。

        私の霊界修行をお世話してくださった豊受の神の私に対する神示はことごとく外れました。さすがに不思議に思った豊受の神のお代をしていた師匠に対して、豊受の神が言われたのは、【この者の背後には、この神をもってして見通せない霊界の壁の向こうに神界が存在しており、この者はその見えない神界の力にコントロールされている為に、この神でも遺憾ともしがたし」と答えられました。

        巷には自分は創造神だとか、自分には創造神が降りて来る式の方が多数おられますが、大予言者として知られた大本教の出口王仁三郎聖師は、正神界180段。邪神界も180段。御神霊には180段もの階級があると説かれました。
        さすがに180段というのは階級として分かり難いもありまして、行者の世界では神の高山の合目になぞらえて神霊の高さを10合で見るがあります。その中で、この世に関わっている御神霊は最高位で8合目とされていて、まだ人類は九合目の神とか十合目の神は見ていないともされているわけです。それは私達人類が未だ知らない位の高い神々が霊界には存在するということなのです。



        人類が知らない位の高い神=世に出ておられない神

        大本教神諭に、【神が解っていると言う者は本当は神が解っておらず、神など解らないという者は神が解っている】があります。スピリチュアルで自分に創造神(マスター)が降りて来ると言う方が多数居られますが、これらの方は実は神が解っていない部類の方なのです。
        神が何たるかが解っていないから、自分は創造神(マスター)と名乗る霊に簡単に引っかかるのです。自分は神が解らないからと、その霊に質問攻めにしてやればいいのです。だが、その為にはこちらもある程度の勉強はしなければなりません。人間である私が知ることが、神である貴方に解らないのですかと切り返してごらんなさい。まず黙ります。


        世の大立替論は神界上位の神霊からは出て来ますが、下位の神霊からは一切出て来ません。それは立替論そのものが神々ですら解らない段階の神霊界から降りて来たものだからです。そこにあるのは

        神々ですら理解出来ていない神霊の存在がある

        私はその存在証明を日本語だけかも知れませんが【言葉の仕組み】に見たなのです。

         


        一部の行者間で【神霊の階級章】が言われます。それは神霊の○○大神なるぞの名乗りではなくて、その神霊の階級章が何であるかです。大本教の出口王仁三郎聖師が告げられた百八十階級でも神の高山で語る十の合目の神霊比較であっても、その階級が高いほど神霊世界では実質的に階級が上の神であることなのです。


        例えばその神霊が天照大御神と名乗っておられても五合目の神で、方や素戔嗚尊と名乗っている御神霊が六合目であれば、六合目の素戔嗚尊と名乗る神霊の方が上位なのです。
        私はそうしたことから、自分の前に○○大神とか天使と名乗る霊が出て来ても、その階級がどれほどの階級か解らなければ意味が無いと言います。


        私も最初は豊受の神のお代をしていた師匠にお世話になりましたが、その師匠は同じ豊受神という名であっても、そこには順位がありますと告げられました。だが、そうしことはスピリチュアル標榜であれば、ほとんど理解がされていないのです。優秀な霊能者はそうしたことをご存じなのです。


        そこにあるのは、自分は死後に


        恨み霊や不浄霊や迷える霊として、この世に付随する霊界に留まるのか

        次の人生が約束される本当の霊界に渡るのか

        があります。

        霊が見えたとか霊の声が聞こえたから本当の霊界に行けるではないのです。それは、多くの行者霊や霊能者霊がこの世の霊界で迷っている事実からも言えるのです。

        私が霊的に見て来た内容は特別の内容ではありません。優秀な霊能者の方ならばご存じの事象です。ただ、私はそうした事象から論理的に導き出して来たなのです。そうした事象がありながら、誰もそこから論理を導こうとしなかったことに問題があったと言えます。

        私が体験したのはヴェダー典にある【人の中に眠るコブラ(眼鏡蛇)が目覚めて走り上がる時、その人は「真理」に目覚める】なのです

         

        コブラが目覚めて走り上がって坐るのは、アラーの神の頭上とされます

         

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        悪も時には潤滑油で、許される悪と許されざる悪。自己本位や弱者を虐げるは赦さざれる悪

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          悪の字は「亞」の心であり、「亞」の字には王(主の神)や司令官を亡き者として墓に葬った意味があります。主の神とは唯一神のことではありますが、私は大本教神諭が予告した「九つ花」を紐説いて出した、お釈迦様の悟りであった人に内在する「良心」神をも意味します。
          私達は自己の魂の中に存在する「良心神(主の分魂)」を墓に葬ってしまうと、どうして「悪」の中に入り込みます。ですから、自己の良心神を失う行為を【悪】と言うのです。悪は「愛」を失うではないのです。愛だけを神の概念とすると、まるで道理すら解っていない者となってしまうのです。

          しかしながら、私達はこの世を生きて行く為には良心神の働きである「善」のみで生きていけないことを学びます。時には自分の良心を捨てなければ生きていけないなのです。
          生きて行くのに必死であれば、人は時には創造たる神の存在も忘れ、良心を失ってしまうこともあります。それは決して責められるものではないのです。この世に生を受けたならば、この世で生きることが第一義だからです。
          人はこの世の苦しみに負けて「自殺」することは罪であることは、どの霊能者も語るのはそれは第一の「義」に入るからです。

          もしも善だけを主張すれば、他の命ある物を食して生きる行為そのものまで否定されなければなりません。
          西洋人が唱える愛とは非常に奇妙で、牛や羊の肉は喰らっても鯨の肉は喰うな。鯨が哺乳類であるのが理由ならば、牛や羊だって哺乳類なのです。事の道理を考えない間違った愛を言う人が世には多いのです。西洋人の場合はそこには白人優越主義等が見られますが、白人世界が考えた主義が正しい神の論理ではないのです。

          ですから平気で黒人を人間と見ずに奴隷化し、また肌の色が黒いと差別します。その黒人奴隷商人の先兵となったのが一部のキリスト教の宣教師達でした。神の名を語る人の顔をした獣達の行為です。それは歴史が証明しています。
          大本教の出口王仁三郎聖師は「地獄を覗けば牧師や僧侶で一杯だ」と書き残されましたが、神や仏の名を語った者達の卑劣な行為は地獄にしか行けないのです。神を説く者が必ずしも善人とは言えないのです。

          日本ではキリスト教を国教として入れさせない為に鎖国制度が実施されましたが、鎖国制度以前に日本人も日本に来た西洋人の宣教師によって奴隷としてブラジルで売られていた記録がブラジルの裁判所で見つかりました。西洋人宣教師に欺されて異国に連れて行かれて売られたのでしょう。
          もしも日本にキリスト教を入れていれば、日本も西洋の植民地化されたかも知れないのです。中国におけるアヘン戦争もその一端でした、これは「不義の戦争」と呼ばれています。英国に「義」など無かったからです。これも歴史の証明です。
          このアヘン戦争が日本でも知られて「吉田松陰や佐久間象山」等の志士により国体を江戸幕府体制から明治維新への変革の一翼となったわけです。

          人が人を奴隷化する。それは良心を失った者達の行為です。

          旧約聖書にユダヤ人だけが神の選民で、他の諸国民を奴隷化するような記述がありますが、それらは自分に神が降りた式の預言者の言葉であり、その預言者に本当に神が降りていたのかどうか実は疑わしいのです。それは後の預言者が前の預言者の言葉を疑わしいと述べていることからも解ります。
          巷には、自分には天使長ミカエルがガブリエルが降りて来る式の霊感女子が後を立たずに花盛りですが、霊界を見聞すれば蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊だらけの中で、それが本物だと言う証拠はどこにもないのです。

          幸いこの日本では蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊も神霊として祀られますので、そうした存在があることは理解しやすいのです。しかしながら一神教の世界では、蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊の存在が説かれていない為に、霊感者に何が降りているのかの吟味がまるでされておらず、そんな存在の言葉すら預言者によって創造神からの言葉式になったきらいがあるのです。

          基本的にどこかの民族が神の選民だとしても、それ以外の民を奴隷化するなどは本当の創造神の言葉でないことぐらい自分に「良心」神があれば解ることなのです。


          そうした間違った預言者達による行為を正当化させているのがイスラエルと言う国家です。もしもユダヤ人に神は「良心だ!」の意識が少しでもあれば、どうしてあれだけパレスチナの人に無茶な行為が出来るでしょうか?。同じ神を抱くのであれば仲良く出来るのが本当だからです。

          【人は言葉や肌の色は違っても、胸(宗)を開けば皆同じ】
           宗教の宣伝使達は、その宗(胸)の教えを間違えているのです


          私が2番目の師匠の元に居た時、私の元に立派な羊の姿をしたものが幾体かやって来ました。その名乗りは3000年ほど前のユダヤ民族の族長であったヤコブとかヨハネと名乗る羊の姿をした者達でした。
          彼らは霊界に渡って、霊界からイエスの登場を見たとも言います。だがイエスの登場でユダヤ民族は救われなかった。事実です。それから二千年。初めて目にする「緑光」を放つ魂に、もしかしてこの人は旧約聖書に預言されている方ではないかと思い、皆で揃って私を訪ねて来たと言います。
          これまでにも緑色の光を放つ魂の人は何人か出て来られたが、それらの方の緑光とは違っており、イエスが出していた魂の光ともまるで違う。イエスが出していた光と同じ方はこれまで幾人かおられた。貴方は初めて見る緑色の光を放つ魂の持ち主だったからと言うことでした。

          私は子供の頃に私に臨んだ声から「私は旧約聖書」の神との名乗りを受けておりますが、旧約聖書は暗号書の様なもので表面通り読むとその意味を間違えると聞かされているので、本気で読んでいなかったのです。
          その旧約聖書の神と名乗る声は、「そなたが本当は何者なのかは、それは神々に解らないようにしてある。そなたも自分が誰だかを知らない。されど、そうであってもそなたが誰か解らぬ神であれば、その神は使い物にはならない」と告げられたのです。
          自分が持つ魂の色とは隠しようがないものです。しかし、誰でもその魂の色が見えるではないのです。逆に自分の魂の色を見せびらかしていると、強い力を持った邪悪な霊に取り込まれてしまうにもなるのです。

          私はその「羊の姿」に注目したのです。当然、それは蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊などとは意味が違うのです。

          羊の言とは「譱(善)」です

          それは善(譱)だけでは天国には行けないなのです。世の中にはくそ真面目だけが取り柄のような善人がおられます。そうした人は「悪」を何一つされようとしません。しかし、その反面非常に小心なのです。それは神の罰が怖いから悪事をしないなのです。それでは魂に成長が見られません。

          私は常々言っています。

          泥水をすすったことがない「エンジェル」など使い物にならないです。私は私の前にエンジェルなど出て来ても可愛い可愛いなどはしません。私はそんなエンジェルならば泥池の中に叩き込んでやります。糞まみれ、泥まみれになって来いです。エンジェルから脱皮しろです。


          人の苦しみ、悲しみ、涙などは自分が体験して来ないと解らないからです


          私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、「そなたは社会の底辺を便所のウジ虫のごとく這ってでも【人の心の在り方】に関して学べ」と命じられました。

          ですから、言葉の道として社会の底辺を「這」ったのです。

          私は根っからの悪党ではありません。だが、「悪」をしたことなど一度も無いとは言いません。軽い法律違反の行為もしています。だが、今生では自分がした悪と善とを天秤にかければ善が遙かに上回っています。時に悪もしたけれども、それ以上の善もしたなのです。
          私は自分が悪的なこともした人間なので、悪人だからと言ってそれを強烈に批判するだけの資質は持ちません。どうして他の人を批判出来るかです。



          巷ではいろんな事件が起きます。そうした時、些細な事件であってもそれが有名人であればすぐに「バッシング」にいく人達が後を絶ちません。その「バッシング」する人達は、貴方に人を「バッシング」するだけの善行があるのかです。そんな人ほどその魂は汚れていたりするのです。まず、起きた出来事を学びとして自分を反省せよなのです。他の人の悪が自分を育てくれるのです。
          だからと言って、私は悪を無条件で赦すなどの考えも持ちません。自分が犯した罪分だけは、キチンとその償いをする。支払いをするです。


          ですから「悔い改めなさい」を説くのです。悔い改めて、自分の罪の償いをする。神の愛で何をしても赦されると説くのは、その言葉を信じた者達を地獄に叩き落とすことにしかならないからです。

          悪には殺人や強盗や強姦などの凶悪があります。こうした悪は誰しも許されざる悪と心得るでしょう。

          キリスト教で言われる十戒とは、カトリックとプロテスタントとで少し違いがありますが。

          ー腓里澆鰺0譴凌世任△襪版Г瓩襪海函
          偶像を造って拝してはいけない
          神の名をみだりに唱えてはいけない(口に出して神の名を言うではない)
          ぐ詑日を守りなさい(働くだけでなく休むことも大切)
          ド稱譴魴匹い覆気
          人を殺してはいけない
          Т淫をしてはいけない(姦淫は不倫を含む)
          盗んではいけない(強盗・泥棒をするな)
          偽証してはいけない(正直者でありなさい)
          隣人の財を欲してはいけない(他の人の幸福を妬んではいけない)

          カトリックの場合は、姦淫してはいけないと隣人の妻を欲してはいけないと2つに別れてありますが、【不倫は文化】などの論理は唯一神には一切通じません。
          △鉢に関して言えば、貴方の魂の中にある天帝の分魂である良心神に対して、貴方はそれを偶像として拝みますか?。また自分の良心神に対して、みだりにその名を口に出して言いますか?。なのです。
          神名を唱えるだけでは【お題目主義】から抜けきれないのです。

          自分の口に出してみだりに神名を言わなくても、主の神は私達人の魂の良心神として【汝と共にあり】なのです。人が自己の良心に従って進むのであれば、【人は神の子・神の宮】なのです。

          ただ、こうした【戒律】を守っただけでは【天国門】は開かないなのです。何故ならばそこにある「十戒」などは、人としては当たり前のことだからです。

          聖書と違い「仏教」では【五戒】が説かれます。
          ”垰生(ふせっしょう)戒 人を殺すなだけでなく、命ある物を殺すな
          不妄語(ふもうご)戒 嘘をついていけない
          I墅盗(ふちゅうとう)戒 他の人の物を盗むな・泥棒をするな
          ど埃抂(ふじゃいん)戒 聖書では姦淫。性を乱すな。不倫はするな
          ド坩酒(ふおんじゅ)戒 酒を飲んではならない

          不倫は他の人の物(妻・夫)を盗むと不邪淫が重なってしまいます。また人は生きて行く為に他の命ある魚とか鶏肉とか食べることまで禁じられていません。また、酒を飲んでもいけないはないのです。現実に僧侶達はお酒を【般若湯】と称して飲んでいます。酒は飲み過ぎなければ【百薬の長】でもあるのです。
          つまりお釈迦様が本当にそんなことを説かれたかどうかは別として、宗教はもっと【道理】に沿って物事を見ることが要求されるのです。古い文章に書かれているからと、後生大事にしても意味はないのです。



          【水清ければ魚棲まず】のことわざがあります

          水道水は一見すると綺麗に見えます。だがその水をコップに汲んで電解すれば、コップの上にはオラオラが大量に出て来ます。それらは不純物であっても「ミネラル」なのです。もしそのミネラルが無ければ水を飲んでも人はやがて死滅します。魚もそこには棲めない水だからです。
          そうした不純物を取り除いた水は「純水」と呼ばれていますが、人の飲料には適しません。工業用の精密機械の洗浄などに使われるわけです。純水で洗うとは機械を動かす「潤滑油」の部分まで洗い落としてしまうのです。

          悪も人の魂を育てる「ミネラル」の要素であり

          時には人の間をギスギスさせない潤滑油なのです

          自分は過去世で罪を犯しました。それを恥じて「悔い改める」ならば、その悪はその魂を育てる栄養素でもあったのです。

          悪は切り払うよりも、自己の魂に取り入れて良心で魂の栄養素にした方ほど魂は大きく成長したのです。


          私は小心の善よりも、悪の大悟が勝ると言うのはそこにあります。

          人は誰しも創造神は【正義の権化】だと思いたいし、そうだと信じたいのです。だが、この世のどこに正義があるのだ。悪ばかりが栄えていると憤る方もあるでしょう。
          石川五右衛門の句とされるのは、「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」ですが、悪の種は尽きることなどはないのです。
          ですが、悪が栄えているから【創造神】が存在しないではないのです。悪に魂を育てさせるです。



          悪には悔い改めれば即座に赦される悪と、償いをしなければ赦されない悪が存在して来ます。その悪によって、被害者をどれほど苦しめたかです。ですから、殺人罪などは大きな罪となります。
          また、弱者を虐めて自殺に追いやったなどは、この世では罪に問われなくても霊的世界では罪人と見なされます。
          自己本位とか我れよしの者などは、神の裁き以前に自分で自分の魂を破砕する方向に向かって行くのです。それを救うとすれば、本人がどれほど神に対しての信仰心や感謝心を持っていたかになるのです。

          自分は目には見えないが大宇宙・大自然を支配する万物の創造神によって生かされている。その存在に対しての感謝。自分を生かしてくれている命ある存在に感謝。自分1人では何も出来ない造れない。他の人達の協力があって生きていられる。それらに対すして感謝するであれば、貴方自身が変わっていけるのです。


           

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          人は神とも成れる存在。人として優れているとは霊能力に秀でているではない

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            人は神にも成れるとされています。ただ、その神とは【創造神】ではないのです。人は「創造神」その方には成れないのです。その下に存在する神の分野です。

            大本教神諭に「枝葉の神ばかりが栄えて、根元(創造神たる存在)を枯らして何とする」とありますが、人は根元神とは違うのです。
            そこを間違えて、人は1人1人が創造神だ!。そんなことを言っている方は「バカにつける薬は無し」の典型なのです。自己の力量の限界が解っていないなのです。「謙虚」を知らないなのです。
             

             

            大本教神諭に「人には神とも成れる魂が授けてあるにも関わらず」という記述が存在します。人は創造神は無理としても神社などに鎮座されている神霊程度には成れるのです。ただ、無条件ではありませんし、神社の御神霊と言えどもピンキリと言えます。
            ですから、別に神社や仏閣に静まっている神霊が特別に偉いとか地位が高い存在で、人間は下っ端だとはならないのです。お釈迦様もイエスも人としての肉体を持たれた存在ですが、その格の高さは通常の神々を上回るのです。


            考えてもみてください。稲荷の祠で神霊として鎮座する白狐がどう頑張ってもお釈迦様やイエスには成れないのです。この世に人として生まれ出て来て、お釈迦様やイエスの様に成ったならば、そちらの方が遙かに高い世界に行くなのです。
             

            人の身である時は、高い世界に進めるチャンスなのです
             

             

            神と人とを別物と思ってはいけないのです。

            だとすれば、人は神の道を目指し、神らしい人と成る努力をしないといけないのです
             

             

            ただ、お釈迦様もイエスも神仏の存在を説く方であり、無神論者ではありません。

            いくらあの方は立派な人だと言っても、無神論者であれば神への道は閉ざされるのです。それは本人が神を求めていないからです。
             

            私は霊能者をしている身ではありませんが、一応名だたる御神霊に拝謁したりはして来ました。
             

            そうした中で人を見ていて、この方の今の世の地位とか財産ではなくて、今の世を終えて霊界に帰られた時、この方は天国天人とか神霊と呼ばれる座に坐られる方だなと感じる方がママあります。そうした方は人としての基礎が出来上がっておられます。人としての魂も磨かれておられるのです。ですから天国の門も開かれて、神霊段階にと進めるのです。

            一方、自分には霊能力があり神社に行くと神霊を見る力はあると豪語されていても、これでは死後に天国門は開かないと感じる方も多数居られます。性格の問題です。
            霊の中には鼻がひん曲がるような臭い匂いを放つ霊が居ます。生前自分を偉大な者、大きな者と見せてきた行者・霊能者の死後の世界に渡っての臭い(自分は大きい)者なのでしょう。
             

             

            私は伏見稲荷山を修行場としておりましたが、そこに何十人者の信徒達を引き連れて来られた教祖を見ていて、一目見るなりなんと人格の卑しい教祖だろうと、その一団の後ろに回って付いてその一団の行動を拝見していたことがあります。
            確かに主立ったお塚でその教祖様に神霊は降りていました。だが、その教祖の人格が卑しいので降りている神霊もまた卑しいとか低い霊です。神霊が祀られている場に立ったからと言って、降りている神霊はその人の格に応じた存在でしかないのです。

            卑しい神霊を降ろすだけあって、現世御利益だけは確かのようでした。ですから信者も多数教祖と一緒に伏見稲荷山に上がって来るでした。
            こうした霊能者は世俗的なことはよく当てるのです。だが、人を導きその魂を磨くような教えはそこにないのです。

             

            それ自体は今の神霊界が現世御利益に頼る仕組みの上に成り立っているので、とやかく言えませんが、その信徒さん達が天国界に行くなどはまずないでしょう。

             

            逆に、同じ伏見稲荷山でこれはと感じた男の教祖さんを見て、その一団の後ろに付いてその教祖さんが信徒さん達に何を説くかと聞いていて感心したがあります。この教祖さんは主立ったお塚でその信徒さんに現世御利益ではなく、神霊に対する感謝と人としてあるべき道を懇々と説いていかれます。この教祖さんならば信徒さん達を天国に連れて行かれるだろうなです。

             

             

            ある方から私の元に伏見稲荷山のある社で撮られた霊的写真が送られて来て、その写真を見た時にその方に降りているのは邪心の神霊。その霊的写真は処分しなさいと忠告したのですが、そうした霊的写真が撮れたことにご本人は破棄することを拒否して、真夜中にその社に通う道を選ばれました。死後に魔界に行きたければ行けばよいで、私はその方に対する忠告は一切打ち切りました。
            その社に常時、邪心の神霊が祀られているのかどうかは解りませんが、その方が撮った霊的写真は間違いなく邪心の神霊を写しているからでした。

             

            私が伏見稲荷大社の夏祭りの宵宮。伏見稲荷山の清明瀧の横にある伏見稲荷大社の宿泊所の清明舎で師匠共々宿泊していると、クーラが無いので蚊取り線香をつけて戸を開放して眠っていると、夜中の2時か3時頃になると横の瀧場から瀧音と一緒に男性の声で「天津祝詞」や「般若心経」を上げている声が聞こえて来ます。
            行者が丑三つ時の真夜中に瀧に入って天津祝詞や般若心経を上げているのではないのです。生前は行者や神主や霊能者であった霊が、真夜中の瀧場に来て一生懸命に天津祝詞や般若心経を上げているのです。はっきり言えば、死後に天国界に進むことも出来ずに迷い霊として死後も瀧場で瀧行に励んでいるのです。

            霊場とは霊が集まる場所であり、正神とか善神が集まるではないのです。昼と真夜中では違って来たりします。そうした霊を哀れと思えども、そうした行を積まないと天国とか神の世界に行けないと思っていることが根本的間違いの元なのです。


            生前、行者や霊能者をしていて死後に天国にも行けず、何百年間も信者諸共迷っている霊等は別に珍しいことではありません。

            私が玉置神社に参拝に行った時、同行していた霊能力がある女性に平安時代と思われる行者の霊とその信徒の一団の霊が懸かって、大変なことになったことがあります。
            その前夜、その女性が十津川の温泉ホテルで1人で入浴しておられると、その風呂場で行者霊が般若心経を上げるで、その女性は霊の声に震え上がってしまわれた。霊と言えども相手に自分の裸を見られているわけですから怖いと言うよりないわけです。


            その翌日にその行者霊と何百体という信者霊を一気に上げるになってしまったのです。その女性は若豊受神の御魂の持ち主なので、半分の霊はその女性が天河弁財天を通じて、残りの半分は私が大峰山の洞川・龍泉寺で結果として上げるになりました。
            と言っても肉体の私が自分の意思で上げたではなくて、私を守護している背後霊団の霊達が私の肉体に入ってお経で上げて龍泉寺の八代龍王に託したのです。

            私は自分の肉体をそうした守護霊に貸して、自分の言葉としてお経を上げただけの話です。数体の霊ならば肉体の私のお経でも可能とはしますが、それだけの数ともなれば私個人では手に負えません。守護霊を通じて神社とか仏閣にお願いするとなります。

             

            霊的世界を見聞していますと、天国界に行けずに迷っている霊や落ちている霊は数知れません。で、そうした霊が既存の神社に参拝したら、その神社の御神霊に助けていただけた等の話はあまり聞きません。
            どちらかと言うその御神霊のお代(取次者)をしている霊能者が不憫と思って、その霊能者が御神霊にお願いすることによって、力を貸してくださるなのです。助けてくださるなのです。


            玉置神社で何百体という霊が何百年と迷っていたわけです。そこにたまたま若豊受としての分魂を持った肉体の女性が現れたのでその人に助けて欲しい霊達が懸かったことによって、天河弁財天様も力を貸されたであって、肉体を持った者が介在しないと霊だけでは単独に霊界で上がるのは困難なのです。

             

            ​はっきり言えば、神社や仏閣に鎮まっている神霊が、地獄に落ちている霊や迷っている霊を積極的に助けるなどないのです。ですからそうした霊は何百年も誰からも助けてもらえずに迷っているのです。


            行者は魔界の霊と取引すれば、霊力を得ることは出来ます。しかし、そうした霊力を得られたとしても、自分自身の天国への道は閉ざされてしまうのです。

             

            この世で霊力を得ることは、必ずしも天国に近づくにはあらず

             

            天国天人界に進むのと神霊と成るのは必ずしも同じ道ではありません。世に悪神と呼ばれる存在は多数あります。そうした悪神は天国天人界に行くではないのです。天国界は良心や正義や博愛の精神を持つ者達の世界です。

            この世を自分勝手に生きて来た者が渡る世界ではないのです。

             

            一部の方に、自分はみろく世行きの切符を数枚所持しています。その数枚の切符の中から、一枚を貴方に差し上げます等の話があります。お金で売るではありません。


            私はそうした話に別に「異論」は唱えませ。それはみろく世行きの切符を数枚持っていると言われる方の魂には正守護神が出ていて、その肉体はそれなりに神業をされています。またその切符を貰われた方も同じ系列の御神霊が背後に在ったりするからです。同じ神系列の魂の誼(よしみ)です。
            それはスピリチュアルで言うソウルメイトの話ではなくて、背後の御神霊が同一系統だから起きる話です。

             

             

            スピリチュアルの言葉を世に広めたのは霊能者は江原敬之さんで、それはご自身が豪語されています。確かに霊的なことはよく見えておられます。しかし、江原敬之さんは落ちている霊を救う。不浄仏霊を助ける力がまったく無いこともオーラの泉などのテレビを見ていたら誰の目にも明らかでした。
            それは霊的な事柄を見る能力と、霊を助ける力とでは違うということなのです。
             

            そうした超常現象を紹介するテレビでも、なんとなく見ているではなくて、深い洞察力で見ていれば霊界の仕組みはある程度解るのです。

             

            テレビなどのあの方の前世は何々であった等、人は輪廻転生の過去を背負って現在があるのであって、過去世のことをほじくり返すなどはほとんど意味も必要もないことだからです。
             

            今の人生をもって、霊界の位置が決まると言われるように

             

            誰しも「今生が勝負」であって、過去世の勝負ではないのです

             

             

            自分は過去世で高い姫であった。そんなことを言われても、今の貴方に何の関係があるのですかなのです。過去世が過去世がと言って、過去世の自分の地位が今の世に戻って来るではないのです。

             

            常に今生が神上がりの勝負時なのです

             

            今生の自分の生き方が、死後の霊界での天国行きや神上がりをするなのです。

            他人さんが自分を上げてくれるのではないのです。自分自身の道なのです。


            それは人の身である時がチャンスなのです。


            霊界に入ってからでは遅いのです(それでは後の祭りよ)

             

             

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            永遠の命たる【魂】を保つ為に、自己の意識(意思)に高い志を持つ

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              私達の魂は「永遠に不滅」だ!。そうしたことがよく叫ばれます。魂は不滅だから、肉体は朽ちて死しても魂は残り。また、人としてこの世に生まれて出て来ます。それの一連の過程が【輪廻転生】と呼ばれることになります。

              本当にそうなのでしょうか?。私達の目に霊能力と呼ばれる霊眼がない限り、その魂と呼ばれるものを見るなどは出来ません。不可能です。もしも近代科学で解るようなものならば、医師達や科学者達は既に見つけていただでしょう。
              科学や医学がどれほど発達しようが、どれほど秀でた科学者や医学者が誕生しようが、その人に霊能力が無い限り魂を見るなどは不可能なのです。機器で魂の計測は無理です。肉体から魂を取り出すは科学では無理です。
              だが、希に写真に「魂」が写ることがあります。それは偶然であっても写真を撮った方が霊的な要素を持った方であることが要件となります。

              それはスピリチュアルで写真に写ったと言ってありがたがる「オーブ」のことではないのですが、ただ、オーブも魂と似た存在とは言えます。
              それは魂とは【意識】を持った玉型の思惟たる「玉思惟」であり、オーブは「残留思念」等と呼ばれておりますが、どちらも玉型の【意識・心】の一端だと言えるからです。思惟とは「根本を深く考える」ことです。人を恨み死ねんなどは私怨(思念)なのです。
              霊的世界に関わっていますと、恨みとかで肉体は滅びでも「死ねん」で迷っている霊にぶつかるわけです。

              一部の方しかあまり言われませんが、人の【意識・心】は想念として時には「生き霊」となって独立行動もします。人を恨めば、その恨みは「霊」として生き続けているなのです。何故にそのようなことが起きるかです。そこには宇宙の成り立ちが原因としてあるからです。


              この宇宙の初めには何も存在していませんでした。だが、宇宙の初めに霊的な【意識】が存在したのです。私はこの霊的意識の事を宇宙の【想像神】と言って来ました。創造神ではありません。想像神です。
              この想像神の【意識(想い)】から万物の「創造」にと入ったのです。そこに言葉とは「音」派(葉)であることの認識が必要なのです。


              意識=【音の心たる「言」】+識は言と音の戒め


              言葉とは【音】派(葉)であり、これを秘めることを【音秘め】と言います。この「音秘め」とは「龍神」だったのです。ただ、その龍神とは聖書に記載される「霊界で年老いた大蛇霊」とは別物です。
              また霊能者達が見る神社に鎮座する龍神のことではないのです。宇宙そのものを創成した「言の龍神」のことです。
              それを単に【言霊】と言ってしまいますと、「言葉は神なりき」の意味が解けなくなるのです。

              大正時代の大本教から出された神霊界と呼ばれる機関誌に、みろく大神(五六七)の命により金龍である大国常立尊、銀龍である豊雲野尊を始めとする宇宙の龍神達によって宇宙が創成されたとあるようですが、この「意(音の心)」であり、聖書で言えば【始めに言葉は神と共に在った】となるのです。

              人の姿たる神の存在とは、宇宙創造を終えた龍神達が使命を終えたことで龍体を脱いで人の姿に変わった。そこから人の姿の神の存在が始まったとされるわけです。で、人は人の姿をしている時がもっとも神に近づいている時なのです。この段階が天津神と言われています。
              時々、自分が過去世において龍と呼ばれる存在であったことを記憶している方がありますが、宇宙創成に関わった時期の記憶なのです。

              聖書を持ち出して来ると、神は言葉で何々在れと言われたら六日間でこの世が創られた。そして七日目が安息日ですが、それは今が神代七代と言われる時であり、それまでに途方も無い月日を経過しているのです。決して6日ではありません。
              みろくの世とは「8」の世。無限(∞)の世と言われるのは、今が「7の世」であるから次の世のことなのです。7の次は8です。そうした理解無しに進むと、創造神の意図が見えて来ません。

              これだけ「言葉の仕組み」に示されているにも関わらず、低級霊が見せる光景とかその霊の声に踊らされてしまいますと、創造神が意図される本質を見失うことになりかねません。

              私は豊受神や此花咲耶姫神から天帝(創造神)による立替で人類は1人も残らないと聞かされても別に驚きません。何故ならば私達人類は今日まで【輪廻転生】をして来た存在であり、そうした修羅場を過去にもくぐって来ているからです。人類にとって最大の【修羅】場は、ラ神で説明した【羅(ラ)】の輪廻転生なのです。

              この宇宙は【想像神】の意識から創造されたのです。そして、私達も「意識(魂)」を持ち続ける限り、そこに魂の命たる【死】等は存在しえないのです。

              問題は、魂(意識・心)は永遠に不滅!なのか?。どうかなのです
               
              霊的世界において魂とよく似た【残留思念】を消してしまうことは人間で言う殺人の「殺魂」には当たりません。それは「思念」だからです。単に「想い・思い」が重くなって塊となったことだからです。
              霊的浄化と呼ばれるものをする時は、そうした「残留思念」を消して行く作業があります。そうした霊的浄化はスピリチュアルは金儲けだ式の方はされることはありませんので、あまり意味がよく理解が出来ていない分野ではあるのです。

               
              人が自分が生きていると実感するのは【想う・思う】からであり、「思う・想う」ことそのものがエネルギーの発散であり、人が想った(思った)ことはエネルギーとして出て行くことにより「思念」が創られるからです。
               
              そして私達の肉体が【想う・思う】ことを止めてしまうと、そこに肉体は存在していても「生きてはいない」と同じ状態に入り込んでしまいます。私達が「死」と呼んでいるのは、肉体がその「想う・思う」を止めたことにあります。肉体を持った人の場合その魂の宿る場所は肉体の心臓なので、心臓停止を以て肉体の「死」と定義することに何等問題がないのです。
              一方、脳死がありますが、脳死をすればこちらも「想う・思う」にはなりません。肉体を動かす指揮命令系統が破壊されるからです。機械的に心臓を動かしても、「想う・思う」が無くなれば、それは肉体としては「死」んだのと同じなのです。

               
              仏教において「輪廻転生」からの解脱として「無我」が説かれました
               
              無我に成る=自己の意識を持たない。個々の魂にとって「無我」に成ると言うことは自分という存在を消すことです。
              自分という「自我」を消せば、もう「生きている」ではありませんので、そこに【喜怒哀楽】は存在しなくなります。喜怒哀楽は思う(想う)ことから生じるからです。当然そこに苦は無くても逆の楽しいもありません。そこに在るのは「空」のみなのです。
               
              この仏教の教えは【理論】としては正しいのですが、果たしてそれは魂論としては【正解】なのかということなのです。

               
              永遠の命である魂を生かせるということは、善であれ悪であれ「意識・心」を働かせるなのです

               
              大本教神諭と出されました神示に、【人は自我があっても行けないし、自我がなくても行けない】とあります。完全【無我】となりますと、魂の死につながるからです。

               
              人は誰しも「欲望」があります。欲望があるから人より頑張れる。努力もします。欲望が悪いのではなくて、【我欲】が行けないのです。
              我欲とは、【自分さえよければそれでよい】という身勝手です。自己本位。自己中心です。人は改心・悔い改めすれば次の世もあると言うのは【我欲】からの脱却なのです。
               
              私が出会ったある悪党は、人は死ねば終わりだ。人は神には成れない。死ねば終わりだから悪をしないと損をする。神は人が困った時だけに助ければいいのだと言いました。その悪党も困った時には神頼みで、霊能者の元に相談に行くのです。神社に祀られている神霊と人間とが別物だと思っているからです。
               
              それは、仏教においては最初に【魂(鬼が云う)】論が出されていなかったことがそうさせたのかも知れません。自分に魂があるのならば、その魂はどうあるべきかが論議されていなければならなかったからです。
               
              幸い日本では古来より「日本は言霊の幸はふ国」であり、明治に大本教と呼ばれる宗教から「節分の炒り豆の鬼」と日本の「国に常に立つ御言(国常立尊)」として日本語の言霊の一つである「ス」神論が展開されたことにより、鬼が云うの魂論で【言葉の神】の存在を浮き彫りに出来たわけです。
              そこに日本語は言葉そのものが「神学」の紐解きに結びついていて、「魂」論から創造神の存在を知ることが可能となっていたわけです。
              日本語を知れば創造神が存在すると解る日本で、ミカエルだとかガブリエルだ等必は要無きものなのです。
               
              生きるとは、息(自分の心)を吸うことであり。「想い・思い」で活(いき)きることなのです。
              では、魂は【永遠に不滅】なのでしょうか?。
               
              私は魂の修業場で在るこの世において、腐った魂や捻れた魂を拝見するがありました。今の私達に与えられている魂は腐ったり潰れたりします。それは魂とは、決して「永遠に不滅」の存在ではないと言うことなのです。
               
              幽霊などと呼ばれる霊などは非常に「思い・想い」が強くて、自分の肉体が死んだ土地などに地縛霊化しています。その霊の「思い・想い」などを聞いてあげて、祝詞やお経などでどうか成仏してください式で行くと、その「思い・想い」を捨ててくれた時、本当の霊界にと旅だってくれたりするわけです。
              一部のスピリチュアルでは神は「光だ!」「愛だ!」のお題目主義で何をしても赦されるだとバカげたことを言う方が後を絶ちません。そんなスピリチュアルは、貴方はそんなに地獄界に行きたいのですか?。なのです。
               
              他人を恨めば恨むほどその「思念」のエネルギーは強まって、「私怨」として生き続けることになるわけです。ただ、「思念」は時が流れることで風化にさらされて消えて行くがあります。そこには「思念」は元々永遠性はないのです。そこが魂と思念の大きな違いとは言えます。
               
              私が子供の頃に臨んだ声は、人は生まれて死んで生まれて死んでを繰り返していると告げられました。だが、魂の修業場で在るこの世に転出して「刹那心(この世の僅かな時間)」に溺れて、永遠の命で在る「魂」を腐らせたり潰してはいけないとも告げられたのです。
               
              精神世界においは「死と再生」論があります。だが、こうした死と再生論は輪廻転生とは異にします。
              例えば私達が住む地球のような星であっても太陽のような恒星であっても、膨大な年月を経ればやがて星の終焉としての死の訪れを迎えます。星は爆発してブラックホールに飲み込まれて新しい星にと生まれ変わります。されど、それは星の「死と再生」であっても、人の輪廻転生ではないのです。
               
              私達の魂はこの世の肉体の死を以て霊界にと帰りますが、全ての魂が星の様に粉々にされてまたこの世に出るではありません。生まれ出る場所の環境において魂にその考え方や思考に変化は起きますが、魂の意識たる本質的なことは昔より受け継いでいるのです。ですから同じ親から生まれた子供でもその「性格」を異にするのです。
               
              そうした過去世の自分のことを「前世」と言いますが、私達が前世を記憶していないのは「神の温情」からなのです。本当に神上がりが出来たような方は、よほどの使命がない限りこの世には降りて来ないからです。自分は何万回とこの世に降りて来た等は、それは自分の過去の行動はほとんど失敗だらけだったに過ぎないのです。
               
              私は何人かの凄まじい人生を送っておられる方を拝見しましたが、それは過去世におけるその方の罪からです。一般的には【カルマ】として語られますが、カルマを「軽魔」だと思っていると、人によっては恐ろしいほどの出方をするのです。その凄まじい段階だと霊能者でござい。神でございでどうにかなるではないのです。
               
              私達にとって必要なことは、永遠の命であるところの魂を汚さない。そして自己の魂を高める為には、【高い志(意思)】を持たないと行けないのです


              高い志を持つ意志(石)は宝石のごとく、高い志なくば魂を磨いても光らぬ石となる


               

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              この世の法は全ての人を裁けない。為に人には良心があるから人で、良心無き者は人で無しの獣

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                先日、古いテレビ番組の再放送ドラマを録画して見ていました。捜査検事の物語です。捜査検事とは裁判所の裁判に出る検事ではなくて、検察庁で被疑者を取り調べて起訴するか不起訴にするかを決める捜査担当の検事です。
                そのドラマの捜査検事のセリフを聞いていて、その言葉は検事や警察官であれば誰しも言う常識的内容かも知れません。だが、精神世界ではそれが常識として思われていないのです。ある意味、現在の神界は大本教神諭に「世に出ておられる神々が四つ足である」ことを暴くぞとある様に異常なのです。故に創造神(天帝)による立替論が生じているとも言えるのです。
                このことは再度記事にした方がいいかとブログの記事を一本書くことにしました。

                そのドラマの中で被疑者は検事に向かって言います。そのドラマのセリフ通りではありません。骨子です。

                この世の勝ち組は何かしらの悪事をしている。悪をしなければ勝ち組として残れない。法は全ての人を裁けていない。たまたま自分は運が悪かったから、こうして捕まることになっただけだ。

                すると捜査検事は言います。法があるからと言って法で全ての人を裁けません。為に【人には良心があるのです。人は良心があるから人であって、良心を持たない人などは人の顔をしている獣です】。
                その言葉は単にドラマの中の捜査検事の一セリフです。しかし、神霊だ神だと騒いで神社に言っても、そのセリフを参って来た者に口に出せるだけの神霊が居られるのかなのです。

                自己に良心を持たないは獣と同じこと(天帝が言われる人とは良心がある者)
                ​獣に愛はあっても良心は無い
                私はこのことを何度も言って来ました。【人の顔をしていても、その魂は毛物(獣)】と説明して来ました。
                 
                私の神霊世界における修業の導きは豊受神のお代を勤めていた女性霊能者でした。当時の日本で10本指に入るとされていた実践派の実力霊能者です。スピリチュアル等と言う低いものではありませんでした。100日間断食を2度積んだような修行の猛者です。

                スピリチュアルの言葉を広めた某霊能者は幾多の霊能者・霊感者達から狸霊だと言われておられるようですが、スピリチュアルでは何の魂の磨きにもさほどつながらないからです。天帝の宝(タカラ)を抜いて殻(から)にしてしまう「タ抜き」の教えだからです。
                その師匠がこの世を去る前に、豊受神の命令で書かれた著書には「自分は神様とは蛇霊や狐霊だと思っています」と書き残しています。その師匠はスピリチュアルで自分にはミカエルだカブリエルが降りて来る式の霊感者ではありませんでした。
                 
                私が神霊世界に修業に入って気がついたのは、【神とは良心を失った者達か?】でした。
                その師匠が最後に残す物として豊受神の命令で書いた著書にあるように、神霊と呼ばれている存在は人の姿で見えていても、その実態のほとんどは蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊や犬霊等の動物姿や爬虫類姿や鳥姿で語られる霊なのです。ただ、ある神示では白狐ならば天も許すとされているわけです。

                当時、私は動物霊達は神霊に成っているのに、どうして人は死して神に成れないのか?。大いなる疑問に襲われていたわけです。そこにあったのが【ミカエル(身変える)】現象だったわけです。
                 
                私は大本教神諭に残された「九つ花」によって、56億7千万の「みろく」の意味を引き出すことが出来ました。「米」教です。その答えはお釈迦様の悟りであった【人には良心と呼ばれる神が内在する】の引き出しでした。
                お釈迦様の教えを忘れた人達に対して、56億7千万後に現れてお釈迦様の悟りの教えを告げるのが「弥勒菩薩」とされているのですが、実によく出来た言葉の仕組みであったわけです。
                 
                だが、私は言葉の仕組みの解読の教えは出来ますが、霊能者としての霊的力はまったく持ち合わせておりません。私が子供の頃に臨んだ声は、【そなたにこの私の力を授けるのは最後の最後の時である】で、それまではそなたには何の力を与えないで、低級霊の傍若無人の暴れぶりも見ていても阻止すら出来ません。力を持たない悲哀も感じてはいます。
                勝てば官軍。負ければ賊軍の力に頼る今の神霊界において、言葉の仕組みの解読がどれほど人々の役に立つのかは私にもよく解りません。
                 
                低級霊は非常に面白くて、人の行動を常に監視しています。昨日、貴方は誰と出会って何をしただろう。夕食に何を食べただろう。そうしたことを簡単に当てて来ます。だがそうした当て物がよく当たるからと言って、どこどこに大地震が起きるなどを事前に当てられないがあります。また世の大変動も予測出来ないのです。
                私の修業の世話をしてくださった豊受神は、事前に阪神淡路大震災や普賢岳爆発など数々のことをその師匠に言い当てられていましたが、世の大きな動きを数々予言されて的中された大本教の出口王仁三郎聖師のような方と、巷の霊感者に何の中味も無いメッセージを降ろす霊とでは根本的に違うがあります。

                自分が誰と出会って何をしようが、何を食べようがどうでもいいことなのです。それは霊的世界が在るの証拠の一端であって、中味的には意味の無いことです。ところがそうした当て物に夢中になってしまうと、低級霊の嘘の名乗りの神名や天使名にコロリと欺されてしまうとなります。それがスピリチュアルとしての入り口にしか過ぎません。問題はそこから先なのです。

                 
                私がいくら人に内在する「良心」神を説いても、低級霊にコロリと欺されているスピリチュアルでは、何をしても神の愛で赦されるとか、愛ばかりを言って自分を悔い改めるとか恥じる等の言葉は一切出されません。そもそも他の話を聞こうともされません。自分に見えた光景とか聞こえた霊声の押しつけばかりです。
                私自身が2番目の師匠の元で、国常立尊と名乗る神霊の奇跡力にそれが【ニセの国常立尊】と解らずに引っかかった口ですから、決して人に大きな事は言えませんが、たとえその霊が天之御中主とか国常立尊と名乗っても本物とは思うなです。疑ってかかって、本物ならばその証拠を出せと迫ってもいいのです。それは奇跡力ではなく、人としての在り方とか神としての在り方を聞いていけば、低級神霊はまずボロを出します。神だ神だと思わせることだけに集中しているからです。
                これだけニセ神が世に横行していると、本物の天之御中主とか国常立尊であれば、疑ったとして赦されてその証拠を見せてくださるでしょう。決して私を疑うのかと叱られるもないでしょう。しかし、その前にスピリチュアルで出て来るような低級な存在ではないのです。

                私は子供の頃、検事に成りたかったのです。子供の頃から誰よりも正義感が強く、担任教諭からあまりにも正義感が強すぎる。それでは社会人となって社会では生きていけませんと注意を受けましたが、社会の権力者の悪には鬼の検事として、弱い立場の人達の前には仏の検事としてと立ちたかったのです。
                しかし、早くして父親が死に赤貧の中にあり、夜学に通って法律を学びなんとしてでも司法試験を受けようと思ったのですが、諸般の事情によりまったく違った道にと行かされてしまいました。
                 
                私が子供の頃、私に臨んだ声は「そなたを社会の底辺に置く。その社会の底辺で人の心のあり方に関して学ばさせる」であって、それは鬼の検事になる道ではなかったと言えます。
                 
                しかし、神霊世界に関わって自分は地獄閻魔庁と深い関わりを持っていると判って来ました。豊受様から貴方の本守護神は国常立尊様ですと指摘されましたが、他に7〜8名の霊能者の方からも貴方の本守護神は国常立尊様です。また天之御中主様とか閻魔大王様ですとも指摘を受けて来ました。
                この国常立尊様とは天では「天之御中主」とされ、仏教での地獄の「閻魔大王」その方だと言われています。私自身は国常立尊様の御姿は拝見したのか拝見していないのか定かではありません。どなたも私の前では一切名乗られないので、皇帝の様な姿の方を見てもそれが誰だかよく判りません。が、閻魔大王としての方は日蓮聖人と一緒に出て来られたことで解りました。
                 
                また私自身が自分ほど優れた神通力者は居ないと豪語する方から、おまえは生意気だから殺すと天狗を連れて攻撃された時、閻魔庁の衛士達がその天狗を捕獲して羽根落としの刑に処すがありました。その後に大天狗達から末端の天狗達は貴方が本当は誰かを知っておりませんので粗相がありましたと天狗界の不始末として詫び状をいただきましたので、閻魔庁に守られているはあります。
                 
                地獄の判官とは、この世の裁判官と検事と弁護士の3役を同時に受け持っており、それだけにそこには自己の「私利私欲」があってはいけないのです。常に中立と公正の判断が要求されます。また私利私欲でない「情」も必要なのです。時には法の杓子定規の規定ではなく、何故にその人はそうなったのかの背後を見て、情による酌量の判断もしなければならないのです。
                 
                それは法では何も解決しないがあるからです
                 
                私が見た古いドラマの捜査検事が言った言葉のように、この世の法は悪も見つからなければ世の表に出て来なければ見逃されてしまいます。しかし、人には「良心」と呼ばれるものがあるのです。その良心が在れば人で在り、その良心を持たなければもはや人では無い獣(魂は毛物)なのです。
                神々がいくら貴族の様な服装や十二単衣で現れても、蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊や犬霊であったりで、それは【天帝の法】により真の霊力を持った者にはその姿を見破られてしまうのです。良心が無い者は人の姿をしていても人では無い人の姿をした獣なのです。

                 
                こうしたことは別に私が「米」教をもってして、人に内在する良心神をここまで説明するほどのことではなくて、人に内在する良心神はお釈迦様の本当の悟りで在った様に、人ならば誰しも本質的に持っており、他から教えを受けなければ解らないというものではなかったはずなのです。私達は本質的に感じていることなのです。解っていたことなのです。

                古来より言われる良心の呵責です
                 
                良心の呵責が無い者、それはもはや人ではないのです

                ​単に人の顔をした獣(魂は毛物)に過ぎないのです




                 
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                八月十八日から土中で実った「米」も陽光へと向かう。ラリルレロ(ラロルレリ)

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                  米教の教えは昨月の七月半ばで終えるようにとのことで、一つの区切りとして終了しました。これから先は「みろく世」に向かう為の「みのおわり」にと走ることになるからです。
                   

                   

                  七月半ば迄に説き終えて、私に神之公園と名乗れと出たので新しい事柄が起きるのかと思っていましたが、これから先は女子達の演技になるようなので私にどれだけの出番があるのかとなります。
                   

                   

                  この「みのおわり」とは、大予言者であった大本教の出口王仁三郎聖師の遺言とされる手紙に書かれた「時節を待っていたならば、みのか尾張の国の中から現れる誠の女子」で世間に知られた内容からのものですが、霊界物語第十三巻「信天翁」の中に収録されていて、それが世に知られています。
                   
                  あまり神の仕組を理解されていない方は、単純に自分が美濃か尾張の国の出身だから該当者だと勘違いされてる方も多々見られましたが、その本義は「巳(蛇)の終わり」や「身の終わり」であることは私以外にも説かれて来たことではあります。
                  その中で私自身が首を傾げていたことに「みのおわり」には「実の終わり」もあるのではないかです。だが、「実の終わり」だとすれば、それが何を指すのかが、もう一つピント来ませんでした。
                   
                  この「八月十八日」の未明に、「八十八の米」と出て来ました。それ自体は「八十八」歳の時を「米寿」とすることは古来より知られています。米の字を分解すれば「八十八」になるからです。
                   
                  米寿=よねの祝い  米には「世根」がある
                   
                  しかし八月十八日などは年に一度は必ず来る日です。その年が明らかではないのです。だが、この「八月十八日」として出たのは「大地の中にも米が実った」です。だが、それだけでは誰であっても意味は解けません。私自身、かねてより疑問に思っていたことに「チカラ(力)」があります。

                  このチカラ(力)とは、【地下のラ神】を意味します。私達は神とは天に在る存在と錯覚していますが、地の中にもあるからです。
                  この地球の核(コア)は5,000度から6,000度の温度と推定されています。熱源を持っているわけです。地球内にそうした熱源があることで、溶けた岩石のマグマの噴き出しなどもあるわけです。
                  木曽の御嶽山が噴火して多くの方が犠牲になられましたが、いくら山頂にお宮を祀ったところで、そうしたエネルギーが火を噴けばひとたまりも無いのです。

                  神と言うのは別に神社や仏閣に奉られている霊だけが神ではありません。火水と書いて「かみ」と言うようにエネルギーをも指すからです。神と言う時は、それがどれほどの力を持った存在かが問題であって、何の力も無い霊の自称天使長などの言葉に踊らされるよりも、どれだけその霊に実力があるかが重要なのです。
                  私は日本語という限定された言葉であっても言葉の仕組みをした存在の神とは、神社や仏閣に奉られている神霊とは比較にはならない先見の明を持った存在だと言っているのは、そこにあるのです。

                  多くの霊感者の方が「みろく世」を告げられて、何もしなくてもこの地球が五次元世界に次元上昇するのだと告げられておりますが、この地球を自転公転させているエネルギーのことを何一つ言われようとされておりません。そのエネルギーがコントロール出来なくなったら、人類はいくら地球に残っても未来は見通せないのです。

                  みろく世の仕組みとは先見の明を持った存在の神が、この地球という星に起きるであろう危険な事柄に関して、人類を救おうとされる為に、一部の霊能者の方達がバックアップ地球とか予備地球と言われておりますが、新しい地球に人類を移す大作戦計画の一端とも言えるわけです。
                  だが、全ての人を無条件に新しい地球に移行させれば人類はまたもや同じ轍を踏む。過ちを犯すとなります。そこに世の大立替が予告されているとなります。
                   
                  そこにどれだけの者が創造神の意を受けて、神界の御用に走るかがあります。誰も何もしなければ、いかに創造神のご計画があるとしてもその計画は水泡に帰します。

                  この「8月18日」に私の元に一通のメールが届きました。

                  その中で私に対する質問があり、遂に世に出ておられる神々がそれを言われたかがありますので、神々が公に言われた以上、世に公にすべきことかと思い、その説明をさせて頂きます。
                   
                  質問内容の抜粋
                   
                  ****************************************************************************
                  3つ目は、エビス様なのか大国様なのか?楽しげに歌う声でした。ラリルレロは神の御名
                  寿ぎ・寿ぐ・寿げよと
                   
                  一番気になったのは、3つ目です。弥勒の世が迫っているということを教えて頂けたのかなと思いました。
                  *****************************************************************************
                  この「ラリルレロ」に関してです。
                   
                  この「ラリルレロ」とは、当然に【神は言葉なり】の言霊でアイウエオの「ラ行」のことです。私はこの「ラ行」の言霊に関してこれまで世に大ぴっらに説いてはおりません。少し、世間に説くには早すぎると思っていたからでした。
                  自分が浮かばれていない霊を救済する時だけに、密かにこの「ラリルレロ(ラロルレリ)」を唱えていただけです。
                  霊を助けると言うことは、単に助けたでは意味がないのです。その霊が間違っていれば悔い改めさせて、浄霊をして魂の汚れを洗ってやらないといけません。そうしたことをしないと、無条件で天に帰らせるなど出来ないからです。「ラリルレロ(ラロルレリ)」の言霊だけで霊を引き上げることには抵抗感があったからです。

                   
                  しかし、どなたかははっきり解りませんが、ほとんどの御神霊が「ラリルレロ(ラロルレリ)」を言われない中で、そうした内容が出たということは、それが天帝の思し召しなのでしょう。

                  大本教の出口王仁三郎聖師さんはアイウエオでなくて「アオウエイ」で説かれました。この場合は「ラリルレロ」は「ラロルレリ」となります。ただ、大本教ではアオウエイの説明はされても、ラリルレロの説明はしていないのです。
                  私自身は言霊修行の過程で霊を上げる「ラリルレロ(ラロルレリ)」を知ったのですが、それを霊感者や霊能者に教える神達はおられなかったようです。ほとんどの霊が言霊すら理解していないで神霊の振りをしているからです。
                  別にラリルレロでもラロルレリでも支障はありません。大切なことは「ラ行」を唱えることなのです。そしてその唱え方なのです。一種の作法です。いくら御神霊が「ラリルレロ」は神の御名(おんな)を言われても、それだけでは作法が整っていません。
                   

                  効き腕が右利きの方ですと、右肘を少し折り曲げた形で手の指先を上に差し出し、その指先2本で最初は小さな円を描くようにして、「ラリルレロ」でも「ラロルレリ」でもいいのですが、ラ行の言霊を出して円を徐々に大きく弧を描いて唱えます。
                  これは何かと言いますと、地に落ちている霊達を天に上げる時に使うのです。そして最後にその指先を「オーーーーーー」と唱えながら天に向かって指先と手を上に伸ばすのです。霊に渦に乗って天に帰れよ天に帰れよと助勢するのです。

                  仏像などでは右手を上に差し出した像があるかと思います。そうした形です。ただその時は、指先で小から大にと渦巻き状に円を描き、ラロルレリ(ラリルレロ)と唱えることなのです。 そしてラリルレロ(ラロルレリ)の終わりに神社で祭典の時に見られる御祭神に天に帰っていただく作法として、「オーーーーーー」と言霊を上げる要領と同じで天に帰るなのです。最初はオーの言霊は力強く、そして徐々に小さな音量のオーと息を伸ばすのです。
                  私が既に出した言霊鍛錬法にアーとかイーとかオーとかあるのは、そうした言霊を鍛錬する為なのです。

                  この方には神の御名(おんな)として、【ラリルレロ(ラロルレリ)】を寿(す)ぐしなさいと出たようですが、それはどこまでも霊を「天に帰らせる」働きのことなのです。
                  天に帰る。天に戻るは魂の本源ですから、それは実行すればいいことなのです。神の存在を信じない人であれば、いくらそうしたことを教えても実行されようとはしないでしょう。

                  それはこの地球に留まっている多くの霊を天に帰らせる時節に来たからかも知れません。

                  さて、この土中に実ったの「実の終わり」は霊達がこの地球から離れて【陽光】に向かうことで、通常ならば陽光は太陽の光がさんさんと降り注いで来る意味なのですが、地上界ではなくて地中霊界に立替の光が入った意味だとも考えられます。
                   

                  これから先、こうしたことが世の表に出て来ます。私はそれが表に出て来た時の為にブログを閉めずにおきますが、ブログの更新は不定期となります。何かあれば書きますので、時にはチェックをしていただければ情報は得られます。

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                  告げるべきことは告げましたので、言葉の仕組み「米」教の解説は終了させていただきます。これからは立替の嵐の中を突き進む

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                    これまで使用しているブログ会社のエディターがトラブル続きで、記事が何故か「非公開」となるトラブルまで出ましたので、15日付けの記事ですが16日付けで再掲します。

                    私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声から【私はこの世の幕を降ろすに当たって、人類を助ける為にそなたをこの世に使わした。この国は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国である。そなたはそれらの仕組みを知って人々に告げなさい】でした。
                    この日本は世界に唯一つの国であり、その旧約聖書の神と名乗る神の教えが満ちあふれている?。まったく意味など解る話ではありませんでした。
                     

                    その旧約聖書の神と名乗る声はそれだけでなく、私に一種の【脅し】をかけて来ました。【もしも、そなたがそれをしなければ、そなたは二度と天に帰ることなく、この地球という星で永遠に輪廻転生の中で暮らすがよい】と。
                    それは、私自身もその神の言葉に従わず自分の幸せにかまけていれば、二度と天には戻れないということなのです。
                    今回私がしていることは自分が天に戻りたいからではないのです。私は自分に課せられた任務があるならば、その任務から逃げたくないだけのことてす。責任感です。その結果、天に戻るも天に戻らないのも自分が為したことの結果論に過ぎないからです。
                    そこにあるのは蛇霊の囁きから脱却して【天(エデンの園)に戻るチャンス】を掴むのか、それとも放棄するかです。
                     

                    子供であった私は意味も解らずおりましたが、昭和「五十五」年に私の身の上に起きた摩訶不思議な出来事から、その時が来たと覚悟を決めて神霊世界に修業にと入り、大本教神諭が予告する【九つ花】を紐解いたしだいです。
                     
                    その九つ花から【五十六億七千万の弥勒(369)】の意味を知り、その「真柱」となる仕組みから【ラ神論】に入り、お釈迦様の本当の悟りが「人に内在する良心神」であり、朝鮮に残されていた最後の審判前、人類救済の為に【米一字】の教えが起きる。その【米】の教えに従った者達の上には天罰は降りないが、そうでない者達の上には天罰が降りるがあることを知りました。

                    どう考えても、誰が考えても「米」一字で教えなど出来るものではありません。
                    だが、その【米一字】の仕組みを知った時、【言葉で仕組んで来た神】とはスピリチュアルで言うところの霊の様の存在ではなく、世に出ておられる神々の段階ではない存在だと認識したしだいです。

                    ただ、この「九つ花」は大本教神諭に【誠の者】でないとそのお世話が出来ないと予告されたように、

                    「誠」の意味が解らぬ人達に対しては【豚に真珠】【猫に小判】の教えなのです。

                     

                    何故?。このような【言葉】の仕組みがなされているのかと私自身考えるに、霊界を見聞して来ますと解りますが、非常に【嘘】を言う霊が多く、真実が掴みにくいがあります。
                    大変著名な霊能者の方が私に言われたのですが、「神霊の声が聞こえる人は万人に一人は出て、仏(一般霊)の声を聞ける人は千人に一人は出る。そうした人が万人修業を積んでも本物は一人しか出ない。それ以外の人達は霊の【嘘】の言葉に踊らされるなのです。

                    この修業を積んでもなかなか本物にはなれないは私の最初の師匠も言っておりましたが、その過程の中には【お試し】と称される【嘘】や【欺し(騙し)】がこれでもかこれでもかとやって来るです。特に神霊に化けた霊の言葉に騙される注意を受けました。
                    最初から【御神霊や天使の言葉には嘘が無い】と思っていると、おまえはバカだとなるだけなのです。

                    神霊世界は、欺されたおまえが悪いなのです。

                    霊能者と呼ばれても霊能者千人、万人に一人しか本物級は居ないとされますが、甘く見ても優秀な霊能者は百人に一人程度で、ここからも99%の霊能者は邪神に踊っていると言われているわけです。
                    それ自体は大本教神諭予告、この神(国常立尊)が神々を誑かして使っているであって、「言葉に狂わさせて」いるなのです。



                    霊が出す言葉に狂わされるのではなくて、言葉の仕組みに「真実」があるなのです

                    為には、神々の【嘘の皮を叩いて、誠の骨とせよ】です

                    夢々疑うことなかれでなく、夢すら疑ってかかれなのです


                    神霊の嘘の言葉を突破して来た者だけが本物と成る道を行く

                    その霊能者の方が、【あなたはその本物と言える数少ない一人です】と告げられたのですが、私が霊能者の道に進むことは許されてはおりませんでした。
                    私の最初の師匠は豊受様のお代で、豊受様によれば当時の日本では10本指に入る霊能者と告げられておりましたが、その師匠から【貴方は低い霊的世界は見えませんが、高い霊的世界が見える方です。貴方に見えている霊物に間違いはありません】と告げられたのですが、これは霊能者としては使い物にならないなのです。この世の霊能者は低い霊的世界に関われてナンボなのです。そちらの方が優秀なのです。

                    ほとんどの人が困っているのは【霊障】などであり、その原因は「カルマ」などもあるのですが、動物霊と呼ばれる存在のものが多くて、それに対処するには蛇霊や狐霊に対する霊力が要るからです。蛇霊や狐霊を押さえられないと、現実界の解決には向かわないからです。既存の神霊界はこちらに頼っているのです。
                    霊界マッチポンプで知られるように、小さな蛇の霊障に困って大きな蛇霊が支配するところに行くと問題が解決された。これらは全て今の霊界が蛇霊の力による支配から来ているからです。

                    霊的世界の低い段階においては、多くの霊能力がある方は霊的世界を見ることが出来ます。しかし、その霊的段階が高い世界に向かって行きますと、まったく見えないが起きて来るのです。アクセスする世界が違って来るからです。
                    自分が交信している霊が自分は低い段階ですと言っている霊ならば、知らないことは知らない。解らないことは解らないと答えますので問題はないのですが、その霊が自分は高い霊だと見せかけようとしてくると、それらの内容は当たらない。予言し来ても【嘘】となって行くのです。

                    私の最初の師匠は豊受様のお代で、阪神淡路大震災や島原普賢岳爆発など数々のことを事前に言っており、予言者として知られる大本教の出口王仁三郎聖師の予言者のレベルには達しておられませんでしたが、スピリチュアルでミカエルとかガブリエルと称する霊の何の中味も無いメッセージとは異にしておられたのです。
                    多くのスピリチュアルで宇宙人からのメッセージと称されるもので、これまで当たった試しがないことは周知の事実です。低級霊ほど自分を高く見せようとして【嘘】をつくことが非常に多いからです。為にはデタラメの中をくぐり抜けなければならないのです。

                    私の最初の師匠のように豊受様のトップ級お代とか、此花咲耶姫様のトップ級のお代まで進むと、御神霊から的確に当たる予言が聞けるようにもなるのです。

                    神霊サイドからすると、どこどこに大地震が起きると解っていても、それを人民に事前に告げる義務などどこにもないのです。お代となる人の力量しだいで、事前に教えてもらえるなのです。

                    神霊などは「豆ちゃん」みたいに小さくもなれば巨大にもなります。龍神ともなれば何十キロも長さがある存在が人の胎内に入れるほど縮小もします。10センチ四方の神棚が10キロ四方の神苑にもなる世界なのです。​そうした目に見えたサイズでは判断出来ない世界なのです。

                    私が2番目の師匠とした方は言霊師で、その霊力は目を見張るものでした。神仙界で修業されただけのことはあり、そんじょそこらの霊能者の比ではありませんでした。が、その御祭神は【国常立尊】とのことでしたが、本当の「国常立尊」様ではありませんでした。
                    結果的には、それほどの霊能力を持ちながら「ニセ神」に踊らされてしまったのです。それは【猫科】の姿の神霊でした。
                    その2番目の師匠は、自分が祭神として奉っている御神霊が「猫科」であるこことをご存じではありませんでした。この世を去るまでそれが本当の「国常立尊」だと思っておられたわけです。

                    霊はどのようにも化けることが出来ます。しかし、いくら化けていても蛇霊、狐霊、狸霊、猫霊等と見破られてしまったならば、それを見破った者を殺す以外にはどうすることも出来ないわけですが、見破られた時点で力負けしているのです。
                    私もたまに霊的相談を受けますが、霊能者をしているのではないのでほとんど解りません。ところが、たまにその相談の原因となっている霊の姿が見えることがあります。そうした霊が見えたらその問題は解決します。その正体見たりなのです。

                    だが、最初から自分は蛇霊、狐霊、狸霊、猫霊等と正体を告げて来ていれば何の問題も無いわけです。嘘を吐く必要が無いからです。なまじその正体を隠そうとすることから問題が生じるわけです。

                    私は自分が子供の頃に聞こえていた【旧約聖書の神】と名乗る声が本当にそうした存在なのか知るよしもありません。私を見た霊能者は数知れずですが、そうした中で豊受様の他に7〜8名の霊能者から貴方の本守護神は「国常立尊」様だと告げられたことで、そうかと思っているだけのことです。
                    まして今の世を終わらせて、嬉し嬉しの新しい世の到来など信じろと言われても途方も無い話だと私自身心得ています。
                    しかしながら、【この国(日本)は私の教え(日本語の仕組み)で満ちあふれた世界で唯一つ国である】は、認めざるにはおえないのです。


                    もしもこの日本が【世界の大陸ひな型で無かったならば】
                    日本の国の重大性も解らずでした

                    ※南アメリカ大陸は隣接の「台湾」をひな形とする
                     


                     

                     

                    出口王仁三郎予言の【美濃か尾張】から、ス(十三)神の【富山】がなければ
                    国道「41」号線には気がつかず
                    イエスとモーゼの「41」の意味も解らずにいたでしょう

                     

                     


                     

                     

                     

                    もしも大本教神諭が予告した【九つ花】が九の数理版と気がつかなかったならば

                    大本教神諭「ダルマ大師」として現れたで

                    今の世がダルマ(真理)の七転び八起で「56億7千万」を知らせ、次は無限の【8の世】

                    【九つ花】は縦も横も斜めも369(みろく)となる仕組み

                     


                    朝鮮に残されていた予言、この世の終わりの教えが【米】型で無かったならば
                     

                     

                     


                    鍾馗神の案内で木星神とされる中国の【盤古大神】に拝謁して

                    大本教霊界物語、盤古大神から国祖「国常立尊」に神界の大政奉還

                    もしも盤古大神に出会っていなければ、日本語の意味すら理解していなかった

                     

                    日本の国に常に立つ御言とは、「日本語」のことではないか!
                     

                     

                     


                    中国の落水に現れた亀甲陣、龍宮の【音秘め】て咲くや【九つ花】

                    なごみ(753)役の女子に出会っていなければ、最後の舞台が見えませんでした

                     

                     

                     

                    昭和【五十五】年。私の目の前を真っ暗闇にして、地獄の底から響いて来るような恐ろしき声に告げられて
                    京都で「米」徴の旗場所で一人の女子を待つ

                    その女子は【ジンギスカン】の曲に乗り、「良子」と名乗るも白狐の霊
                    何で白狐がと首をかしげながらでした


                    大本教の出口王仁三郎聖師の蒙古行きの演技は【ジンギスカン(成吉思汗)】モンゴル大王。
                    女子達のみで歌い踊るジンギスカン(ユーチューブからお借りします)
                    https://www.youtube.com/watch?v=HkaLStTp8Bs
                     
                    二度とは燃えない嵐が吹くぜ
                    弥勒(いよいよ始まる改革力)世の永遠の地位や天に帰るチャンスを掴め
                    大本教神諭予告、上の神(者)が下に行き、下の神(者)が上に行く

                    ​天帝・国常立尊様に従い仕える神(者)達は新しい世の幹部として登用されます

                     
                    大本教から出された【節分の炒り豆にも花が咲く】
                    牛虎(ウシトラ)の鬼と云う【魂】に咲く花はあれど
                    全人類の肉体から一気に魂を抜くことは可能にて
                    世の大立替を完全否定は出来ないのです


                     
                     
                    人の肉体の目には特殊なシャッターが仕組まれており
                    全ての人に聖書の太陽も月も星も見えない暗闇世界を見させることも可能


                     
                    私は霊能者はしていません。だが霊的世界を見聞して来て、個人の存在としてだけならば奇跡力を見せる御神霊は多数居られます。
                    しかし、そうした御神霊達にこれだけの仕組みが出来る御神霊は居られません。もしもこうした仕組みが解っていたならば、どうしてこれまでそうしたことを何一つ言わなかったかと聞きたいものです。
                     
                    私の役目は、旧約聖書の神と名乗る声が、【この国(日本)は私の教えで満ちあふれた世界で唯一つの国であり、そなた一人だけにはその仕組みを見せるので、それを人々に告げなさい】でした。

                    最後の審判は天人界に行った方が天人達から聞いたと言われるように、【各自の良心神】の点数となりますので私もそれに介在は出来ません。為に【ウシトラ(牛虎)の魂論】で、各自の魂に内在する良心神の点数の嵩上げを説いてまいりました。
                    私は自分に与えられた任務の内、【神の仕組み】を告げる役目は遂行したと考えています。ただ、私の全ての任務が終了したではありません。

                    豊受様から、貴方は立替の大嵐の中を突破しなければいけないと告げられておりますので、皆さんと一緒に私も大嵐の中を突破したいと思います。
                     
                    もう立替の峠の中でも大峠の大峠の入口にと入って来ています。その大峠の大峠の入口として起きたのが【熊本の大地震】なのです。また日本各地に現れた「熊」による被害です。この大峠は米教を学んだからと言って突破出来るものではありません。
                     
                    米教を学んだ者は天帝神に従う神々の御守護を受けるので、大峠を楽に行けるだけのことです。私もその大嵐は受けなければなりません。逃げることは出来ません。
                    そうしたことで、これまでのような長い説明をしてきたブログの内容は終わらせて貰います。学びたい方は過去のブログ等を遡って読んでください。

                    私が受けている内容は【そなたのHPやブログを読んできた者達には、魂の点数に加算が起きる】でした。
                     
                    ですから、以前の内容も読んでいただければ魂の点数に加算は裁きの日まで生じるはずです。メール等で私が説いたHPやブログを読むことによって自分が変わって来たと言われるのは、その為です。魂に浄化も起きて、人を変えて行く為の教えです。

                    大本教神諭予告、【心の立替・立て直し】の神の仕組みです

                    この7月の半ばまでに、説くべき事は全て説くようにと出ましたので、ここ最近はブログの更新がかなりのハイペースとなりました。7月15日付けで、なんとか総まとめをすることが出来ました。
                    一度、これにて中締めとさせていただきます。

                     
                    どうも長い間、ありがとうございました。読まれた方に御礼申し上げます
                     
                    だが、誰がいったいこんな仕組みを考えられたのでしょうか?
                     
                    それとも単なる偶然の産物なのでしょうか?
                     
                    この仕組みに創造神(天帝)の存在を見る神(者)は幸いなり

                     

                     

                     

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                    神の舞台の役者として、私に与えられた前世役は【源義経】で謎解き

                    0
                      今回、そなたの前世は誰であったのかを世に告げるべしと出て来ました。

                      私が子供の時に私に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、【そなたの前世は悲劇の武将であった。そなたはあまりにも心根が優しく、人を疑うことをしなかった為に、そなたを利用しようとする者達の魂胆が何一つ解らずに、それらの者達の魂胆によって結果的に悲劇の武将となってしまった。
                      今生のそなたにとって必要なことは、【人の魂胆を見抜く力である】と告げられたのです。
                      しかし、その武将が誰であるかは一切言われませんでした。前世は前世であり、大切なのは前世の自分云々では無く今生の自分です。今生の名をもって演じるべしなのです。

                      いくら自分の前世は某(なにがし)だと言ったところで、その時代と環境が再び戻って来るなどあり得ないことだから意味がないわけです。昔に戻ってやり直しなど出来ないからです。ですから前世にこだわる必要はどこにも無いわけです。


                      私は豊受の神様から【貴方は言葉の神】とお呼びする方ですと告げられて、これまで日本語に仕組まれた「言葉の仕組み」の解説に従事して来たしだいです。そこに自分の前世など要らぬことだったからです。

                      今生の私に課せられたのは、過去世で失敗した人の魂胆を見抜く力を磨くでした。すると不思議なもので人の表面ではなくて、その人の心の内を知るに向かって行きました。表面はいくら善人ぶっていても、中味は悪が見えるようになって来たのです。人が持つ魂はその汚れを隠すことなど出来ないからです。
                      また、人の魂胆とはそれが正しいとか悪とかではなくて、自分の家を守ろうとか地位を得ようとか世の中のしがらみの中に置かれてしまって、人が本来持っている大切なものを失うに入って来るのです。そこに「魂胆」があるのです。

                      私が【人に内在する良心神】を説けたのも、その人を外見や学歴や職業等の表面で判断しないで、全てはその人の魂胆を見るがあったからだとも言えます。

                      誠や義の者に裏表は無いが、誠や義が無き者には裏表(魂胆)がある


                      私が豊受様の命により現在地に引っ越して来て5年ぐらい経過した忘れもしない平成2年の大晦日の夜の0時直前から、私の家に大ラップ現象が生じました。その当時はその師匠の元を離れていたので、他の霊能者の方を頼って、その大ラップ現象を鎮めてくださる神々を探しましたが、どなたも鎮めることが出来ませんでした。
                      稲荷様とお不動様の行者をされていた霊能者の方から、この大ラップ現象は日本国中のどの神をもってしても鎮めることなど出来ない。その土地に行けと言ったあんたの最初の師匠が、それを言った豊受様が責任を取るべきことだ。これを鎮めることは出来るのはあんた以外には無理だと言われて、やむなく自分で鎮めるに入ったのです。

                      約40日間ほどは夜はほとんど眠ることが出来ない有様で、幸いに仕事は机に座っている仕事でなかったので、仕事の合間を見て少し眠っていました。それでも車で外に出なければいけません。睡眠不足で電柱にぶつかりそうになったりガードレールにぶつかりそうになったり崖から転落しそうになったりで、よく命が保てたと思います。

                      その家から引っ越そうかと幾度も考えましたが、豊受様から命じられて母親共々全財産を注ぎ込んでの家であり、他に財産は無し。そんなラップ現象を起こしている家を、霊能力が無い方なら何も感じないかも知れませんが他人さんに売るなども出来ません。必死の思いで祝詞や経典を上げ続けていたのです。そこまで追い詰められたと言えます。

                      あるサイキッカーの方から、そこを鎮めることが出来たのは貴方だからであり、他の人や神々には出来ないことだったのです。しかし、今度起きたらもう貴方にも止められません。貴方がこの世を去られる時が三次元世界の終わりで、なんとか貴方がこの世を去る日まではそこを死守してくださいと言われましたが、私も老いたので今度起きたら止めることなど出来ないでしょう。体力的にも難しいのです。

                      その夜は眠れないほどの大ラップ現象は約40日間ほどで終了しましたが、ラップ現象そのものは「平成3年4年5年」と丸3年間も起きていました。今にして思えば【345(みよいづ)】の型演技だったのかも知れません。
                      その後、私にをその地に行けと命じられた豊受様に話を聞く為に最初の師匠のところに行くと、【やっぱり豊受様が言われた通り。どの神様にも出来ないことを貴方はされてしまわれた】と言います。確かに最初からこの神業が出来る者は神では無理で、人間であるそなた一人と言われてはおりましたが、詳細を言われないのであまりよく意味は解りませんでした。私にすると、過ぎ去ったことはどうでもいいなのです。
                       
                      それらが落ち着くと、真っ暗闇の中に首だけが晒された武将の頭だけがあり、私はその武将の首に向かって「弥勒の世は間近です。もう過去の恨みや辛みは忘れましょう」と言ったところ、上空から黄金の光が入ると周囲は明るくなり、その武将の首はカット目を見開き、私に向かってニッコリと微笑んだのです。それを見た私は「よし」の一言です。
                      その翌日、その武将の霊は緋色の鎧を身にまとい、私の家の仏壇を拝んでいます。その配下に弁慶のような姿の者達もいます。私にすれば何故に私の家の仏壇を拝んでいる?。です。
                      ただ弁慶さんらしき霊がその武将霊に従っていることから、もしかするとこの霊は「源の義経」さんかの疑いが生じました。
                       
                      その武将霊が私の横に来た時から、私に言葉の【発想飛び】が起き出したのです。私の言葉の解釈はこの【武将霊】の存在から起きたのです。それが仮に「源の義経」さんだとしても、どうして言葉の仕組みの解読とつながるのかよく理解は出来ませんでした。
                      そして私が見せられた物は「戦艦陸奥と長門は同型艦」。陸奥の国から長門の国の下関まで本州の端から端へと転戦したのは「源の義経」となります。
                       
                      その後、この武将霊は私の家の神棚に移り、この武将の配下霊と思われる侍姿の者達がその武将霊のことを【御館(おやかた)】様と呼ぶことから、私も何時しかこの武将霊を【御館(おやかた)】様と呼んでいました。
                      その武将霊を見ていて、これは単に「源の義経」だと言う霊では無いことが解って来たのです。それは剣を持てば神界随一の剣の神である【御劔(みつるぎ)大神】がその従属神としての儀礼を取られたからです。 御劔(みつるぎ)大神を従属神として従えるといことは、今から800年ほど前の平安末期に出られた武将の「源の義経」さんではどうにも説明が不可能なのです。
                       
                      いったいこの「源の義経」霊は何者だ!。神々や諸神よりも霊界では格上ではないか!。
                      その兜には太陽と月があしらわれ、その旗は「○十」の薩摩紋で軍馬を並べる轡(くつわ)紋。白馬に跨がり、霊軍や無数の白狐達を従えるその姿は、単に「源の義経」霊とは言えないのです。
                       
                      私が東京の著名な霊能者に霊査を受けたところ、【貴方の背後には神界を統一できるだけの力を持った存在が居られます】と言われます。神界を統一出来るだけの存在と聞かされて、「国常立尊」様のことだろうかと思い。どんなお姿ですかと尋ねしましたところ、たいへん若い侍姿の方だと言われます。
                      私はたいへん若い侍姿に首を捻っていましたが、その白馬に跨がった武者姿は非常に若々しいものでした。美少年と言うのか美青年です。無論、私とは似ても似つかない姿の存在です。

                      私が21〜22歳の頃、平泉の毛越寺に行った時、あまりの懐かしさに泣いていました。自分はこの地を知っている。住んでいたことがあるです。しかし、それ以上のことは解らないです。私が最初の師匠と伏見稲荷山で修業している時、その師匠に御神霊が降りてその師匠がふらふらになったことがあります。
                      その時、その師匠に降りたのは「木曽御嶽山の神」であり、私に吉野山の脳天大神の元に参拝せよです。その吉野山に入った時、私はまたもや泣いていました。初めての吉野が自分には何故か懐かしい土地だったからです。

                      私の元に自分は「国常立尊」様に仕える者だと言う方からメールが来まして、その国常立尊様が「貴方の前世は明智光秀」だと言っておられますと言われましたが、確かに明智光秀も悲劇の武将ですが、その方が私に言われる「国常立尊」の神示よりも、私の前に現れた武将霊は自分は何者とは何一つ言いませんが、私にはその霊が「源の義経」霊だと確信が出来たのです。
                       
                      巷には、自分の前世は「源の義経」であったと称しておられる方達は多数いられます。私はそうした自称の方を別に「ニセ者」とは言いません。逆に私の前世は「源の義経」だと言ったならば、そうした方達から今度は私が「ニセ者」と言われてしまうのが霊的世界の実情です。自分の前世など確かめようがないからです。
                      私はその武将霊を見ていて、自分の前世は「源の義経」であったとは言いません。ただ神の芝居の舞台の上では、その若武者姿の霊は間違いなく「源の義経」の役割を演じておられるなのです。
                       
                      その霊が本当の「源の義経」であるのかどうかの真偽は別として、その霊から解って来たことはその魂は源の義経として世に出る前には【素戔嗚尊】と呼ばれていた時代があったなのです。
                      何故にそれが言えるかと言いますと、源の義経の生母であった「常盤御前」の魂は【豊国姫】の系譜であったことが掴めたからです。
                       
                      大本教神典においては、【素戔嗚尊】は【豊国姫(坤金神)】の子であったと記されています。それが時代が降って、「源の義経」と「常盤御前」として再度親子関係が演じられたということなのです。時代を超えて繰り返される「霊界物語」となるわけです。
                      大本教によれば大本教で聖地とする「本宮山」は豊受姫が降臨された場所としますが、それ以前に「素戔嗚尊」が母である「豊国姫」の亡骸を葬った場所としています。綾部という土地は素戔嗚尊と豊国姫が神代に存在した土地ということです。
                      大本教霊界物語に、「この仕組みに三千年」かかったとありますが、とんでもない長い歴史の仕組みの中で神の芝居は演じられて来ているなのです。
                       
                      大本教の出口王仁三郎聖師はこの仕組みを演じる為に、「源の日出雄」と名乗って蒙古に渡られました。モンゴル大王(ジンギスカン)の型を演じる為です。日本における源義経は蒙古に渡ってジンギスカンになったの伝説です。無論そんなことは事実ではないでしょうが、何故にそうした仕組みがなされたかなのです。
                      出口王仁三郎聖師の蒙古への演技は既に「源義経」演技であることは知られていますし、また出口王仁三郎聖師は他に「素戔嗚尊」としての演技もなされたわけです。
                       
                      そこにあるのは、
                      素戔嗚尊=源義経の神の舞台の演技なのです
                       
                      出口王仁三郎聖師が蒙古に渡る時、源の日出雄と名乗られた理由は、大本教で日之出神の演技をされた出口日出麿さんの日之出神も予告の為のニセ型で、「源の義経」の演技に【真性天照大御神】役割も入っているからです。

                      大本教出口なお開祖の娘であった福島久さんに降りた「義理天上日之出神」などは完全に引っかけだったのです。私は「日之出神」の正式名を豊受様から聞かされて、正直唸りました。神界の機密はそこまで深いのかです。その豊受様が私に明かされた日之出神の正式神名は今日まで誰も言っていない神名です。また私も世には明かしていません。
                       
                      為に源の義経とおぼしき霊の兜には、太陽(天照大御神)と月(素戔嗚尊・月夜見尊)があしらわれているのです。
                       
                      では、何故に神の舞台に【源の義経】の演技が必要だったのでしょうか?。
                      それは聖書、【私は義の者が居るならば人類を滅ぼさないが、義の者が一人も居なくなれば人類を滅ぼす】の
                      最後の【義の者】の意味からです。義の経
                       
                      私が驚いたのは、私の神霊界修行の初期の頃に私を守護してくれていた日蓮さんとその弟子達の霊が、その「源の義経」らしき霊の着替えのお世話をされていることでした。その衣装とは「白衣」ですが【白蓮】の意味する白衣でした。
                       
                      南無妙法蓮華経とは、サンスクリット語で「私は白蓮の様な仏様に帰依します」の意味だとされています。別に「南無妙法蓮華経」と連呼するではないのです。
                      妙法蓮華経の「無量寿義経」を重要視される方の中に、この「義経」は源の義経のことだと言われる方もありますが、その霊的映像を見せられた時、必ずしも間違った解釈でもなかったようです。
                       
                      義(我は羊)の経は無量なり
                      泥の中でも咲く、汚れ無き心に限度は無い
                       
                      私が霊的に見て来た白馬に跨がった若い武将霊は日本では「源の義経」となりますが、聖書のヨハネの黙示録では白馬に跨がった「神の言(ことば)」と表現されている存在のことかと読みました。
                       
                      貴方の前に緋色の鎧兜の美青年が現れたならば、それは【源の義経】役の演技霊
                       

                      それが何故に【源の義経】役でなければならないのか?。他の役どころではいけないのか?。そこには、そういうことだったのかと後で驚くことが隠されているからです。為にこれは「源の義経」の演技がどうしても必要とされるのです。
                      大本教では役者不足で演じきれなかった「霊界物語」のスケールの大きさは、まさに無量と言えます。
                       
                      今回、私にそなたの前世を世に明らかにせよと出ましたが、それが本当に私の前世が【源の義経】であったかの証拠にも証明にもなりません。ただ、私が見て来た霊界で【源の義経】の役を演じておられる若い侍姿の霊の行動で、私は「言葉の仕組み」を紐解いているということなのです。

                      それこそ、私が子供の時に旧約聖書の神と名乗る声から告げられた【神の舞台を演じる役者】達なのです。
                      そんなことは自分には何の関係も無いと言い方が圧倒的大多数のはずです。しかしながら、大本教と呼ばれる宗教が私達に何を教えようとしていたのか?。特に出口王仁三郎聖師の演技を見るならば、私は大拍手をします。
                      我さえよければそれでよいのか!。創造神がどうしてこんな仕組みをなされたのか?。何も考えないで、裁いていただいて結構ですと「悔い改めに」行こうとしないのであれば無限(∞)となる【8の世】においては、無限に置かれかねないのです。
                       
                      僅かな瞬間の時間の為に【己の我を張るな】なのです
                       
                      創造神は貴方の「感情」など何も聞いてはいないのです
                       
                      自己の感情論に流されることは邪神の囁きに乗ったと同じ

                       

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